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いつでもそばにいるよ。  作者: 大和麻也
チップをください
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 パパの夢を見た。

 夢に出てくるパパは、まだ酒に溺れていなくて、私に対してとても優しく、紳士的に接してくれる。その顔は、嬉しそうに笑っている表情までは何となくわかるけれど、全体像としては朧げにしか浮かんでこない。若いころの顔だから。不器用だったのは昔からだったようで、口許に貼った絆創膏が印象的だったから、そこだけは克明な映像で思い出される。幼い私は、そんな彼を「パパ、パパ」と呼んで追いかける。

 この日見たのは近所の公園に遊びに行ったときの様子だった。記憶が曖昧なせいか、夢を見るたびに出かける先が異なっている。ある日は遊園地だったり、ある日はレストランだったり。夢の中でどこへ出かけるのも楽しいけれど、身近な場所に行って会えたことはとても嬉しかった。

 ベッドから体を起こしたとき、もう一度眠ってしまいたいとさえ思った。

 カレンダーに目を向ける。

 ああ、そうだった。

 きょうが命日だったのか。

 良いときに良い夢をみたものだ。



 打って変わって随分と元気じゃない、と開口一番チーフにからかわれた。

 ひとえに今朝の夢のおかげだが、彼女は私の父の命日までは知らない。確かに、自分でも可笑しくなってしまう。きのうのきょうで、かなり気分が良くなっている。クソおやじが店に現れても、穏やかな気持ちのままでいられたくらいだから。傍からは、私の情緒が不安定にも見えてしまうかも。

 胡麻塩頭が食事を終えたらしいことに気づき、彼のところへ向かう。彼はいつもコーヒーを注文してくれる。料理と炭酸水とコーヒーと、彼も客としては悪くない。カネの生る木としては上等だ。

 普段は料理を食べ終えると、たいてい、私が訊きに来るのをふんぞり返って待っている。私が尋ねると、彼は「もちろん、頼むよ」と横柄に言って、コーヒーを待つ。鞄から取り出した地域新聞を読んで過ごし、飲み物が届けられると、いやらしく口の端をぴくりと動かす。カップが空き、新聞を畳んだら会計の合図だ。

 ところが、少し様子が違った。相変わらず料理は綺麗に完食しているが、顔を伏せてじっと口を結んでいる。テーブルの上で手を組んで、指を動かし弄んでいる。待ちくたびれているというふうでもなく、不機嫌というよりは無気力といったふうに静かに座っていて、ひと回り小さく縮こまって見える。

 横柄にしてくれていたほうがこっちもやりやすかった。唇を舐めてから問いかける。

「コーヒー、いかがですか?」

 彼はゆっくりと顔を上げると、ううん、と唸った。

「いや、きょうはいい。支払いを頼むよ」

 なんだ、残念。

 チップをもらえない、つまらない金額の計算が始まる。

「左様ですか。ではお代は――」

「きょうは、これから教会へ行くんだ」

 唐突に世間話? このおやじ、やはり私と親しくなったつもりになっているのか。

「はあ……? お仕事はお休みにされたんですね」

「ああ。実は……親しかった人が亡くなった日でね」

 父さんと同じ命日か。思いがけない偶然だ。

 会計の金額を告げると、ふう、と息をついて、彼は財布から札を取り出した。コーヒーのぶんがいつもより少ないから、札は一枚少ない。釣り銭もやや少なくなるようだ。注意しながら釣り銭を用意する。

「ああ、いい。持っていきなさい」

「へ? ……あ、ありがとうございます」

「料理、きょうも美味かった」

 うそ。

 チップ、もらっちゃった。



 その路線の電車に乗るのは久々だった。

 きょうは早番で、あすは非番。仕事が終わったその足で、私が育った田舎町へと向かった。悔しいけれど、あのクソおやじに感化されて、地元の教会で眠る父さんの墓に行こうと思ったのだ。初めてもらったチップは電車賃に充てられた。

 そういえば最後に父さんの墓に行ったのはいつだっただろうか。少なくとも、自分の意志で足を運んだことはない。祖父母は酒に逃げた息子を出来損ないと思っていて、一年もしないうちに墓参りをやめた。墓参りのときは毎回祖父母から猫なで声で励まされたから、父さんのことは好きでも、墓参りをする気が失せてしまったのだろう。

 車窓からの風景は、十分過ぎるごとにさらに鄙びていく。育ちの町は何の取り柄もない田舎だった。寂しいところだ。こんなところは離れて正解だった。しかし、よく言えば自然豊かなその町に、懐かしいという感情を覚えるとは思わなかった。

 駅からバスに乗るお金をケチって、教会までは歩いて行った。ここの牧師は説教臭くてあまり子どもに好かれていなかった。私はどちらかと言いえば、教会にいる時間が好きだった。日曜日に教会にいるあいだは、祖父母も静かにしていたから。

 牧師には挨拶せず、勝手に墓地に向かうことにした。教会で過ごす時間は好きだったけれど、教会や牧師にはさほどの思い入れはない。それに、久しぶりに会う彼から、説教臭く昔話をされても面白くない。

 墓地に人の気配はない。平日の昼間だ、そんなものだろう。墓標の間を歩いていく。父さんの墓標は、あの大木を曲がった先だ。

 そこを折れると、初めて人影を見つけた。

「あなたは……」

「やはり、キミも来る気になったか」

 どうしてか、そこにはあのクソおやじが立っていた。


「黙っていて申し訳なかった。キミの父親は私にとってもまたとない存在だったんだ」

 私の記憶に残る父さんは、酒瓶を抱えていることはあっても、友と肩を組んでいたことはない。外に出かけて酒を飲むときには共に語らう仲間がいたのかもしれないが、家にまで連れてくることはなかったし、独りでいることのほうが多かった。

