第12話 逆夢の誘惑
山盛りの課題により3週間ぶりくらいの投稿になってしまいました。
次回作案がいくつもあって次はどれにしようか悩んでます(とりあえず完結させろ)。
夏休みはまだ始まったばかりだ!夏色に染まれ12話だ!
夢乃のお見舞いを終えて帰って行く道中、一同には妙な安心感に包まれていた。決して安心できる現状ではないが、青空と日光を反射する海の美しい景色を素直に楽しめるくらいには心が安定していた。
「夢乃さん、なんだか早く良くなりそうな気がしますわ。もう少し一緒に居させてくださっても良かったと思いますけれど。」
「仕方ないよ。あっちもあっちで大変だったし。」
病院では数人が狂っていて、朝から格闘を繰り広げていた。そんな状況下でお見舞いに来られても、病院側としては迷惑でしかなかった。
高速道路はガラガラで、すぐに屋敷に到着した。被害者の増加が目に見えて感じられる。今日は噂話も聞こえて来ず、鳥も虫も鳴いていない。そんな不自然な静けさの中、廣人はテレビをつけようとしたが、やめておいた。なんだか聞きたくない事まで知らされそうだった。彼にとって知りたくない事は知らないままでいる事が一番幸せなのだ。何も知らないまま幸せを感じて生きて、そのまま死んでいく。無知は力であり、心の支えである。
「廣人さん?一人で何してますの?…作戦会議でもしますか?」
蘭に話しかけられて顔を上げる。作戦会議とはそんなノリでするものなのか甚だ疑問だったが、夢乃が居なくなったのだから、何かしら話し合った方が良い気もする。廣人は間を置いて頷くと、蘭はサッと出て行き他の二人を連れてきた。
「これから緊急会議をしますわ。夢乃さんがいなくなり戦力の減ってしまった今、どう戦うべきか案のある方は挙手を…。」
これまで戦ってきて、作戦が役に立った事なんてほぼ無いし、前回も夢乃が居ない中戦って勝てたのだ。しばらく無音が続いた。それに少し腹が立ったのか、蘭は笑顔のまま額に皺を作った。
「では…言い出しっぺの廣人さん、何か提案をお願いします。」
廣人は強制的に喋らされる。確かに会議には同意したが、そこまで深くは考えていなかった。
「……いつも通り臨機応変で…。あとは、四人になったから分かれる時は二人ずつになるとか?」
「もっと革新的なのはありませんの?無いなら私から…。」
珍しく蘭からアイデアが提案されるらしい。しかし、出てきたのは彼女らしいといえば彼女らしいが、簡単に賛同するわけにもいかなかった。
「今夜、特攻を仕掛けますわ。」
「特攻…とは?」
「奴らは毎回、空間の裂け目からやってきます。今夜はそれにこちらから入って行きたいのですわ。」
一度蘭が一人で挑戦するも、巨大バクにより失敗していた作戦である。あちらは間違いなく敵陣なので、潰せられればよいが、ほぼ不可能と思われる。
「かなり危険と思いますが、これ以上被害を拡大させる訳にはいきませんわ。」
「蘭さんがやりたいならボクは協力するさ。」
考えて発言しているか分からないが、八作も賛成派である。廣人とセバスも渋々賛成した。
「決まりですわね!」
その後は新しい技をイメージしてみるなどしてみたが、あまり成果は無かった。
廣人は、寝る前の時間の思考が混沌とする事がよくある。柔らかな布団に包まれ、体が休まる幸せと、過去から現在、そしてそれに基づいてのしかかってくる不安が混在しているのだ。これまでは、こんな引きこもり生活で将来は大丈夫なのかなんて考えていたが、今は、夢乃がやられてしまい、次に誰かやられてしまったらもう耐えられない、もしそうなってしまったらという事が頭をめぐる。裂け目を一人で見つけたら一人で突入するのか?夢乃は夢世界では元気な可能性があるって言ったっけ?そんな話し合いの不足の後悔からも不安が生まれてきた。不安というものがこの世にある限り、彼は気持ちよく眠りに入る事はできないだろう。今日も、思考の渦に呑まれるように眠りに堕ちる。
夜の街に何かが突き刺さる音が繰り返し響き渡る。
「イイなァ、この移動方!気持ちいいよ。」
