第89話 『それぞれの胸の内』
ブリジットにとっては悪夢のような道行きだった。
今、彼女は剣を腰に下げ、一族の者たちを率いて山頂を目指している。
この世で一番大事な愛する男をその剣で……処刑するために。
ボルドに勝利を誓って望んだ裁判は敗訴に終わった。
情夫ボルドの処刑が決まったということだ。
それはブリジットにも覆せない。
投票による判決が確定した時、ブリジットは椅子に座ったまま、しばし呆然と動けなくなった。
だが女王として毅然とした態度でいなければならないと幼い頃より躾けられてきた彼女は、ほとんど無意識ですぐに動き出した。
取り乱した姿を周囲に見せるわけにはいかない。
絶望に座り込んでしまいそうなのをどうにか堪えられたのは、そうして体に刻み込まれた本能があったからだ。
だが、ブリジットの胸の内は嵐が吹き荒れ、裁判の行われた大会議場からここまでどうやって歩いて来たのかさえ記憶がおぼろげだった。
もちろんこの状況をまったく想定していなかったわけではない。
裁判に負ける恐れも十分に考えていた。
だが、一族の者たちがそこまでボルドの処刑を望んでいるのかと思うと、ブリジットは暗澹たる気持ちになった。
これまでずっとダニアを守るため、強く正しい女王であろうと努めてきた。
だが、その努力は愛する男を処刑してでも続けていかなければならないものなのだ。
あと残り30年足らずしか生きられない自分の人生はそうして幕を閉じることになる。
定められた人生に絶望していた幼い頃の気持ちが甦ってきた。
(だが……むざむざとボルドを殺させはしない)
最悪の事態に備えてブリジットは秘密裏に準備していたことがある。
奥の里に出入りする馴染みの商人に傭兵を依頼し、処刑前に天命の頂からボルドを連れ去るよう手配していたのだ。
ボルドの命を救うための苦肉の策だった。
傭兵部隊はすでに周囲に潜んでいるはずだ。
裁判が始まる前までにベラには言っておいた。
仮にボルドの処刑が決まったとしても決して手を出さないようにと。
もし裁判に負けても、ボルドを救い出すための最後の手は残してあると伝えた。
そうしなければベラはブリジットのためにボルドを助けようとしてしまうだろう。
ベラに反逆者の汚名を着せるわけにはいかない。
そんなことをすれば彼女は家族ともども一族に居場所を失ってしまう。
そしてそんなベラ以上に無茶をしそうなのがソニアだ。
幸いにしてソニアは里で再び療養するために置いてきた。
ソニアは無念の表情だったが、彼女は本当ならまだ寝ていなくてはいけない容体だ。
ブリジットがしっかり言い含めてソニアに山登りを断念させた。
処刑が決まったボルドを裏工作で救い出す。
それは百対一裁判の権威を失墜させる暴挙であり、一族に対する背信だ。
その責任は全て自分1人で負うとブリジットは決めている。
悄然と歩を進めながら、それでもブリジットは胸の内で最後までボルドのことをあきらめていなかった。
そんなブリジットを少し後方から見つめながらユーフェミアは山道を登り続ける。
裁判は決した。
予想外の証人登場で少々驚かされたが、ユーフェミアの思惑通りボルドの処刑が決定した。
だが、ブリジットがこのままおとなしくボルドの処刑を受け入れると思うほどユーフェミアは楽観的ではない。
(おそらく何かをしてくるはずだ)
山頂へと向かうこの行列にはユーフェミアの命令を受けた見張りが数多く含まれている。
ブリジットの右腕であるベラはもちろんのこと、同行しているアデラやナタリー・ナタリアといったブリジットに近しい者たちは、その動向を注視せねばならない。
彼女たちがブリジットのためにボルドを救出しようとするかもしれないからだ。
だが、ユーフェミアはこのダニアにおける厳粛な掟の番人を自認している。
ボルドの処刑は法で決められたことだ。
それを邪魔させるわけにはいかない。
ユーフェミアは細心の用心深さで、里に残ったソニアにも念のため見張りをつけてきた。
(まあ、どちらにせよあの体ではここまで登って来られないだろうがな)
この処刑が無事に終わったら、ブリジットは少し休ませなくてはならないだろう。
心身を癒やす時間が必要だ。
しばらくは次の情夫どころではないかもしれないが、それでも公国との繋がりのために新たな情夫との縁談をまとめなくてはならない。
大変な仕事だ。
ユーフェミアは自分がブリジットから強く恨まれることは覚悟していた。
(まあ、昔から嫌われていたがな)
ユーフェミアはそう自嘲する。
だが、ダニアを守るためなら嫌われ者にもなろう。
彼女にとって大切なのはこの一族が子孫に脈々と受け継がれていくことだ。
そしてユーフェミアは信じていた。
今回の件で心に傷を負おうとも、ブリジットは必ず立ち上がり一族のために強い女王であろうとすることを。
それぞれの思惑を胸に一行が足を進めると、やがて山頂が見えてきた。
日が暮れ落ちた天命の頂には、各所に煌々と松明が焚かれている。
その最奥部に設けられた処刑台には、椅子に拘束されたボルドの姿があった。
この夜、哀れな情夫は運命の波に飲み込まれ、その命を終えようとしていた。




