第60話 『女王は2人もいらぬ』
バーサとの戦いの最中、突如として崩落した地面の穴の中へブリジットは落ちてしまった。
その穴の底には水が張られていて、バシャッという音を立ててブリジットの体が腰まで浸かる程度の深さがある。
(古井戸か? いや……)
鼻をつく嫌な臭いにブリジットは顔をしかめる。
今、彼女が浸かっているのは無色透明な液体だが、水よりは粘度が高い。
(ただの水ではない。油か?)
そして足元と壁は石で固められていて、液体が地中に吸収されぬよう加工が施されていた。
穴は直径2メートル、深さ5メートルほどだ。
(あらかじめ用意されていた罠か)
穴の底に尖った杭が埋められていなかったのは不幸中の幸いだが、側壁に手で触れてみると油が塗られているようでヌメッとした感触が伝わってくる。
これではいかにブリジットの握力と指の力を用いても、壁を這い登ることも不可能だろう。
上を見上げると、穴の縁に立つバーサがブリジットを見下ろしていて、その手には燃え盛る松明が握られていた。
「その液体は可燃性だ。こいつをくべてやればあっという間に燃え上がり、おまえは丸焼けになる。これで終わりだ。ブリジット。油断したな」
その言葉にブリジットは唇を噛む。
すぐに打開策は見つからない。
ブリジットは勝利目前から一転して絶望的な状況に追い込まれることとなった。
「そうだな。戦はどんな手を使ってでも相手に勝たねばならん。満足か? バーサ」
冷然としたブリジットのその言葉にバーサは憮然として拳を握りしめる。
「……満足なわけがなかろう。これでもダニアの女だぞ。1対1で戦っておまえの首を獲りたいに決まっている。周りで一族の女たちが見ているこの状況はまるで針の筵だよ」
ダニアの女戦士にとって力による堂々たる勝利こそが至上の栄誉だ。
もちろん敵との戦いにおいて綺麗ごとばかり言ってはいられない。
勝利のためには卑劣な手段も必要だ。
だが、ダニアの女同士の戦いとなれば話は別だった。
姑息な手で相手に勝利しようとする者は軽蔑される。
バーサとブリジットの戦いを見ていた分家の女たちは、そのすさまじさを目の当たりにし、皆一様に顔を輝かせていた。
本家の女王ブリジットと、自分たちの上役であるバーサの一騎打ち。
見守る女たちからしてみれば世紀の一戦に立ち会える貴重な機会だからだ。
誰もかれも激戦の末の堂々たるバーサの勝利を望んでいる者ばかりだっただろう。
だが、今は皆どこか白けたような表情で状況を見守っている。
もちろん彼女たちも落とし穴の存在は知っていた。
作ったのは自分たちなのだから。
だが、バーサには実力で勝って欲しかったというのが彼女たちの本音であり、それが表情に現れているのだ。
バーサはこれまで戦場で力を振るうことで自らの存在価値を一族の女たちに示してきた。
故にこの状況はバーサにとってもこの上ない屈辱だろう。
「ならば早々にその松明を投げ込んでアタシを焼き殺せばよかろう。そのためにこんな大層な穴を掘ったのだろう?」
ブリジットの冷たい視線を受けてバーサは唇を噛む。
「おまえを倒すのはこんなチンケな炎ではない。ブリジット。こんなところで死にたくなくば、我らが女王クローディアと一騎打ちをしろ。そして負けた場合は本家の勢力を全てクローディアに明け渡すと誓え」
その言葉にブリジットはわずかに目を見開いた。
バーサが……いや、クローディアが欲しているのは本家の戦力だ。
全面戦争で互いに消耗することは避けたいはずだ。
そんなことになれば本家分家に関わらずダニアの力は衰退し、その存続は危うくなる。
それでは元も子もない。
そしてブリジットとクローディアの一騎打ちをバーサが画策したのも同じ理由からだとブリジットは理解する。
ブリジットを倒して本家の勢力を分家が吸収するといっても簡単ではない。
本家で生まれ育った者たちが、同族とはいえ土地も暮らしぶりもまったく異なる分家に合流して暮らすことは容易には受け入れられないだろう。
ましてや姑息な手段でブリジットを騙し討ちして倒そうものなら、本家の女たちが大人しく分家の軍門に下ることは絶対にない。
復讐心に燃えて弔い戦となることは必至だ。
ならばどうするべきか。
それを解決する手段がブリジットとクローディアの一騎打ちなのだ。
ダニアの女たちは何よりも強さを重視する。
クローディアがブリジットとの一騎打ちで威風堂々と勝利すれば、本家の女たちはクローディアを女王と認め、その配下に鞍替えする可能性は十分に考えられる。
バーサがそう画策したのはクローディアならば実力でブリジットに勝てると考えたからだ。
また、クローディアならば女王としての英雄性も十分であり、本家の女たちを惹きつけ従えられると思ったのだろう。
「なるほど。ダニアを統合したいというのは本気のようだな」
「母の果たせなかった務めはワタシが果たす。今こそダニアは一つになるべきだ。しかし女王は2人もいらぬ」
だが、それはあくまでも分家の都合だ。
本家は分家とは断交不戦の立場であり、分家の勢力を吸収しようなどとは微塵も思っていない。
一騎打ちなどする必要はないのだ。
だからバーサはブリジットを強引にでも一騎打ち場に引きずり出すべく、今回の作戦を敢行した。
「さあどうする? ブリジット。こちらの要求を飲まねばおまえを焼き殺すのみならず、ボルドを連れてきて今ここで痛めつけ、辱しめてやる」
そうブリジットに迫ったバーサだが、そこで彼女にとっての誤算が生まれた。
丘の見張りをしていた女の1人が息を切らせて走ってきたのだ。
「て、敵襲です! この丘を目指して大群が迫っています! 少なくとも一千騎以上の騎兵です。掲げているのは……公国の旗です!」
それはバーサにとって予期せぬ事態だった。