八作は自身と鉄柱に紐を括り付ける事で、発射した鉄柱に引っ張られて飛ぶという移動方を開発していた。もちろん現実世界では不可能だが、自分が突き刺さらないよう気をつけるのと、腹が引っ張られる痛みに耐えさえすれば、こちらではなかなか便利である。彼はほぼ真上に向けて飛んでみた。すると、予想以上に高くまで引っ張られ、街全体が一望できた。今回は、ビルとビルの間に提灯が沢山かけられており、お祭りでもやっているかのようである。以前バクに喰われた場所には屋台のようなものが出来ていた。
「なんだか楽しそうだねェ。お祭りかぁ、いいなぁ。」
最高高度まで飛び上がり、そのまま自由落下に入る。地面スレスレくらいでまた浮き上がるつもりで、空気抵抗を気持ち良く感じながら落下していた。
「は、八作くん!?」
ゴオォォォと耳に響く音に混じったその声に驚いてその方を向き、さらに驚く。浮き上がるのを忘れて屋台の屋根に墜落した。屋根はトランポリンのように伸びて八作を上に弾き返す。彼は一旦落ち着きを取り戻し着地する。
「夢乃ちゃん?何で?本物?」
「へへへ、本物だよ。何でかはよく分からないけど…。」
「それは良かった!今日は朝からお見舞い行ってね、夢乃ちゃんは思ったより早く元気になりそうって話してたんだよ。あっ、そうだ。今回は裂け目に入るって作戦になってるから宜しくね!ボクは蘭さん探してくるよ。」
彼はそう言って去ってしまった。
「あれ?私もう少し心配されて良くない?なんで置いてかれてるの?」
夢乃は一人立ち尽くしていた。「まあ、八作くんは蘭の事が大好きだから仕方ないか。」と割り切ろうにも、腹の傷が広がりそうな思いであった。追いかけようにも視界からは既に八作は消えており、途方に暮れてしまった。辺りを改めて見回すと、非常に楽しげな雰囲気が漂っているのだが、それに対して人が少なすぎる。彼女は行列に並ぶのは好きではなかったので、人混みの無い祭というのは良いとばかり思い込んでいたが、実際に見ると寂しいものだった。見知らぬ人との交流、触れ合わずとも感じる他人の体温。そういったものも祭の醍醐味であったと初めて感じた。明るいだけの通りは何故か落ち着かず、薄暗いビルの隙間に入る。これまでの戦いで何度もここに避難してきたからだろうか、現実で入る事は無いのにとても心が安らぐ。
少しだけ休憩した後、ふとそこを反対側に抜けた先が視界に入る。そこには廣人が見えた。後ろから忍び寄って驚かせてやろうかと考えたが、それより先に声が出ていた。叫びつつ隙間から抜け出す。
「おーい!」
廣人は夢乃にすぐ気付き、泣きながら彼女に抱きついた。
「本物、うん、本物だ。ああ、何から言えばいいんだ。」
「ちょ、重いわよ。」
廣人を引き剥がして落ち着かせる。彼は申し訳なさそうにそっと離れた。
「…ごめん、なんか、嬉しくて…。昨日のは嘘じゃなかったんだなぁ。」
「それよりアンタ、昨日どうせ『オレノセイダー』って落ち込んでたんでしょ。蘭ちゃんに励まされてようやくって所かしら。」
廣人は事件当日の事を突然言い当てられて気まずくなった。どれだけ自分が単純で分かりやすい性格なのか思い知る。
「…図星ね。そんな心配しなくても、アンタは自分で思ってる程悪い事してないわよ。…前も火灯さんにそんな事言われてなかった?」
本人に許されて、心がかなり軽くなった。そんな簡単に許されていいのかという懸念は、夢乃が嫌いそうなので考えるのをやめた。
会話を妨げるように横から深い音が響く。そこでは例の裂け目が開いていた。
「突然で悪いが、アレに入るぞ!」
廣人は夢乃の手を引き、車道のど真ん中を駆けていく。あと数歩で到達するという所で、夢人が現れる。しかし、今回はいつもと様子が違った。
「うわわっ!おちおち落ち着いてぇ!せせ静粛に!」
出てきたのは小柄な男性で、黒くて体に対し大きめのローブのような服を着ている。ひどく焦っており、両手を前にして「止まれ」のジェスチャーをしている。
「こここっコレは貴方達の為ですっ。ははっ話だけでも…。」
