第37話 『さらわれた情夫』
雨の音。
人々の喧騒。
パチパチと何かが爆ぜる音。
そうした物音に目を覚ましたボルドは、自分の体が縄のようなもので縛られているのを知った。
そして口には布が当てられていて、言葉が発せられないようになっている。
その状態のボルドは小さな荷車に乗せられていた。
この異様な状況にボルドは必死に身じろぎしながら、くぐもった声を上げる。
「むぐぅぅぅ」
今、彼を乗せた荷車を引っ張っているのは、頭を頭巾で、背中を外套ですっぽり覆った人物だ。
それが何者であるのかまったく判別はつかないが、その人物はボルドを乗せた荷車を引いて林の中をズンズンと力強い足取りで進んでいく。
この状況を理解したボルドは体の芯が冷たくなるのを感じた。
(誘拐……)
自分が何者かによって連れ去られようとしているのだと知り、ボルドは必死に身じろぎをする。
だが、先ほど首の後ろ辺りに受けた衝撃のせいで体に思うように力が入らない。
さらにボルドの体はかなりきつく荷台に縛り付けられていて、どう足掻いてもそこから逃れることは不可能だった。
ボルドは自分が誘拐されるということがどういうことなのかを考えると恐ろしくなった。
自分の身が危険なだけではない。
それを知ったブリジットがどんな衝撃を受けるのかと考えるだけで、とんでもない事態が起きてしまったと震えてしまう。
彼女の父であるバイロン誘拐の忌まわしい一件のこともあり、ブリジットは絶対にボルドを攫わせたりしないと亡き母にも誓っていた。
だからこそリネットを護衛につけて、自分が見ていない間もボルドを守ろうとしていたのだ。
そこまでしてもらっていたのに、こうして連れ去られてしまったことにボルドは責任を痛感せずにはいられなかった。
(そういえばリネットさんは……)
護衛についてくれていたリネットのことも心配だった。
自分がこうして攫われてしまったということは、彼女はやられてしまったということだ。
最悪の事態を想像してボルドは背すじがゾッとするのを感じた。
「むぐぐ……」
必死に首を巡らせると、後方に明かりが見える。
それを見たボルドは愕然とした。
夜の闇の中に明かりを放っているのは、火を噴いて燃え盛る家屋だったのだ。
それも一つや二つではない。
そこかしこから聞こえてくるパチパチという音は燃える家屋の木材が爆ぜる音だった。
そして鳴り響く喧騒は人々が争う音だった。
ここに至ってボルドは今、奥の里に起きている異常事態を悟った。
(しゅ……襲撃だ)
それはにわかには信じられない出来事だった。
屈強なダニアの女たちが滞在中の奥の里が襲撃される。
そんなことを誰がしようと思うだろうか。
それをしようとする者たちがいるとすれば……。
(分家の……)
ボルドは息を飲み、こみ上げてくる恐怖に体が震えぬよう必死に堪えた。
そして再び荷車を引っ張る人物の背中を見る。
外套に隠れたその姿が分家の女だとしたら、自分を攫う理由はある。
分家は黒髪の男を集めていると先代が話していた。
そして自分がブリジットに対する人質としても使われる恐れがある。
ボルドがそれを危惧したその時だった。
「待て! そこのおまえ!」
荷車を引く人物を呼び止める声が響く。
後方から赤毛の女戦士たちが2人ほど追いかけてきた。
「その荷車は何だ? こんな時にどこへ行く? 動くなよ。ゆっくりこちらを向け」
荷車を引く人物にそう声をかけて警戒しながら、女戦士たちは荷台に乗せられたボルドに目を凝らし、その黒髪に目を止めると驚愕の声を漏らした。
「ブ、ブリジットの情夫の……」
だが、その言葉は最後までは発せられなかった。
女戦士の頭にナイフが突き立てられたからだ。
頭巾を被った人物が目にも止まらぬ速度で振り向きざまに投げつけたものだ。
女戦士は倒れて動かなくなる。
仲間が即死したのを見たもう1人の女戦士は即座に腰の短刀を抜き放ち、唸り声を上げながら頭巾の人物に飛びかかった。
「うおあああああっ!」
体格ではダニアの女戦士のほうが大柄だったが、頭巾の人物は組み付いてきたその女戦士を巧みに組み伏せる。
そしてその手から短刀を奪うと、それを持ち主である女戦士の後頭部に容赦なく突き刺して殺害した。
恐ろしいほど手慣れた殺しの手腕だが、組み付かれたその勢いで、被っていた頭巾がハラリと脱げてその素顔が露わになる。
里の建物を燃やす業火の灯りに照らされたその顔を見て、ボルドは我が目を疑った。
「やれやれ……見られたか」
そう言って恨めしげに死んだ女戦士を見下ろしているのは、ボルドを護衛していたはずのリネットだった。




