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第17話 『先代ブリジット』

 窓から夕刻の風が吹き込んでいる。

 浴場でのなやましい時間を終えたボルドは呆然ぼうぜんと風に当たり、過剰かじょう火照ほてった頭と体をましていた。

 シルビアが用意してくれた果汁入りの飲み物は甘くて飲みやすかったが、その味すらも楽しむ余裕がないほどボルドは心身を疲弊ひへいさせていた。

 そんな彼の姿にシルビアはわずかに同情の眼差まなざしを向ける。


「ブリジットもおたわむれが過ぎますね」


 湯煙ゆけむりの中で執拗しつようにボルドをでたブリジットは浴場から上がると、別室で小姓こしょうたちから入浴後の化粧をほどこされていた。

 彼女の母親である先代との面会のためだ。

 ボルドはすでに正装に身を包み、身支度みじたくを整えていた。

 その姿を見てシルビアは目を細める。


不思議ふしぎですね。お顔のつくりは似ていないのに、黒髪というだけで亡きバイロン殿に似て見えるのですから。ああでも彼もボルド様と同じように細身でしたから、雰囲気ふんいきが似ていらっしゃるんでしょう」


 シルビアの言葉にボルドはピンときた。


「もしかしてバイロン殿というのは……」

「ええ。先代の情夫であった方です。ブリジットからお話は聞かれましたか?」

「ええ。少し……ですが」

「そうですか。バイロン殿はあなたと同じ黒髪で、その物静かなたたずまいもよく似ていらっしゃいましたよ。そうですか。ライラお嬢様があなたをお選びに……あ、これは失礼」


 そう言うとシルビアはライラというのが成人する前のブリジットの幼名であったことを告げた。

 15歳の成人後にブリジットを名乗ってきた歴代たちは皆、14歳までは幼名で呼ばれていたのだ。

 ライラという名前が彼女の以前の名だったのだと知り、ボルドは彼女の顔を思い浮かべる。


 ライラ。

 ブリジットという名前よりもよく似合っているようにボルドには思えた。

 自分が彼女をそう呼ぶことはないが。

 ぼんやりとそんなことを考えるボルドの表情を見て小姓こしょうの1人が気遣きづかわしげに声をかける。


「ボルド様。少し外の風に当たられたほうがよろしいのでは?」


 そう言われ、ボルドは頭が茫洋ぼうようとしている状態を切り替えるべく、居間からして中庭に出た。

 広い館の中庭はちょっとした庭園になっていて、常緑樹が葉を茂らせている。

 山間から吹き抜けてくる風は冷たいくらいだったが、今のボルドには何よりも心地良かった。

 少しだけ頭がスッキリとしてくる。


 それからボルドは風が木々を揺らす音を聞きながら中庭をゆっくりと歩いた。

 こんなふうに自然を感じながらゆったりとした時間を過ごすのは生まれて初めてのことで、ボルドは不思議ふしぎな心持ちで、自分という存在を俯瞰ふかんした。


 奴隷どれいだった自分。

 情夫となった自分。


 今、目の前を風に吹かれて飛んでいく一枚の葉のように、自分はどこかに流されてやがてちていくのだと感じる。

 それが悲しいわけではないが、人の一生とは一体何なのだろうと考えずにはいられなかった。

 そんな取りとめの無いことを考えている時だった。


「……バイロン?」


 ふと背中にそう声をかけられて振り向くと、木々の間から1人の女性が歩み出てきたのだ。

 老女……というにはまだ若い気がしたが、その髪は真っ白でつやがなく、その顔は生気を失ってかわき切ったろうのように白かった。

 だが、その顔を見たボルドはハッとした。

 なぜならその女性の目元や口元にはハッキリとブリジットの面影おもかげにじんでいたからだ。

 その女性が先代のブリジットであることは疑いようもなかった。


「も……戻って来てくれたのね。バイロン」


 かすれた声でそう言う先代の目から、見る見るうちに涙があふれ出す。

 そして先代はヨロヨロとした足取りで一心不乱に歩きながらボルドに向かってきた。


「ゆ、許してなんて言わないわ。おまえを死なせたアタシを許さないで。一緒に地獄に連れて行って。地獄で永遠におまえに謝り続けるから」


 中庭を必死に歩く先代をボルドは呆然ぼうぜんと見つめ続けたが、彼女がボルドの数メートル手前でつまづきかけたのを見て思わず駆け寄って手を差し伸べた。

 すると先代は感極かんきわまって必死にボルドにすがりつく。


「ああ。バイロン。あの時おまえを処刑してしまったこと、アタシはずっとずっとくやみ続けているの。一族のおきてなんかより、おまえのほうがはるかに大事だったのに。アタシはおろかだった。バイロン」


 ボルドはその女性を支え続けるが、女性の力が思いのほか強く背後に倒れ込んでしまう。


「うわっ!」


 それでもボルドは彼女を抱きかかえ、身をていして守った。

 そこで背後から駆け寄ってくる足音が聞こえ、倒れたままボルドは首をめぐらせる。

 向かってきたのは正装に身を包んだブリジットだった。


「母上。そこにいるのは我が情夫たるボルドです。父上ではありません」

「ライラ……」


 そう言った先代はボルドの顔を間近から見つめた。

 そして目の前にいるのが最愛の情夫だった男ではないと知ると、肩をふるわせてむせび泣くのだった。

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