そこまで言うならと、廣人達は話を聞く事にした。しかし、まだ警戒心は残っており、最低でも3m以上は離れておこうという意識が見てとれた。
「ここっ、こんな所で立ち話もなんなので…ひひひとまず、ついてきてください。」
彼はそう言うと、たった今こちらへ来たばかりにも関わらず、既にこの土地を知っているかのように歩み始めた。明るい道を抜けて辿り着いたのは、静かな風景に佇む移動式のおでんの屋台だった。現代では見る事もほぼ無くなった木造の屋台だ。ビル街を背景にする事で時代不相応で異様な雰囲気が出ている。
「どうぞこちらへ…。ここ、落ち着くでしょう?」
男は廣人達を隣の席に誘った。こんな屋台は初めて見たし、相手は怪しいのだが、廣人は吸い込まれるように席に座る。座ってみると男と大体同じ目線の高さになった。
「確かに、なんか落ち着くなぁ。…で、なんか話があるんだろう?」
警戒心を薄れさせすぎだと感じた夢乃は、廣人と男を挟むようにして腰を掛けた。
「いらっしゃい、注文決まったら言ってください。」
静かだがよく通る中年の店主の声が会話を遮るように耳に響く。彼も夢を見ている誰かなのだろうか。三人はとりあえず水だけもらった。
「…はい、僕も侵略のためにこちらへ来たはずなのですが、その気は無くなってしまって…。あっ、僕のことはデグロと呼んでください、すみませんね、名乗るの遅くて…。あっ、あなた達の名前は聞いているので名乗らなくても結構ですよ、ええ。」
なかなか話が進まず、夢乃はイライラし始めた。夢人の隣で座っている事の緊張感もあるかもしれない。コップの水面が震える。
「…昨日、マルセロがやられたと聞きました。彼は僕の数少ない友人でした。…いえ、復讐しようなんて気はありません。悪いのは彼の方ですから…。しかし、それを聞いて僕は決意を固めました。こんな事止めるべきだと。」
デグロはここで一息おいて水を飲んだ。夢乃の貧乏ゆすりが少し大きくなる。
「じゃあ、あんたは味方って事でいいんだな?」
「そういう事です。…マルセロは愉快でいい奴でしたよ。でも、そんな彼が追い詰められて奥の手まで使ったと聞いて耐えられたくなったんです。…彼の奥の手の帽子と仮面は、強さの引き換えにそれまで痛めつけられてきた人々の苦痛を全て使用者に与え続けます。幾ら精神力が強くても、制御なんてほぼ不可能です。彼は、そこまでして…」
廣人は申し訳なくなってきた。アレの性能を知らなかったとはいえ、最期まで罵り痛めつけてしまった。俯くと、水面に悲しげな自分の顔が写っていた。
「ああ、すみません、別にそういうつもりでは無かったんですよ。彼の事を聞いて、こんな戦いを続けても双方苦しむだけだと思ったんです。…気を付けてください、夢人側の計画は実行直前まで来ています。ネロイさんが最も高い地位で指揮をとっている事は確実です。彼は貴方達を狙っています…。」
夢乃はいつのまにか話を真剣に聞いていた。店主も理解していないだろうが、難しい顔をして聞いている。
「計画計画って、アンタらは一体何しようとしてんのよ。」
「皆さん、最近の夢で違和感ありませんか?」
廣人達は考えこんだが、これといったものはでてこなかった。屋台の灯りがチカチカと点滅する。
「…感じないですか…。実は少しずつ変ッ…」
デグロの言葉が急に途切れる。廣人が隣を向くと反対側にいた夢乃と目が合った。デグロの身体が前のめりに倒れ、おでんが赤く染まっていく。
「ようやく見つけた。…裏切りなど勝手にすれば良いですが、計画を話すのはいけませんねぇ。」
背後から、あの渋い声が聞こえた。店主が腰を抜かして尻餅をつく。
「噂をすれば…。」
屋台の灯りが届くギリギリの所に立っていたのはネロイだった。右手に刃を出した仕込み杖を持ち、反対側の手にはデグロの生首を掴んでいる。彼は白髪をたくし上げてため息を一つついた。
「いやぁ、今回は来る予定ではなかったのですが…。不届き者を捕らえる為に来てしまいました。ハァ…。どいつもこいつも使えぬ馬鹿ばかりで…。」
