表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

第14話 Et in somnia ego

ホットサンドメーカーは生活必需品。毎日の忙しい生活に潤いを与えてくれます。買え。

4ヶ月ぶりの14話!

 まさに永遠の闇というような夜、ぼんやりと明かりの灯る場所が一つだけあった。そこからは、虫の音に紛れて水の流れる音が響いてくる。

「ホラァ、いわんこっちゃない。無理するからそういう事になるのよ。」

「ヴッ…オェェ…ヴッうう〜」

 そこには、トイレに涙と鼻水と吐瀉物を溜め続ける廣人と、その背中をさする蘭…の姿をした夢人、アニマが居た。

「アナタがあの状態から落ち着いてられるわけないじゃないのヨ。前々から限界だったのに…。」

 彼女はぐちぐち言いつつも、優しく廣人の背中をさすり続ける。

「…ヴっ、うるさい…、なんッ、でなん…デ、なっ、ゲッ、ゲホ…」

「…落ち着いてから喋りなさいな。」

 廣人は一段と激しく胃の中身を追い出した。トイレが異臭に満たされ、二人ともそれに慣れてきた頃、彼はようやく落ち着きを取り戻した。

 散らかった部屋の真ん中に敷かれた煎餅布団の上に正座で向かい合う。姿勢がかしこまったせいか、一瞬気まずい空間が生まれてしまったが、アニマの方から会話を促してくれた。

「ホラ、聞きたいことあるんでしょ。」

「じゃ、じゃぁ…。」

 廣人は、自分でも驚くくらいに話すのが億劫になっていた。かつてのコミュ症が発作を起こしたのか、彼女に対してそんなにも敬虔でありたかったのか。

「ど…どうやって束縛を解いたんだ?」

 先にあまり重要でなさそうな事を聞いてしまう。アニマの方はというと、首を傾げて?を頭に浮かべている。

「どうやって?いや、普通に。関節外して。」

「関節外したらいけるモノなのか…?てか、勝手に人の身体の関節を外すな。」

 アニマは照れ隠しのように笑いながら頭を掻いている。まるで反省していないその仕草に廣人は頭を抱えた。

「それより、もっと聞きたいコトないの?」

「…,なんで俺の背中さすってくれてたんだ?一応敵どうしだろ。」

「私は『アニマ』よ。あくまでもアナタの一部であり理想でもあるの。男の人の頭の中なら全部分かるワ。」

 彼女はやや食い気味に答え、自信有りげに胸を張る。その仕草は蘭とよく似ていた。廣人は、そこでようやく、「アニマ」という単語の意味を思い出そうとした。前々から聞き覚えがあるような気はしていたものの、彼の記憶の引き出し自体が忘れられていた。

「ナルホド。俺の理想が混ざってる訳か。…じゃあわざわざ質問引っ張り出さなくてよかっただろ!」

「だってそうでもしないと、アナタ喋らなくなっちゃうじゃないの。口に出して初めて思いは伝わるのヨ。」

 廣人は良さげな事を言うアニマに腹を立てたが、いつの間にかいつもの調子で話せているうえ、心なしか体調も回復してきているように感じていた。そのせいで文句を言えなくなってしまっていた。

「…理想の女に殺されたいなんて思ってないし…。」

 絞り出した嫌味であった。

「マァ、それは私の仕事みたいなものだったし…。アナタだけのモノでもないし…。」

 途端に歯切れが悪くなった。彼女は突然に廣人の肩を掴み、布団に押し倒す。

「ホラホラ、早く寝なさい。今夜だって敵は来るのよ!」

 無理に寝かせようとするも、廣人には一切の眠気が無かった。彼は簡単にアニマを押し返すと、真剣な口調で訊ねた。

「男の頭の中が分かるって事は、八作やセバスさんの事も分かるんだよな?」

「あー、ソレ聞いちゃう?モチロン全部入っちゃぁいるケド…。わざわざ言わずにいたのに…。あっ!ソレよりも、あの娘は大丈夫なの?」

 最後の一言に廣人は呼吸を止めてしまった。冷や汗を流し、両目が違う方向をぐるぐると向いている。アニマとしては、質問に答えたくなかったので話を逸らしただけなのだが、廣人にとっては強烈な精神攻撃になってしまった。その言霊は廣人を起き上がらせ、外へ向かわせる。

