第26話 『2人きりの食卓』
「ボルド。今夜は2人で夕飯だ。たまには2人きりで卓を囲むのも悪くないだろう?」
軍議を終えて別邸に戻ってきたブリジットは開口一番そう言った。
普段、食事の際は常に傍に小姓らが控えていて、2人きりで食事を共にすることはない。
だが、この夜は小姓たちも配膳を済ませると退出していき、本当にブリジットとボルドは2人きりで夕食を共にした。
「リネットから色々と話を聞いたか?」
食事を口に運びながらそう言うブリジットの言葉にボルドは頷く。
リネットは昼の間の護衛を終えて、戻ってきたブリジットと入れ替わりに帰っていった。
ボルドは彼女から聞いた話を思い返す。
ベテランの女戦士リネットは彼女自身が言っていた通り、暗殺者として10年以上に渡りその腕を振るい続けてきた。
「あいつは敵陣に単身で潜入し、狙った相手の誘拐や暗殺を手掛けてきた。そうした経験からくる観点は、きっとおまえを守るのに役に立つ。そう考えてアタシはリネットにおまえの護衛を命じたんだ」
あの気さくな人柄のリネットが、そんな殺伐とした任務に従事してきたことは、にわかには信じ難い。
そんなボルドの気持ちを読み取ったのか、ブリジットはボルドの額を指でつついて言った。
「そんな顔するな。アタシらは皆、戦士である以上、しょせんは戦に出る人殺しだ。そうして生き延びてきた。それは必要なことだったからだ。だが……我が一族が子孫の代までこんな暮らしをこの先何百年も続けて行くのかと思うと、少々気が滅入る時がある」
そんなブリジットの言葉をボルドは意外に思った。
ベラやソニアらダニアの女たちは、この流浪の暮らしを楽しんでいるように見える。
「略奪で手に入れられる物資は年々、緩やかに減っている。我らを警戒して隊商なども一度に運ぶ荷物を少なくしているし、年に数度の大隊商には公国の軍勢が護衛に付いているため手出しは出来ん。それに公国が本腰を入れて我らを討伐しようとすれば、さすがに太刀打ちするのは不可能だ。物量が違うからな」
ブリジットは珍しく憂慮に満ちた表情を見せた。
先行きの不安さを感じているのだ。
ブリジットはダニアを率いる女王だ。
その肩にのしかかる責任たるや、他の誰にも分からぬ重さだろう。
ボルドは思わず尋ねた。
「今の暮らしを……変えたいとお思いですか?」
かつて分家のベアトリスが提言したダニアの統合と王国の庇護下に入ること。
代償は払うことになるが、それによって安寧の暮らしを得ることは出来る。
そのことについてブリジットなりに思うところがあるのかとボルドは思ったが、彼女はそんな考えを一蹴する。
「王国の庇護下には入らぬ。我らが剣を振るうのは我ら自身のためのみだ。他人の意のままに動く先兵にはならん」
そう言うとブリジットは静かに茶を飲み、それからボルドに穏やかな笑みを向ける。
「今から言うことは今まで誰にも言ったことはない。ベラやソニアにもな。アタシには……夢がある」
「夢……ですか?」
夢。
奴隷としてその日を生き、明日へと命を繋ぐことだけに精一杯だったボルドには、夢などというものは無縁だった。
彼自身はもちろんのこと、他人が夢を語るところも見たことはない。
だからブリジットが夢、と語ることについてボルドは羨望と興奮を覚えた。
「ああ。アタシは……ダニアの国を作りたい」
「国を……」
「そうだ。流浪の暮らしなどせずとも、アタシたちが安心して暮らせる国を」
国を作る。
それは民が暮らす土地を統治することだ。
そんなことが実際に出来るものなのかどうか、ボルドには想像することすら出来ない。
それくらい途方もない夢だった。
それでもその夢を語るブリジットは、照れることも恥じることもなく堂々としていた。
「その国を……あなたが作る国を、見てみたいです」
そんな言葉がボルドの口を突いて出る。
彼女の国を見てみたい。
そして願わくばその国の一員となりたい。
ボルドは生まれて初めてそんな希望が胸に湧くのを感じて、高揚した気分を抑えられずにそんなことを口にした。
それを聞いたブリジットは、初めて照れたように笑う。
「そうだな。いつか見せてやる。だからおまえはずっとアタシの傍にいるんだぞ」
そう言うとブリジットはやさしくボルドの頬を撫でた。
それから彼女は食卓のすぐ隣に置かれた配膳台に手を伸ばし、そこから盆を取る。
そこには水差しと薬粉を入れた包み紙があり、ブリジットはその薬を水で服用した。
「その薬は?」
「ああ。そういえば、おまえの前で飲むのは初めてだったな。これはな、子が出来ぬように細工する薬だ。毎日この時間に飲んでいる」
その言葉にボルドは思わず顔を赤面させる。
彼女の情夫となってから毎晩のように肌を重ね合わせてきた。
そうした頻繁な男女の交わりの結果として、いつ子を孕んでもおかしくはないのだ。
ボルドは以前に小姓が言っていた言葉を思い返す。
歴代のブリジットらは情夫との間に出来た子をその身に宿してきた。
いつかブリジットがボルドの子を産みたいと心から願うその時が来たら、彼女はこの薬を飲むことをやめるのだろう。
そんな日が来ることはボルドには信じられなかった。
だが、もしそんな日が来るとしたら、それはとても幸せなことなのだとボルドはそう思わずにはいられなかった。
そんな彼の思いを露とも知らず、ブリジットはボルトの顎に手を添えると、よく手入れされて艶やかな彼の唇を指でなぞった。
「食事は済んだが、まだ物足りないな。次にアタシに食べられるのは、おまえだ。ボルド」
そう言うブリジットの目に妖艶な光が浮かぶのを、ボルドは息を飲んで見つめることしか出来なかった。