彼も彼なりに苦労しているようだ。確かに、廣人達が今まで勝つことができたのは運もあったように思える。「電車の時とかドリームキャッチャーの時はラッキーだったな…」そんな事をぼんやりと思い浮かべる。
「丁度いい。予定を早めましょう。」
真っ赤なおでんに水滴が跳ねた。
「ゔぁっ!?……は?」
廣人の腹から刃が飛び出していた。状況を全く読めなかった。ただ、初めの戦いでは感じる事のなかった明確な痛みが身体を貫いていた。
「アンタ、何したの!」
「何って…刺しただけですが。」
ネロイの持つ仕込み杖の先がいつもの裂け目に入っているのが見えた。廣人の背中スレスレにもまた裂け目が開いており、そこに繋がっているようだ。
「ああ、君達にはまだ言ってませんでしたね。前は敢えて使いませんでしたから。」
「逃げ…ろ…。」
夢乃は逃げなかった。自分独りでは歯が立たない事も分かっていたが、その場を動けなかった。
「夢乃さんは殺しませんよ。」
「…え?」
「今ここでわざわざ倒す必要も無いでしょう。現実でどうかは知りませんが…。」
ネロイの口角が僅かに上がる。廣人に刺さっていた刃を引き抜く。夢乃の中で様々な負の感情が練られ捏ねられを繰り返していた。その結果、最終的には廣人を頼るしかなくなってしまった。
「こんな所でやられたらダメよ!起きて!そんな傷くらい治して!ねぇ!まだ何も解決してないんだから!」
ネロイは夢乃に見向きもせずおでん屋台の裏へ回り込む。店主が声も出せずに必死に後退りする。
「大丈夫、すぐ、楽になりますよ。」
廣人は目を覚ました。何か嫌な夢を見た気がするが、何も思い出せない。嫌な夢だったとは思うが、思い出せないという不快感もある気持ちを振り払う為、伸びをし、顔を洗う。
「あら廣人。起きてたのね。ご飯できてるわよ。」
母の声が何故か懐かしく感じる。炊き立ての白米は暖かい香りを放っており、単品でも満足できそうだった。
「もうすぐ出る時間じゃないか?学校遅れるなよ。」
父は新聞を畳み、席を立った。食器を流しに運んで洗い始める。
「あら、私がやるからいいのに。」
「そうかい。手間かけさせて悪いね。じゃあ俺は早めに出ようかな。」
父は母を後ろからハグした。この歳になってもイチャイチャしているのは見ている方も恥ずかしいが、仲がいいのは素晴らしい事だ。父が家を出発したすぐ後に姉が忙しない足取りでダイニングに来た。寝癖は酷く、服装もぐちゃぐちゃである。
「おはよう。廣美。ご飯食べる?」
「廣人、なんで起こしてくれなかったのー!?時間ヤバいじゃん!」
大急ぎで米とシャケを口に掻き込み、味噌汁で流し込む。
「ご馳走様!あっ、米粒付いてるよ。」
そう言うと廣人の頬をペロッと舐めて去って行った。両手が塞がってはいたが、手で取って欲しかった。生暖かい感覚が残る。
「行ってきまーって、スカート忘れてたぁ!」
母はその様子を見て小さく微笑んだ。
「廣人、あなたももう出る時間じゃない?…どうしたの、調子悪い?」
廣人はもう少しゆっくりしていたかったが、さっさと食事を済ませて家を出た。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
いつもとなんら変わらないはずなのに、家を出るのが酷く辛かった。普段よりも遅い時間の出発だったので、通学路で友達と会う事もなかった。
結局、いつもと何も変わらない授業を終えた。強いて言えば、前まで全然分からなかった所が何故か楽に理解できたくらいだろうか。
「ヒロー、今日ヒマ?暇なら遊び来いよ。」
帰り道、友達が遊びに誘ってくる。今日は帰ってからの用事は無い。しかし、気分的に遊びに行く気にはなれなかった。
「ごめん、今日はやめとく。」
「…そっか。じゃあ、また今度な!」
彼は別れ道を廣人と反対側に駆けて行った。その背中にノスタルジーを感じつつ振り返って歩を進める。