「ああっ…、あっ、あっ、あっ、あぁ…。」

「ちょっと、危ないわよ。」

 アニマが急いで止めようとするが、錯乱状態の廣人はアパートの階段の最後の段差で派手に転んでしまった。


 心地よい声が遠くから聞こえてくる。あの世から誰かが自分を呼んでいる時、まさにこんな感じなんだろうなと思う。このままずっと寝ていたい。

「起きなさい!オーキーナーサーイー!」

 廣人はガクガクと上半身を揺すられ、意識を取り戻した。辺りを見回してみると目の前にはアニマ、それも本当の姿での彼女である。他は一面の砂漠。灰色の角張った石がときおりはみ出ている。

「ココは…夢の中?」

「そうヨ。アナタったら、夢の中でもグッスリなんだカラ…。」

 この砂漠は、渇き切った心によるものなのだろうか。地平を眺めるだけで胸の中が干からびていくようである。蜃気楼があらゆる景色を歪めて見せる。

「そうだ、夢乃、夢乃は大丈夫なのか?」

 廣人は縋りつくようにしてアニマの両肩を掴んだ。アニマは穏やかな表情でその手を外し、静かに頷いた。廣人は全身の力が抜けたように倒れた。夢乃の生が彼の心を落ち着かせた

「って、それじゃ寝てる場合じゃないな。早く起きないと。」

 今度は現実世界での安否が心配になる。廣人は何か期待するようにアニマの方を見た。彼女は求められているものを察したように答える。

「ワタシには起こせないし、起こさないワ。」

 そうだ、アニマは敵なのだ。「起こさない」と聞いた途端に思い出す。何故定期的にそのことを忘れてしまうのだろう。

「なんだ、ここで俺を殺すのか?」

「イヤイヤ、とんでもない。そんな事しないわよ。…多分近くにその娘もいるから、とりあえず探しましょうか。話でもしながら…。」

 廣人に危害を加える気は無いようである。

 二人は果てない砂漠の上を歩き始めた。廣人が飛んで移動した方が速いと認識し始めた頃、アニマが口を開いた。

「あー…、そういえばアナタが聞いてたコトだけど、答えてなかったわねェ。」

「え?なんだっけ。」

「アナタの友達のアタマの中、知りたがってたでしょ?」

 そういえばと廣人は頷いた。暑い中かなりの距離を歩いていたせいか忘れていた。

「ホントは他人の記憶なんて覗くモンじゃないんだケドね。暇だし特別に教えてあげようか。」

 あまり気乗りしていない様子の彼女を見て少し気が引けたが、聞く事にする。

「…まず、あのバカの子ね。アノ子、特に何も考えてないというかなんというか…。あのお嬢様を夢で見て一目惚れしたってコトだけがその後の行動原理ネ。でも、ソレであそこまで本気になれたのは凄いワ。ただ、実際に出会ってから時が経つに連れて愛情が形骸化していったノネ。最期にはなんで自分が彼女を愛してるかも分かってなかったワ。」

「なんで…。」

「サァ?途中で投げ出さない誠実さはあった、というか自分でもソレに気付いてなかったカラねぇ。愛すコトに理由がいるかは知らないケド。他の子との青春を捨てても貫いた、深い夜、永い時を超えた恋の結末がコレだから悲しくなっちゃったワ。」

 アニマは遠い目をして空を眺めた。いつのまにか暗くなっており、星が煌めいている。

「…悲しくなったって、トドメはお前じゃなかったのか?」

 アニマは廣人の問いには答えずに話を続ける。夢乃は近くにいるはずだと言ったが、まだ見つからない。

「次は執事サンね。あの人は貧しい村で育っていたけど、勉強熱心だったようね。で、ある日その村にお金持ちの人が来てイロイロするの。線路を敷いたり、学校建てたりネ。執事サンはその人に見込まれて働くようになったワ。そのお金持ちの人がお嬢様のお爺チャンね。」

 蘭の祖父が本当にお金持ちで、慈善活動をしていたと聞いて廣人は驚いた。しかし、彼女の父があんな風になってしまっていだのだから、なにやら壮絶な過去がありそうである。アニマの言う通り、他人の記憶なんて覗いても幸せな気持ちにはならないと気付き、廣人は一旦音声情報をシャットアウトした。

