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第75話 『馬屋にて』

 ベラがボルドの部屋から出ると、ちょうどそこにブリジットが戻ってきていた。

 ブリジットはベラの腕に巻かれた包帯に目をやる。


「ベラ。ケガはもういいのか?」

「ああ。もうどうってことはねえ。ソニアは……今は何とも言えねえな。あのケガだ。あいつの並外れた生命力なら死にはしねえと思うが」


 そう言うベラの肩にブリジットの手が添えられる。


「アタシもここに来る前にソニアの様子を見てきた。弱ってはいるが血の気は戻ってきている。昔、くまに背中を引っかかれて大量出血した時もアイツは生き延びた。今回も大丈夫だ」


 そう言うブリジットにはげまされるベラだが、彼女が自分の肩に手を置いたまま放そうとしないことにまゆを潜めた。


「ブリジット。何かあったのか?」


 そうたずねるベラにブリジットはめずらしく苦悩の表情でうなづいた。


「ベラ。少し話したいことがある。来てくれ」


 そう言うとブリジットはベラをともな本邸ほんていの外に出て馬屋へと向かった。

 子供の頃から内緒話ないしょばなしをするのは馬がブルブルと声を発する馬屋だったことを思い出し、ベラは思わずなつかしい気持ちになる。

 だが馬屋の中で立ち止まると、彼女のそんな気持ちを打ちくだくようにブリジットは言った。


「ユーフェミアがな、ボルドを処刑しろと言い出した」


 その話にベラは一瞬、言葉に詰まる。


「……まさかとは思ったけど、最悪の話になりそうだな」


 ブリジットもベラもあの厳格なユーフェミアがボルドについて何か言及してくるだろうとは予想していた。

 最悪の場合、処刑を求めるのはではないか、とも。

 その最悪の場合に事態は転じようとしている。

 さらにブリジットはふところから一枚の紙を取り出して見せ、ベラをおどろかせた。


「ひゃ、百対一裁判? 本気かよ……あのババア」


 思わず悪態をつくベラだが、ブリジットも気分は同じだった。

 百対一裁判。

 ダニアでめ事が起きた際の解決方法のひとつだ。

 開廷には十刃会による提議が必要であり、それをブリジットが許可すれば裁判の開廷が決まる。


 参加するのはブリジットと十刃会の議員10人。

 そしてその他は現役世代から45人、引退した世代から45人が裁判員として選ばれる。

 こうしてブリジット、十刃会の10人、残りの90人の合計101人で行うのが百対一裁判だった。


 この裁判は最終的な判決が投票形式で決められ、特徴的なのが手持ちの票の格差だ。

 合計90人の裁判員は1人当たり1票の投票が出来るのだが、それ以外の十刃会の議員たちは各2票ずつの投票が出来た。

 そしてさらにブリジットには100票分の割り当てがある。

 これで提議された件について賛成と反対のどちらかを投票し、合計210票を取り合って多数決で決めるのだ。


 たとえばボルドの処刑についてブリジットが反対の100票を投じたとしても、仮に十刃会の全員が賛成票20票を入れるとすると、残り90人の裁判員のうち86人が賛成票を投じれば、賛成106と反対104でボルドの処刑が決まる。

 そしてこの裁判で決められたことは、たとえブリジットでもくつがえすことは出来ないおきてだ。


「百対一裁判なんてライラがブリジットになってから初めてだな」 


 ベラの言葉にブリジットは重苦しい表情でうなずく。

 先代の時、この裁判を見学したことはあるが、ベアトリスの一件についての裁判だったので、ものものしい雰囲気ふんいきだったのをよく覚えている。

 基本的にダニアはブリジットに権限が集中しており、一族の者たちもそれを良しとしているので、百対一裁判が開かれるのは数年に一度あるかないかだった。

 今回のボルドの一件、ユーフェミアらにとってそれほど受け入れがたいということなのかと、ブリジットは痛感する。


「けど、ブリジット。これは考えようによってはチャンスでもあるんじゃないか? この裁判で勝てばボルドがこの先もブリジットの情夫でり続けることに誰も文句は言えなくなる。あのユーフェミアだってな」


 ベラの言うことは一理ある。

 この百対一裁判は100票を持つブリジットが絶対的に有利な仕組みとなっている。

 多くの者がブリジットと逆の票を投じたとしても、わずかな人数の者がブリジット側につけばそれだけでブリジットは勝利するのだ。 

 だが何事にも絶対はない。


 ブリジットはボルドを連れ帰ってからの里の者たちがボルドに向ける視線の冷たさを感じ取っていた。

 この状態で裁判をすればどうなるか分からない。

 ボルドを守るためなら拒否権を行使して裁判の開廷自体を断るほうがいい。

 だが、その場合おそらく自分に対する一族の信頼は少なからず揺らぐこととなるだろう。


 ブリジットは己の心の弱さに自嘲する。

 この迷いを共有したくてベラを雨の中こんな場所に連れてきたのだ。

 ベラとてこんな話を聞かされても困るだろうに。

 そう思ったブリジットはすぐに顔を上げる。


「忘れてくれ。この件はもう少し自分で考える」


 そう言うブリジットにベラは肩をすくめる。


「水くさいこと言うなって。ソニアがあんな状態だし、アタシかシルビアのばあさんくらいしか話を聞いてやれないだろ」


 ベラはすぐ近くで鼻を鳴らす馬の首をでながら続ける。


「ボルドを守るってことはただ単に命を守るってだけじゃない。あいつが後ろ指差されずにブリジットの情夫として堂々といられるよう、その環境を守る事でもあると思わないか?」

「ベラ……」


 ベラも自分と同じようにボルドへの冷たい視線とよそよそしい雰囲気ふんいきに気付いていたのだと知り、ブリジットはわずかにほほを緩める。

 そしてこれ以上、ベラに甘えるわけにはいかないと、ブリジットはベラが何かを言う前に言葉を発した。


「百対一裁判を開廷しよう。堂々とボルドの無罪を勝ち取り、この里の鬱陶うっとうしい空気を吹き飛ばしてやる。ボルドが安心してアタシのそばにいられる暮らしを手に入れるためにな」


 そう言うブリジットにベラはうなづき、それからおどけたような調子で自分の胸を叩いた。


「万が一の時はアタシがボルドを連れて里から逃げてやらぁ」


 その言葉を聞き、ブリジットは絶対にそんなことにならぬよう万全の策を講じねばならないと強く決意した。

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