しばらく進むとグラウンドから声が聞こえてくる。通学路から覗くと、姉が部活をしていた。彼女は友人と仲が良いのだろう、とても活き活きとしている。自分は彼女のように過ごせるのだろうか。中学に対して些細な不安がよぎった。
「あっ、廣人!どうしたの?帰り?」
気付かれてしまった。後からぞろぞろと彼女の友人がやってくる。
「ん?もしかしてヒロミの弟?」
「ホントだ、なんとなく似てるね。」
ネット越しとはいえ、廣人はなんだか怖くなってその場から逃げた。女子といえど、集団の年上の圧というのは恐ろしい。まだまだ夏は遠いが、照りつける快晴の暑い日差しの中、家にたどり着いた。
「おかえりー。」
家では母が洗濯物を畳んでいた。隣で流れているテレビでは、連休の過ごし方の特集がされている。廣人はテレビの音量にかき消されそうな声でただいまと言った。すると母は少々心配気味にそちらを見る。
「朝から調子良くないみたいだけど大丈夫?何かあったらすぐ言ったらいいのよ。」
原因が自分でもよく分かっていないのでなんとも言えない。とりあえずうんうんと頷いて部屋に入り、ベッドに転がる。なぜだろうか、普段通りの暮らしなのに心がきゅーっとする。しばらくはしみじみと天井の木目を眺めていた。
「そうだ!来週のお休みは一緒に出かけようか。連休なのにお父さんは仕事だし、お姉ちゃんは大会だから、あなただけ寂しいでしょ?そんな遠くまでは行けないけど、近所にステキなお店見つけたのよ。」
母は姉の応援に行きたいと思っていただろうが、廣人を思ってか、その事は口に出さなかった。母からそんな誘いを受けた廣人は、特に何も応えずに寝そべっていた。
「…廣人ももうお兄さんだもんね。お母さんとお出かけなんて嫌よね。ごめんなさいね…。」
実際は、全くそんな事は無かった。でも、何か本能のようなものが意志を遮ろうとしてくる。のどの辺りで言葉が詰まってしまったようだった。寝転んでいる状態から起き上がり、少しでも発声しやすい体制に戻る。息を吐いて、大きく吸い込む。
「そんな事ないよ。行きたいよ。」
ようやく言うことができた。彼自身はそこそこ大きな声を出せたと思っていたが、その声はギリギリ母に届くくらいの大きさだった。それでも母は聞き逃さず、その瞬間パァっと顔が明るくなった。
「よしよし、それじゃぁ今は目の前の事終わらせなさい。その間に晩ご飯作っておくわ。」
廣人は本当は寝ていたかったが、宿題を片付ける事にした。宿題は何故かスムーズに進んでいき、勢いのままに連休課題も終わらせてしまった。憂鬱な気持ちに反して調子が良い事に不気味さがあった。筆箱の口が何か訴えるように開閉しているように見えて上から押さえつけるように閉めた。
「ただいまー。」
課題を片付けると同時に姉が帰ってくる。疲れたと言う気力も残っていないほどヘトヘトになっていた。汗でベトベトの制服を脱いですぐに風呂場に行く。昔は一緒に入っていたが、いつからかそんな事はなくなってしまったことを廣人は寂しげに思っていた。別に下心があったわけでもなく、この年齢だと当たり前だろうと割り切ってはいたが、風呂場は姉に甘えられる空間であり、心置きなく話すことができる空間でもあった。
姉がシャワーで流しただけで済ませたのではないかというくらいの早さで風呂から上がる。
「ご飯できたわよ。」
廣人もその姉も、空腹であったので小走りでダイニングに集まる。白米、味噌汁、活きのいい焼き魚…。魚は口をぱくぱくさせながら身をよじらせている。今にも宙を泳ぎ出しそうだった。
「いただきます。」
箸を持つやいなや、無慈悲にも魚の首を切り落とす。魚の首はキェーと、か細い断末魔の叫びを残して動かなくなった。何故牛や豚は死んだ後の肉で売られているのに焼き魚は生きたままなのだろう。首を切り落としてから出しても良いのではないだろうか。廣人はそんな事を思っていたが、以前母は、その方が綺麗で出された方も嬉しいでしょと言っていた。この殺める作業が苦手であり、食べられればそれでいいという思考をしていた彼には受け入れ難いものだった。
「ごちそうさま。あー美味しかった。」