 砂漠を吹き抜ける風に乗って砂の粒が皮膚の剥き出しの部分に叩きつけられる。クレーターまでくっきりと見える巨大な月が昇っている。月は明るいが、月明かりでは地上の明るさには不十分と感じた。

「…ーい……おーい」

 突然肩を叩かれる。

「アナタが途中から聞いてないコトくらい分かってンのよ。…全く、自分から聞いておいてその態度は無いワ。」

「…すまん。」

「いいのよ。聞きたくないコト、知りたくないコトあるだろうし。他人の記憶を見ない方がいいって言ったの私だしネ。」

「ところで、夢乃が近くにいるって言ったのも君だよね?」

 アニマは分かりやすく「まずい」といった表情になった。

「そ、そうだけど…なにか?」

「なにか?じゃねぇよ!全然見つからないじゃねぇか!なんかあったらどう責任とって…」

 その時、彼らの足元が急に不安定になった。一瞬にして腰まで砂に埋まってしまう。

「何だ…?流砂?」

「うああああああああッ!?」

 二人はあっという間に砂に呑まれてしまった。

 苦しい。これまで戦いを潜り抜けてきたのに、こんな所で死ぬのか。身体の中を砂が侵食してくる。もう叫ぶ事もできない。

「落ち着いて!マダ…まだ大丈夫…!」

 こんな状況で落ち着けという方が無理がある。しかし、廣人の手は強く握られた。その感触はそこはかとない安心感で包まれていた。

「ぐほっ!」

 衝撃で口に入っていた砂が飛び出す。周りは真っ暗で何も見えないが、流砂の下に洞窟があったようだ。

「…あっ。…ヨイショ!無事か?」

 着地点の砂に埋もれていたアニマに気付き引っ張り出す。手を繋いでいて助かった。

「何とかね。」

 彼女はそう言いつつ口や耳から滝のように砂を出した。ひととおり出し切った後、手拍子のような音が鳴り、この空間内に反響した。すると、廣人の腕のすぐ近くにぼんやりと明るい光源が現れた。

「うおっ!なんだコレ!?」

「ココが夢の中って忘れてない?」

 そういえばそうだったと、廣人は頬を掻いた。

「それにしても、どうすんだよ。こんなとこ出られんのか?」

「マ、進むしかないでショウ。」

 そうしてまた一歩踏み出した途端、廣人は柔らかいモノを踏みつけて転びそうになった。重心を後ろに逸らし、なんとか体制を支えて踏ん張る。背後ではアニマが触れずとも両手を添えていた。灯を下へずらして足元を確認する。

「ゆっ…夢乃!?」

 廣人が足を乗せていたのは仰向けの夢乃の腹ど真ん中であった。踏まれた衝撃のせいか、踏まれどころが悪かったせいか、はたまたその両方か泡を吹いてぐったりしている。

「何でこんなところに…。」

「あっ、ワカッタ!気配がどれだけ行っても強まらなかったの、ココにいたからなのね。ってコトは、もしかしてワタシ達、同じ場所グルグル回ってた?」

 その瞬間、廣人はガクっとその場にへたり込んだ。歩き続けた疲労と、同じ場所を回り続けていた事に対する空虚、そして気絶しているとはいえ夢乃を発見できた安心が一度に押し寄せてきたのだった。乾きっぱなしだった地面がほんの少し湿り気を帯びた。


「なんて事してくれたの!」

 怒鳴り声が響き渡り、文字通り暗闇を切り裂いた。目の前に見覚えのあるようで無い光景が開かれる。病院?しかし、こんなに部屋中真っ白な壁で明るい病室に来た覚えはない。ベランダの戸から西陽が差し込んで白い壁に反射している。また、声を荒げた人物も初めて会う人だ。少々太り気味な身体で、顔は厚めの化粧をしている。そして「なんて事」とはなんだろうか。状況が一切掴めない。しかし、相手の様子を見るに、相当頭にきているようだ。もしここで、「『なんて事』とは何ですか」などと尋ねようものなら、全力で首を締められそうである。

「ごめんなさい」

 とりあえず謝っておく。これが波風立たない最も穏便な行動である。生きていく上で必ず学ぶ現代人のスキルだ。とてもじゃない限り、これで切り抜けることができる。特に謝るべき状況でなくとも、「謙虚な人」イメージが付いて好印象だ。しかし今回は違った。どうやら「とても」の場合だったらしい。

