第28話 『困惑の夜』
「私がついていながら申し訳ございません」
そう言ってシルビアは深々とブリジットに頭を下げた。
伽を終えたばかりの深夜だというのに、別邸の応接間にはブリジットとボルド、それにシルビアの3人が集まっていた。
先代ブリジットが娘である当代ブリジットの伽の最中に褥を覗いていた。
そんな口にするのも憚られる前代未聞の事態が起きたことに、どう対処すべきか一同は一様に冴えない表情を浮かべている。
別室では先代ブリジットがベラとソニアに付き添われて待機していた。
「まずは話を聞かせてくれ。母上はどうやって本邸から抜け出したのだ?」
そう問うブリジットの口調は叱責するというよりも困惑しているといった調子だった。
シルビアは心苦しそうに頭を下げる。
「先代は……まだ現役だった頃の影をその身に引きずっておいでなのです。普段は歩くのもご苦労されているご様子だというのに時折、驚くほど俊敏に、そして気配を悟らせず振る舞われることがございます。先ほどもそうでした。夜半にご様子を窺った際はスヤスヤお眠りでいらっしゃったのに、その数分後にはお部屋からお姿が……」
先代の寝室の外には常に衛兵役の女戦士や側仕えの小姓らが控えているのだが、緊急時以外に寝室の中に入ることを許されているのはシルビアのみだ。
彼女がいつもの務めで先代の様子を確かめてから数分後、寝室のドアの隙間から風が吹き込んで来たのを不審に思った衛兵の報告を受けてシルビアが再び寝室に入ったその時には、すでに窓が開かれて先代はそこから姿を消していた。
その話を聞いたブリジットは瞠目する。
「いまだにか?」
ブリジットは椅子に腰をかけたまま深く息をつく。
先日、先代の姿を間近で見たボルドにはとても信じられなかった。
歩くのもままならない様子だった先代が、音も立てずに窓から瞬時に脱出するなど想像もつかない。
だが、そこからのブリジットとシルビアの話を聞いてボルドにも事情が分かってきた。
先代は今、心身の好不調にムラがある状態だという。
頭がハッキリとしていて受け答えも毅然としている時もあれば、茫洋としていて会話も成り立たぬ時がある。
体についても同様で、不調の時は杖を手放せぬほど歩行に支障をきたしているというのに、調子のいい時はいきなり鋭く杖を振るって庭を飛ぶ蜂を叩き落としたりすることさえあるという。
要するにブリジットとしての往年の力の欠片がまだほんの少し体内に残されていて、時折その残滓が顔を覗かせるのだという。
「まさか昨夜の覗きも母上だったというのか?」
そう顔をしかめるブリジットに、シルビアは即座に首を横に振った。
「まさか。昨夜はどこにもお出になられることなく、ずっとお休みでいらっしゃいました。間違いございません」
その話を聞き、ブリジットは嘆息するとシルビアに命じた。
「緘口令だ。この話は今この別邸にいる者たちのみに留めておくように。絶対に口外するなと皆に伝えてくれ。それから人払いを。アタシが母と2人だけで直接……いや、ボルド。おまえだけは一緒に来い。母上と3人で話をしよう」
ブリジットの言葉にボルド以上にシルビアが驚きの表情を見せる。
「ボルド様もですか? だ、大丈夫でしょうか……」
不安げなシルビアに対し、ブリジットは泰然と言った。
「案ずるな。こうなった以上、母とは一度ちゃんと話をせねばならん。今のうちにな。この奥の里にいられるのも後、数日だ。次に戻るのは一年先になるやもしれん。おそらく……今後きちんと話せる機会は少なくなっていくだろうからな」
次に戻る時にはすでに母はこの世を去っているかもしれない、とは言わなかったが、そんなブリジットの言葉にシルビアは沈んだ顔を見せる。
「時の流れは残酷にございます。先代は私の半分ほどしか生きていらっしゃらないというのに……」
時は等しく流れるが、命の長さは不平等だ。
ダニアの一族において、容姿、能力ともに異彩を放つブリジットの血筋は総じて誰よりも早く老いて死ぬ。
シルビアは彼女と同世代だった先々代のブリジットを見送り、そして近い将来にまた先代を見送ることになるかもしれないことを嘆いた。
「せめてこの老体よりは長らえていただきたいものです」
「そんなことを言うな。アタシにはまだおまえが必要だぞ。シルビア」
そうシルビアを慰めると、ブリジットはボルドを伴い先代の待つ別室へと向かっていった。
ボルドはふとブリジットの横顔を見やる。
母親の部屋へ向かう娘の顔には、困惑と憂鬱の入り混じった重苦しい表情が浮かんでいた。