姉は食べるのが速い。ちゃんと噛んで食べなさいと言われても、それは癖のようになっており、直ることはなかった。
廣人も無事食べ終えると、母は安心したような笑顔を浮かべていた。その安心は伝染するように廣人にも伝わり、彼はその日の不安、憂鬱も忘れて1週間を過ごした。
春の大型連休の中ば、廣人は母と出かけるのを楽しみにして目を覚ました。すると、大会の準備をしている姉がいた。珍しく早起きである。
「お母さん、応援来ないでよ。一応入場制限かかってるし。ちょっと恥ずかしいんだから…」
彼女は念を押すように母に言う。そういう年頃だと分かってはいただろうが、母は面と向かって言われるとやはり悲しそうである。
「大丈夫よ、絶対勝ってくるから。」
そう言って出て行ってしまった。彼女と言葉を交わすことさえできなかった廣人は、ベランダから見送ることだけしておいた。鯉のぼりが宙を泳いでおり、先週の焼き魚を思い出してへんな気持ちになった。空を見上げると、広い青空にポツンと雲があった。人の顔にも見えるその雲は、口の辺りをモゾモゾと動かしたと思うと風に掻き消された。
「私たちも行きましょうか。」
午前中はまだ涼しく、外でも快適に過ごす事ができた。彼らが出掛けた先は子供の足でも20、30分程度で着く場所だったが、その割にあまり行った事の無い場所でもあった。外から見ると少しお洒落な住宅街なのだが、実は一階が店になっている建物が集まっているのだ。店の内容も一風変わっており、珍妙な骨董を売っている店やまずそうな色合いでも絶品の菓子を作っている店など様々であった。
昼になるといつも以上に暑くなり、そのせいか人通りはかなり少なくなった。連休で遠くまで出掛けている人が多いとも考えられたが、朝の人は少なくはなかった。
「大丈夫?疲れてない?」
廣人は頷くが、汗が服に染みて2色になっている。母は流石に心配し、彼を連れて一番近くの飲食店に入った。中はクーラーが効いており、非常に涼しかった。せっかくなのでそこで昼食にしたが、母としてはどうせならチェーン店ではない方が良かったなと少し後悔もあった。
「他にもお店あったけど、ここでよかった?」
「…うん。そうだ、この後はお母さんの見つけたって言ってたお店行きたいな。」
廣人は刺身バーガーを飲み込んで答えた。
食事を終えた頃には汗はひいていたが、そとは最も暑い時間帯であった。彼らはもう少し居座ろうとしていたが、窓の外では徐行運転していた車が風船にぶつかって事故を起こし、店内ではバイト君のミスで下から噴き出すタイプのドリンクサーバーが噴水のようになったり、刺身用の魚が逃げ出したりして大騒ぎである。
「そんなに遠くないから行きましょうか…。」
魚が外に逃げないように素早く戸を上に引き上げ、バンパーから煙を出す車をよそに歩き出す。壁際の細い日影を通りつつたどり着いたのは、シンプルな喫茶店だった。
「ここ?」
「そうよ。この落ち着く雰囲気が好きなの。」
先程昼食を食べた所だったので、何か注文する気にはなれないでいたが、幸い人が他にいないので客に対する迷惑はかからなそうだった。
「あら、いらっしゃい。」
店員らしい女性はこちらへどうぞとカウンター席をポンポンと叩く。彼らは少し高い椅子に腰掛けて、わざとゆっくりメニューを覗いた。
「お客様、先週も来てましたね。気に入っていただけましたか?」
「覚えていただいてたんですね!そうなんです。雰囲気が好きで、息子を連れてきてしまいました。」
女性は、にこにこして続ける。
「もちろんですよ。大切なお客様ですから。店長として、こういう交流は大事にしたいですね。息子さん…廣人くん…ですか?可愛らしいですね。」
いつの間に名前を知られていたのかと驚いて廣人は顔を上げた。店長の眼鏡が光を反射して光る。店長にデジャヴを感じて妙な気持ちになった。
「ええっ、店長だったんですか!?凄いですねぇ。私より歳下でしょう?」
「年齢は関係ありませんよ。いつでもやろうと思えばできます。」