「そんなのでいいと思ってるの?軽く謝って済むなら警察は要らないわ。」

 彼女は侮蔑するように見下して言い放った。では、どうすれば良かったのだろう。許してくれるまで謝り続けるのか?いや、それもダメだ。自分の意識が奥底からそれを認めてくれない。もう嫌だ。帰りたい。そう思えば思うほどに涙が溢れ出てしまった。

「アラ、泣いたら許されるとでも思った?泣きたいのはこっちよ!他人の人生奪っておいてなんなのその態度!あなたの愚かなお母さんはこんな時どうするべきかも教えてくれなかったの?」

 もう…何が何だか…助けて。僕が何をしたの?なんでお母さんが悪く言われないといけないの?どうすればいいか分からない。謝る事しかできない。これしか知らない。教えてもらってない。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいゴメンなさいゴメンなサいごメンナサイゴメンゴメンゴメ………」

 気付けば外は日が沈み切っていた。あの女性は目の前から消えていた。代わりに目の前には大きな病床があった。いや、先程からずっと存在していたが、意識外にあったのだろう。そこには誰かが横たわっている。そしてその誰かが本来謝るべき相手なんだろうと直感した。いくら謝っても、「誰か」は姿の写っている窓にすら顔を出してくれない。床がベトベトになっても顔面を擦り付けるようにして謝り続けたが進展は無く、中身の無い謝罪は空虚な闇夜に消えていった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………」

 最後まで謝罪の相手が顔を出すことはなかった。それにより罪の意識をより増幅させられた。謝罪の声も出なくなるほど長時間そこに居たが、朝日が差し込むこともなかった。


 廣人はいつの間にか寝ていたようだった。夢の中で眠るという一見奇妙な状態だったが、現実と同様、溜まっていた疲労がとれていた。そういえば、これまでもノンレム睡眠に入る時はこんな感じだったか。

 すぐ隣には大きくなった砂山があった。現在進行形で流砂からこぼれてきたものが少しずつ溜まっている。先程はこんなものは無かったので、そこそこ長時間寝ていたのだろう。

「オハヨウ」

「ん…おはよう…」

 廣人は反射的に挨拶を返す。外が朝なのかまだ夜なのかは分からないが、少なくとも現実ではまだ夜か早朝だろう。

「サッサと移動するわョ。」

 待ちくたびれた感じでアニマは立ち上がる。片腕にはまだぐったりしている夢乃が抱えられている。

「あっ…ああ。…でもどこに移動するんだよ。」

 廣人は目覚めたばかりで頭がしっかり回っていない。視界の定まらない目をぱちくりさせて起き上がる。

 ずっと夢乃を探すために歩いていたので、別にこれからどうしようとかいう考えはなかった。廣人はとりあえずアニマについて行くことにした。

「コッチよ。」

 言われた方を見ると、都合良く地面が階段のようになって続いていた。ここから外に出られるのだろうか。いや、そこしか続く道がないので出られなくとも行くしかないが。

「心配しなくても出られル。」

 急に落ち着いた感じになったアニマを不気味に思いつつも後をつける。やはり足場は良くないので、一歩一歩をしっかりと踏みしめる。ここも飛んで行きたかったが、暗くて天井が低いので頭をぶつけてしまうだろう。

 想像以上に高い所から落ちたのか、階段の一段一段が小さいのか、なかなか外には辿り着かない。階段の始めは洞窟のような入り口だったが、いつのまにか円柱の内側に階段が作られているような形になっていた。

