第76話 『愛しい情夫』
「ボルド。戻ったぞ」
待ちわびたその声にボルドは立ち上がり、満面の笑みで彼女を出迎えた。
「おかえりなさい。お疲れさまでございました」
ブリジットが全ての執務を終えて私室に戻ったのは、ボルドが夕餉を終えてから一時間後のことだった。
「すっかり遅くなってしまったな」
ブリジットが戻ったことで護衛の任から解かれた2人の戦士が退室していく中、部屋には2人の他には側付きの小姓2人がいるのみとなった。
そのためブリジットは遠慮なくボルドを抱きすくめる。
「ん? 良い匂いがするな」
「夕餉にいただいた鱒の香草焼きの匂いが残っているんでしょうか」
「違うな。これはおしろいの匂いだ」
夕刻の湯浴みの後、小姓らはボルドの体についた赤い痕を消すために、彼の肌の色に近いおしろいを体に塗ったのだ。
ボルドは小姓らの配慮に感謝した。
顔馴染みの小姓たちは以前と変わらぬ態度でボルドに接してくれる。
彼らの内心までは分からないが、それはボルドにとってはありがたいことだった。
とにかく今は自身の健康を保ち、身ぎれいにしてブリジットを迎える。
彼女の心を少しでも慰め、一時でも心の支えとなれるよう努める。
それがボルドに出来る唯一のことだった。
「お夕食は?」
「軍議で済ませてきた。味気ないものだったが腹は膨れたよ。本当はおまえと食べたかったんだがな。ボルド。湯浴みをするから共に来い」
「はい。ご一緒します」
それから2人は本邸内の浴場へと向かう。
以前に2人で入った時のことを思い返してボルドはわずかに赤面した。
あの時は背後からブリジットに悪戯をされて、ボルドは我慢できずに粗相をしてしまった。
思い出すだけで顔が熱くなる。
そんなボルドの内心を露知らず彼を促して脱衣場に入ると、ブリジットは衣服を脱いで惜しげもなく素肌を晒した。
ボルドはおずおずと自らも衣服を脱ぐ。
彼の体からきれいに赤い痕が消されているのを見て、ブリジットは目を細めた。
「なるほどな。小姓どもが気を利かせたわけか」
「はい。あの……ブリジット。お湯をかけるとおしろいが落ちてしまうので……」
「アタシは気にしていない。おまえも気にするな。湯をかけねば風邪をひくぞ。さあ来い」
そう言うとブリジットはボルドの手を引いて浴場へ入っていく。
彼女はずっと考えていた。
百対一裁判のことをボルドにどう伝えるか。
裁判には当然ボルドも立ち会うこととなり、ブリジットが黙っていても十刃会からボルドに出廷命令が下れば彼にも処刑のことが分かってしまう。
だからそうなる前にブリジットの口からボルドに伝えなくてはならない。
そんな彼女の苦悩は露知らず、ボルドは以前に教わったやり方で両手を泡立たせ、ブリジットの体を丁寧に洗っていく。
彼はせっせとブリジットの体に手を這わせるが、劣情を抱かぬよう、目線を彼女の体から微妙にずらして必死に自制しているように見えた。
そんなボルドを見ているとブリジットはたまらなく彼のことが愛しく思えてしまうのだ。
あらためて思う。
ボルドのことが何よりも大事だと。
愛しい情夫とこうしていつまでも2人だけの時間を過ごしていたい。
自分の身の内に宿る熱情が、狂おしく叫ぶほどにボルドを求めていることを感じる。
女としての自分の気持ちだけを優先するなら、女王の地位も何もかも放り出し、ボルドを連れて逃げ出してしまいたいほどだった。
だが、自分にはそんなことが出来ないことも分かっていた。
ブリジットとなるべく生まれてきて、今はブリジットとして一族の命運を一身に背負っている。
これを全て放り出せば仲間たちの生活は立ち行かなくなるだろう。
それこそ分家に吸収されたほうがマシという状況になる。
7代目ブリジットとして一族を守る立場にある自分には、全てを捨てて好きな男と出奔することは出来ない。
ブリジットはわずかに唇を噛みしめ、泡まみれの体でボルドをグッと抱き寄せた。
「ブ、ブリジット?」
ボルドは驚きの声を漏らす。
ブリジットの柔らかな双丘が自分の胸に押し付けられてボルドはたまらずに目を白黒とさせた。
「ボルド……」
だがブリジットが発した声が神妙な響きを伴っていたため、ボルドはハッとして彼女の声に耳を傾ける。
「今から……大事な話をする。何も言わずに聞いてくれ」
そう言うとブリジットはボルドを抱く手を少し緩めるが、それでも彼を放さずに体を密着させたまま話を切り出した。