母はコーヒー、廣人は紅茶を頼んだ。紅茶にはレモンではなくミカン…のような果物が付いていた。店長は物知りで、話はとても面白かった。タメになる話からどうでもいい話まで語ってくれた。
「…私が泳いで太平洋横断した時の話なんですが、帰る方法考えてなくてですね、自分が何て国に到着したのかも分からなくて、結局自力で帰ったんですよ〜。」
「…パンの袋留めるアレ、バッククロージャーっていうんですけど、あのデザイン、元ネタは青森県だと思ってたんですが、鹿児島県派と意見が衝突した事があったんです。それで調べてみたらアメリカで特許が取られていて日本関係なかったんですね。」
そんな話を聞いていたら、外は夕方になりかけていた。そろそろ帰ろうと言うと店長に引き留められた。
「最後に一つ。廣人くんは夢に種類があるって知ってる?夢の内容が事実になれば予知夢、正夢。逆に、反対の事が起これば逆夢。夢の中でわざわざ『これは夢だ』なんて普通認識しないけど、それができたら明晰夢。まぁ、色々あるんだけども、廣人くんは今起きてる事は夢なんじゃないかとか、夢であってくれとか思った事ある?たまにやってみるといいよ。」
最近どこかで聞いたような話だが、そんな事した事もなかった。店長はお土産と言ってお菓子をくれた。礼を言って喫茶店を後にする。
姉もそろそろ帰ってくる時間である。少し急ぎ気味に歩く。
「ね?ステキだったでしょ?」
確かに良い店であったので、廣人は定期的に店長に会いたいと思った。
「そうだね。…あれ?あっちから来るのお姉ちゃんじゃない?」
俯いており顔がよく見えない。隣の女子が慰めるようにしているのを見ると、結果が奮わなかったのだろう。
「お姉ちゃん、元気無さそう…。」
廣人は、自分も慰めてあげなくてはならないと思い、駆け足で進んだ。ドンッと何かにぶつかる。
「オイ、どこ見て歩いてんだァ?」
横断歩道前の曲がり角で怖い人にぶつかってしまった。急いで立ち上がり、頭を下げて謝る。…意外にもあっさり許してくれた。
「次は気をつけろよ。それよりも姉ちゃん慰めてやれ。」
見た目が怖いだけの人で助かった廣人は、青信号を確認し、左右確認する。赤信号なのに右から猛スピードで車が走ってくるのが見える。左を見ると向こう側の歩道には小さな女の子とその親が一緒にいた。
「あれ…?ゆ…め…?」
その女の子には確かな見覚えがあった。そこからフラッシュバックするようにこの場所での違う記憶が見える。あれは夢?逆夢?そうであってくれ。そう願うが、どうしても存在するはずのない記憶が次々と現実を突きつけてくる。
「じゃあ、これが、夢…?」
だからどうした。そう感じただけで何か変わるわけでもない。夢の中でも同じ過ちを繰り返すのは御免である。しかし何もしなくては変わらない。廣人は一か八かで道路に飛び出した。丁度車が真横から来るタイミングであった。
「ヒローーーー!」
「うわっ!痛っ!」
「ぎゃっ!」
目を覚ますと、目の前で蘭が頭を押さえて身悶えていた。
「急に起きないでくださる!?いや、起きたのは嬉しいですが。」
窓の外は明るく、自分の身体はしっかり大人で、部屋は屋敷の一室であった。頭をさすりながらキョロキョロ見回してみる。
「ヒロさん良かったよ〜!」
蘭を起こしてから八作が抱きついてくる。セバスも驚きつつも嬉しそうだ。
彼女らの話によると、ネロイは見つかると自分から帰って行ったようで、夢乃も狂人だらけの病院から無理矢理連れてきたらしい。やられた廣人は現実で狂ってしまうと思われたが、うなされつつ寝ているような感じであり、復活しないかと寝かされていたらしい。
「みんなありがとう……でも今は…一人にしてくれ…。」
その日は気分が優れずに独りベッドで過ごした。なんで自分は復活できたのか、これも都合のいい夢じゃないかと思った。そして、さっきまで見ていた夢が幸せで幸せで、ずっとあのままでよかったのではないかと感じてしまう。どうしてあそこであの選択をしてしまったのか、現実ではそう上手くいかなかったのか。あらゆる思考が廣人の時間を浪費させた。