 廣人のスタミナが切れそうになった頃、無口に先を登っていたアニマが話し始めた。

「さっきまで嫌な夢見てたでショ?」

「いや、覚えてない。」

「アラ、そう。デモ、分かるのよ。」

「お前がそう言うならそうなんだろうけどな。」

 会話の続かなさに苛立ちが出てきた頃、アニマは足を止めた。彼女に抱えられている夢乃も、それに伴ってぶらんと手足を大きく揺らした。

「着いたのか?」

「イヤ、行き止まり…。」

 廣人の期待混じりの声はすぐに打ち消され、洞窟には静寂が反響した。

「どうするよ。戻るのか?正直、ここから動かずに目覚めるの待っててもいいが。敵が出てくる気配も無いし、他の人がも見なかったし。」

 早く起きて、現実の方で夢乃を救出したいというのが廣人の思いであった。いつもは敵がわらわらいるのでそうはいかないが。

「…うっ、うーん…。」

「何だよ、そんな声出して。」

「エ?」

「え?」

 二人ともキョトンとして目線を下げる。そこでは抱えられた夢乃が目を覚まそうとしていた。ようやくという感情と、なんでこのタイミングなんだという感情が入り乱れる。どうしていいか分からなくなっている二人にお構い無しに夢乃は目を覚ます。そして自分の状況を確認する。

「な…浮いてる?何、コレどうなって…。」

 マズい。夢乃にはアニマが見えない。彼女からすれば、見えない何者かに体を抱えられている気味の悪い感覚を味わっている事になるのだ。

「お、落ち着け落ち着けェ!」

 片側が崖になっている所で暴れられるなど冗談じゃない。廣人が必死で諭そうとする。しかし、それも逆効果だったらしく、廣人に気付くなり夢乃はさらに手足を動かす。

「ヒロ!?良かった!ちょっと助けてくれないかしら。」

「暴れるんじゃないわよッ!このッ、また気絶させてやろうカ」

「イテっ」

 夢乃の足が行き止まりの壁に衝突した。それだけならまだよかった。しかし、壁は非常に脆い。蹴られた壁はヒビが入り、欠片が一つ剥がれた。そこから砂が出てくる。そこからは次々に二つ、三つと剥がれていき、彼女らが「ヤバい」と思う頃には壁が崩壊して大量の砂が流れ込んできた。

「何だよおォ!また砂に流されんのかよォーッ!」

 ここまで登ってきた道を押し戻されていく。しかし、廣人は途中の進路からはみ出て崖に飛び出てしまった。光源も既に砂の中で、真の真っ暗闇の中落下していく。その衝撃はホバリングでなんとかなるはずだった。

「飛べない!?」

 ここまで飛ぶことを忘れて歩いていたと思っていたが、「飛ばない」ではなく「飛べない」が正しかったようだ。暗闇に落ちる恐怖。空気抵抗が顔を歪ませる。

「この感じ、前にもあったような…。」

 走馬灯を見る間も無く地面に激突する。


 目が覚めた。動悸がおさまらない。身体中に汗をかき、薄い布団はビショビショに濡れている。カーテンは開けっぱなしで、窓からの光が部屋中を明るくしていた。

 壁際では朝日に照らされたまま眠っている蘭…ではなくアニマがいる。壁にもたれて座るような姿勢だが、痛くないのだろうか。少し申し訳ない。

「起きろ。朝だぞ。」

 声をかけてみるが起きる様子はない。疲れているのだろうか。昨晩から彼女には迷惑をかけていたから、もう少し寝かせてもいいかと思う。ビショビショの布団で寝かせる訳にもいかないので、タオルを敷き、その上に彼女をそっと横たわらせた。

 先程までよりはマシになったものの、未だに心臓の動きが激しい。とりあえず水を飲んで落ち着こうと蛇口を捻ると、どす黒い液体が出てきた。この災害でライフラインの管理も途絶えてしまったからだろうか。

「…電気は…つくな」

 確認がてら部屋の照明をつけてみると、眩しいくらいに明るくなった。これは太陽光発電の賜物だろうか。光に反応するように、照明の上側から真っ黒な虫がわらわらと出ていき、どこかに去って行った。

 久々にしっかりと自分の部屋を見た事で、隅々の汚れなどが気になってきてしまった。その前に床に散らかっているガラクタを片付けなければならないが。

 人間とは不思議なもので、なにかやるべき事や重大な事がある時ほど関係ない事をしたくなる。もっと前にこの掃除のモチベーションが欲しかった。ガラクタの下からは様々な物が飛び出してきた。ホコリ、何かの部品、クモ…というよりザトウムシに近い生き物、肉塊…。どうしてこのような物があるのかと自分でも不思議になってくる。部屋の隅など気にしている場合ではなかった。部屋の空気が悪くなってきたので窓をいっぱいに開くと、息苦しさがスーッと消えていった。体調も良くなったように感じる。