「ええと、その……」

「気楽に話してくれて構わない。ここは店の外で、店員と客の関係もない」

「そういうことなら、遠慮なく」

 ふう、と息をついて気分を落ち着かせてから、問いたいことを思いつくままに並べていく。

「父さんとはどういう関係? 職場の友達?」

「そんなところだね」

「私のことも知っていたの?」

「キミがまだ小さなころから。養子だということも」

「母さんがいなくなって、父さんが死んでからの私も?」

「少しだけ。店で会ったのは、最初は偶然だった」

 知らない誰かに自分を知られているというのは、あまり気分の良いことではない。それを踏まえて、彼は最初に詫びたのだろう。謝ったのだから、そのことはよい。それよりも訊きたいことを訊かなければ。

「私を知っていて、あなたは結局――私に好かれようとしていたの? それとも、嫌われようとしていたの?」

 彼は首を傾いだ。

「どういう意味の質問かな?」

「親友の娘にチップを渡すのは、気が引けたの?」

 そういうことか、と彼は大きく頷いた。

「ああ、それも済まなかった。やはり、怒っていたか。いや、それがキミの言う通りで、気が引けて渡せなかったんだ」

「男女差別が云々っていうのは?」

 彼はふっと鼻で笑った。皮肉を言われたことに気がついたらしい。

「言われてみれば、そう言ったことがあったね。多少そういう考えではいるが、まあ、適当な言い訳だな。本当のところ、亡き親友の娘が、親友の愛した肉親が、どんな大人になったのか知りたくて、年甲斐もなく気を引こうとしてしまった」

 大人げのない気の引き方をしてくれたものだ。チップをケチって憶えてもらおうなんて、好きな子にちょっかいをかける少年のようなことを。どうせなら、好かれようとしてほしかった。異常なほど多額のチップを渡してくるとか。

「そんなことをしたって仕方がないのに。どうせ、私はあなたのことを知らなかったんだから」

「まったく、返す言葉もない」

 表情がほころんで、私は彼の照れ笑いを初めて見た。険しい表情で顔の筋肉が凝り固まってしまったものと思っていたが、案外、茶目っ気のある表情を浮かべてみれば若々しく見えないこともない。

 少し愉快で、くすぐったくて、体中から力が抜けていった。風船のガスが抜けるみたいに。たぶん、彼も似たような感覚でいるはずだ。

 それから、彼は私が知りたがっていると思ったのか、父さんとのことを感傷的に語りだした。

「長い間、楽しくやっていたよ。バカなことばかりだったが、色々なことを共にした。養子を取ると聞いたときには驚いたなぁ。でも、私は賛成した。喜ばしく思った。そうでなければ、子どもを持つことができなかったからね。しかし、時期が悪かった。不景気で仕事を失ってからは、心身とも辛かったんだろうな。酒に溺れてしまっても、疎遠にせずまめに連絡を取っておくべきだった。あのとき私が彼をフォローできれば、違った運命があったのかもしれないと、いまでも思うことがある。私も同じく楽な状況にはなかったが……言い訳にはならないか。まさか、先立たれるとは思ってもみなかった」

 その声は感傷的ではあったが、唇を震えさせるでも、涙を流すでもない。淡々と語る。ただ事実を伝えようとしているかのように。彼にとって父さんの死が大きな衝撃であったには違いなくても、どこか私に近いところもあるのかもしれない。悲しもうにも、それを表現する仕方に、悲壮感が伴わない。

 ふっと笑って彼は呆れたような眼差しを墓標に向けた。

「死んだのは運が悪かった。運命のいたずらだ。だが、立派だったよ。自分に嘘をつかなかった」

 今度は私を振り返った。

「客として見ていた私が思うに、キミも父親から良いところを授かることができたのだな」

「…………」

 彼に前を譲ってもらい、しゃがみ込む。父さんの名前を何度か繰り返し読んで、少し墓標を撫でる。思い付きでここまで来たから、特に湧き上がってくる言葉はない。センチメンタルな想いもない。偏屈な彼に不意に会って、感情をどこかに投げ捨ててしまったのかも。でも、ここに来たいと思った自分に応えられて良かった。

 長居をする場所ではないか。

「もう帰ることにする」私は立ち上がり、踵を返す。「別に、それほど強い想いがあってここに来たわけではないし、居すぎるともっと嫌な連中とも会う羽目になる」

「そうか」彼の表情には、また別の種類の寂しさの色が差し込んでいた。「私はもう少しここにいよう。みっともないと思うかもしれないが……正直なところキミと違って、私は彼との別れに、未だに、完全には心の整理がついていない」

 いいんじゃないかしら、素直な気持ちで。

 さっと手を振って去ろうかと思ったけれど、気が変わって立ち止まる。もうひとつ訊いておかなければならないと感じたから。私は彼と違って父さんへの気持ちに整理がついている。けれども、はっきりさせておかないと気が済まないことだったら、まだ残されていた。

「最後に。あなたは、私のお母さん――になるはずだった人のことは知っているの?」

 彼は静かに頷いた。しかし、すぐに首を横に振った。

「気の毒だが、その女性に会うことは叶わない」

 その答えは、薄々予感していたものだった。



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