第79話 『ユーフェミアの苦悩』
ブリジットの執務室から戻ったユーフェミアは、自室の椅子に腰をかけると大きく息を吐いた。
部屋には彼女以外の誰の姿もない。
「やれやれ。困ったことになったぞ。我らが女王様は強情だ」
そう言うとユーフェミアは自分とブリジットの血判が押された書面に目を落とす。
3日後に開廷されることが決まったこの百対一裁判。
本当のところを言えば、どちらに転んでもユーフェミアには困ったことになる。
ボルドの処刑が決まればブリジットがどんな行動に出るか分からない。
まさかとは思うが、強引にボルドを連れ去って駆け落ちでもしてしまいかねない気もする。
仮にボルドが判決通りに処刑されてしまえばブリジットがその後、女王としての仕事に支障をきたすほど心身を病んでしまうかもしれない。
かといってボルドの処刑が否決され、そのままボルドがブリジットの情夫として収まり続けるのは一族にしこりを残すことになるだろう。
もし今後、分家と争うことになった時にブリジットの情夫は分家の女と交わった汚れた情夫だと敵から揶揄されようものなら、本家の戦士たちの士気に関わることになる。
だというのにユーフェミアがこの裁判の開廷を申し込んだ理由は2つ。
ひとつは十刃会の者たちの中にもボルドがこのまま情夫で居続けることを苦々しく思っている者が少なくないということ。
彼らに対する配慮だ。
もうひとつは裁判を取り下げる代わりに自分の秘密の提案をブリジットに通すためだ。
それは今しがたブリジットから却下されたばかりだが。
「勘のいい方だからな。アタシの考えを見透かされていたのかもしれん」
ユーフェミアにとってブリジットは彼女が幼い頃に教え子だったことから、今でもその時の印象で見てしまうことがある。
そのため、つい彼女を導いてしまおうとするのがユーフェミアの悪い癖だった。
ブリジットからすればユーフェミアが自分の都合の良い方向へ彼女を誘導しようとしているように思えるのだろう。
古今東西、国家に若き女王が誕生すると、老獪な周囲の大人たちはあの手この手で女王を意のままに操ろうとしてきた。
時には政権転覆のために女王が暗殺されることも珍しくはない。
だが、ダニア本家においてはそうした政権転覆の政変は起き得ない。
なぜならブリジットの代わりを務めることが出来る者はいないからだ。
政治的な執務であればユーフェミアにも代わりは出来るかも知れない。
だが武力が物を言う軍務において、別次元の強さを持つブリジットの代わりは誰にも務まらない。
一族の者たちと同じくユーフェミアにとってブリジットは唯一無二の女王だ。
だから一族の永続を望むユーフェミアはブリジットを守り、やがてはブリジットが次の女王となる娘を産むことを何よりも重要視している。
「まさかあのタイミングで黒髪の情夫がブリジットの前に現れるとはな。これが天の采配というものか。アタシの苦労など砂の城を波が崩すがごとくだ」
ボルドが現れる3ヶ月前からユーフェミアは秘密裏にある計画を進めてきた。
1人の人物をブリジットの情夫に据えようと画策していたのだ。
その人物は公国軍の頂点に立つ将軍が、街の娼婦に産ませた落とし児だった。
昔からありふれた話だ。
国家における立場のある人物が妻以外の女に産ませた子は、跡継ぎの問題が表面化する際に一番面倒な揉め事の種になる。
そのために落とし児などは人知れず殺されたり、遠方に流刑になったりして処分されてしまうことが常だ。
多分に漏れず公国軍の将軍もその落とし児の処遇に困っていた。
そして信用できる商人を介してダニア本家に話を持ちかけてきたのだ。
息子をブリジットの情夫として迎え入れる気はないか、と。
この話を聞いた時、ユーフェミアは渡りに船だと思った。
これには公国およびダニア本家の双方に利点がある。
将軍側から見れば落とし児とはいえ自分の血を引く息子だ。
殺したり放逐したりすることなく、引き取り手が現れるのは僥倖だった。
そしてダニア本家からすればそうして公国との繋がりを持つことにより、公国軍からの矛先を直接的に向けられなくなる。
王国と公国の間の緊張感が高まる昨今、公国からの攻撃を事前に回避できるならばそれは何よりの幸運だった。
だが、この話を断ればそれも全てはご破算だ。
ちなみに公国の将軍はユーフェミアの返答次第では、この話を大陸西部の諸国にもするという。
回答が遅くなればせっかくの話はそちらに回ってしまうだろう。
それでもユーフェミアは慎重にブリジットへの情夫の紹介時期を見計らって準備を進めてきたのだ。
いきなり情夫を紹介すると言っても、自分の情夫は自分で決めると言うのがブリジットの性分だ。
それを見越してユーフェミアは、今の本家を取り巻く状況を丁寧に説明し、時間をかけてブリジットを説得するつもりだった。
「それを全て吹き飛ばされてしまった。あのボルドという小僧に」
こうなった以上、ボルドの生死がどうあれ、ブリジットはすぐには次の情夫を受け入れないだろう。
そういう娘だ。
ユーフェミアは椅子に深く腰掛けると天井を見上げ、すでにこの世にない同期の顔を思い浮かべる。
「リネット……。おまえがボルドを誘拐した犯人だと聞いた時、アタシは内心で喝采を送った。これでボルドがいなくなってくれれば好都合だとな。そんな卑劣で姑息な女がこの難局をどう乗り越えていくか、地獄から見ているがいい」
そう言うとユーフェミアは3日後に控える百対一裁判に向けての準備を開始した。