 寝ているアニマを踏まないようにゴミをまとめていく。片付くたびに新たな発見がある。ある所には穴が空いており、ある所にはキノコが生えている。穴からは何かが覗き込んでいる(ように見える)ので不気味だし、キノコは発酵しているような香りで酔いそうになる。

「ヨシ!あとは捨てるだけかな…。」

 アニマが起きたら布団の下も確認しよう。そう思いつつ玄関を開ける。相変わらず人気は無いがいつもののどかな風景。跡形もなく削られた山、風力発電の森、九龍城砦さながらのスラムビル郡。このアパートが高いのか、周りが低いのか、ある程度は見渡せる。軽やかな風が吹き、小鳥はさえずる、さらに他の人間との付き合いも考えなくていい。そんな素敵で清々しい朝がこんな状況で訪れるなんて思わなかった。

 玄関から一歩踏み出す。床が粘土のようにグニャリと曲がる。

「うおっ!?」

 何が起こっているのだ。思わず室内に引き返す。室内も自分のいる方に物が流れてきている。アパート自体が傾いているらしい。反対側の窓から逃げられるだろうか。部屋の隅にまとめたガラクタが襲いかかってくる。

「危ないな!よっ、ほっ!あっ」

 我ながら上手いこと躱したと思ったのも束の間、アニマもジャンプで飛び越してしまった。アニマの中身ならまだしも、蘭の身体なのがマズい。

「なんでまだ寝てんだよッ!」

 俺は悪くない。こんな事になっているのに未だ寝ているのが悪いのだ。汚れによる摩擦も虚しく、彼女は布団ごとスライドして外へ飛び出していった。

 部屋が傾いていくたび、穴からは無数の腕が伸びてくる。キノコは発光を始めて胞子を放ち、蛇口から出る液体は赤味を帯びていく。あと少しで窓から出られる。窓に近づくほどに世界がスローモーションになっていくのを感じる。あと少し。垂れたカーテンを掴み、窓から外に出る。

 外の景色はまるで変わっていた。空は赤くなり、海は荒れて満ち潮よりも遥かに嵩が増している。撃ち落とされた鳥のように、無数の死体が降ってきており、たった今俺の真横でもアパートに激突して砕け散った。飛び出した目玉がこちらを睨んでいる。

「……」

 言葉にならなかった。吐き気をもよおすような不快を詰め込んだ様な凄惨な光景、俺以外の人間がいたらなんと表しただろうか。

 そうだ、アパートはまだ傾いている。外に出て安心してはいられない。ほんの少し出遅れてしまったが、壁を1階部分に向かって走る。汚いボロボロの壁を裸足で駆けるのは痛かったが、落ちる痛みと比べれば数倍マシだろう。壁を突き破って銃弾が飛び出してきたり、窓から手錠みたいなものが出てきたりしていたが、それどころではなかった。俺は2階部分からジャンプして、アパートがへし折れたことで顕になった1階の部屋に飛び込んだ。誰かのふかふかベッドの上に着地する。

「た、助かった…のか?」

 一息つく間も無く隣に死体が落ちて血まみれになる。元々この部屋は女性のものだったようだが、血みどろになって可愛らしい内装が台無しだ。…いや、上半分が無くなった時点で既に酷い有様だが。

 降ってくる死体に頭突きされてはたまったもんじゃない。どこか屋根のある所を探さなくては。壊れた壁から出られるが、なんとなくドアを開けて敷地外へ出る。

「アレしかないか…。」

 見渡せる範囲で屋根のある建物は、あの九龍城砦しかなかった。しかしよく見ると、あの建物は足元が海に浸かっている。何故こちらのアパートが壊滅してアレが何食わぬ顔でそびえ立っているのか、不思議でならない。

「随分と遅かったじゃないか。」

 聞き覚えのある声がした。振り向いて目線を上げるとそこに居たのは白髪の老人…ネロイ。なんで、今、ここに。戦える武器はないし、後ろは崖で逃げられない。絶体絶命というやつだ。激しい頭痛がする。いや、痛み自体は想像上のモノかもしれない。

「独りで逃れようなどと思うまいな?」

 彼は瓦礫の山にゆっくりと降り立ち杖を取り出した。足がすくんで動けない。

 赤い空に浮かぶ大きな月をバックに悠々と立つ彼の影は、まさに死神だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