第90話 『山中の惨劇』
西日が山の急斜面を赤く染めている。
夕暮れが迫る山の西側から4つの人影が山頂を目指して登り続けていた。
通常の登山道ではない。
藪や背の高い草をかき分けながら進む獣道だった。
「なかなかの山の中だな」
すでに初老に差し掛かったその男は鉈で藪を切り払いながら、後ろからついて来る若い男らに手招きをした。
その男は周辺の山で40年以上に渡って狩りの生業をしている熟練の猟師だった。
右手に握った鉈の他に、背中には石弓を背負っている。
この辺りにダニアの奥の里があることは知っていたが、猟師は自分が子供の頃から「山の女には近付くな」と教わっていたので、おいそれと足を踏み入れたことはない。
だが、猟師は金に困っていた。
そんな時に知り合いの商人から急な仕事を依頼されたのだ。
内容は1人の若い男を山頂から救い出して、麓から馬で一日かけて進んだ海岸まで連れて行くというものだった。
依頼主が誰であるのか、救出するその若者が誰であるのかは伏せられていて分からなかった。
だが報酬はかなりの高額となり、依頼主が一定の立場のある人物であることと救出する若者が依頼主にとって重要な人物なのであるということは想像に難くない。
とにかくその報酬が手に入れば猟師は直面する金銭問題を解決することが出来るため、かつては近付かなかったこの山の中に足を踏み入れたのだ。
それでも通常の山道ではない獣道を進むのは難儀なことだった。
熊に出会わぬだけマシだったが、それでもここまで来るのに毒蛇だの猪だのに出くわした。
猟師の後ろからついて来るのは若い男が2人と、40歳前後の壮年の男が1人。
若い男のうち1人は背中に人が1人すっぽりと入るほどの大きな袋を背負っている。
彼ら2人は、山頂で救い出した若者を交代で背負って山を降りる運搬役だ。
そしてもう1人の壮年の男は護衛役の傭兵だった。
木々の茂る山の中で戦いやすいよう、短剣と手斧という小振りの武器を装備している。
男はかつて公国軍で腕を振るった歴戦の兵士だったが今は退役し、傭兵稼業で日銭を稼いでいた。
今回の仕事は山頂での救出作業の時が一番、危険だという。
相手はダニアの女戦士たちだ。
護衛が公国軍の現役兵士だった頃、幾度かダニアの女戦士と剣を交わしたことがあったが、女とは思えないほど力強く素早い者たちばかりだった。
そんな女たちが集まる山頂では、いかに早く目的の人物を救出してその場から離脱できるかが重要だった。
依頼主が希望した救出作戦に臨む人選は、山中の移動に長けた猟師、武術の腕に覚えがある者、そして秘密を守れる者だ。
そうしてこの4人組が商人によって編成されたのだ。
「あと10分少々で山頂に着くぞ。煙幕をすぐに着火できるように準備しておけ」
そう言って振り返る猟師に残りの3人は頷く。
山頂を撹乱するために目眩ましの煙幕を張れるよう、多くの煙幕玉を用意してきた。
「もう一度確認だ。目的の黒髪の男は山頂に1人しかいない。そいつを拾ったら一気に離脱だ」
そう言って再び前を向いたその時、猟師がフッと立ち止まった。
右斜め前方で藪が揺れたのだ。
猟師の経験では、それは嫌な揺れ方だった。
熊か?
猟師がそう警戒して背中の石弓に手をかけたその時だった。
藪の中から凄まじい勢いで飛び出して来た影が瞬時にして目の前に迫ってきたのだ。
熊を想像していた猟師はその速度に驚いて足を滑らせ、背中から倒れ込んでしまう。
「うへっ!」
そのおかげで猟師は命を失わずに済んだ。
だがその影はそのまま風のように駆け抜け、猟師の背後にいた若い男2人の間を一瞬で通り過ぎた。
その瞬間、刃が閃くと、若い男2人は首を切り裂かれて大量に血を噴き出しながらその場に倒れ込んだ。
「ぎゃああああっ!」
「ひぃぃぃぃっ!」
若い男らが悲鳴を上げる中、最後列にいた護衛の男は両手の武器を手に応戦しようとした。
だが、歴戦のツワモノであるはずの男はその影の異様な速さにまったく対応できなかった。
影が投げた刃が心臓を狙ってきたのを護衛は必死に手斧で叩き落としたがそれが精一杯だった。
影は一瞬で背後に回り込み、護衛の首の後ろから刃を突き立てた。
「かはっ……」
護衛は悲鳴も上げられずそのまま絶命して地面に崩れ落ちた。
猟師は必死に立ち上がろうしたが、若い男たちの首から噴き出した血が地面に血だまりを作っていて、そこに足を滑らせて腰を地面に強打した。
「ぐっ!」
猟師は腰の痛みに呻きながら目を剥いた。
すぐ傍に倒れている若い2人はすでに息絶えていた。
まるで成す術なく、あっという間に3人が殺されてしまったのだ。
人影は一切言葉を発することなく、地面に落ちている短剣を拾い上げた。
そして西日を背にした逆光の中、人影はそのまま猟師の上にのしかかると刃を振り上げ、容赦なくその首に振り下ろす。
猟師がこの世で最後に見たのは、銀色の髪を振り乱した異様な形相の女だった。




