2/4
「だから言ったでしょ。『バレないように』って」
始業前のロッカールーム、チーフは飄々と語る。
「店長もプライド高いからねぇ。別に担当テーブル交換したくらいで営業に支障がないことくらいわかっているんだろうけれど、命令違反って言って目くじら立てるんだもの。意味はなくても、言うとおりにしない奴には大声出したがる」
別に悪い人とは思わないけどね、とエプロンの紐を背で縛りながら付け足す。
「ごめん。今回は完全に、一方的に私が悪い」
「あんなの怒られたうちには入らないよ。説教する中身は空っぽだし」
チーフが小さいことを気にしない人で良かった。こういう友達を持てたことは幸せだ。
エプロンを着て表に出る。気分は乗らない。憂鬱の原因は過去と未来にひとつずつ。店長の怒声が耳についていることがひとつ、きょうからまた偏屈おやじの接客をしなければならないことがひとつ。前を考えても後を考えても楽しいことがないときは、ただ目の前のやるべき仕事をぼうっと片付けていくことになる。
我慢の時間が始まる。
「ああ、そうだ」チーフが再び口を開いた。「あのおやじ、私にはチップをくれたわよ」
「え、いま何て言った?」私は友人が冗談を言っているものと思った。「きのうは給料日だったの?」
すると、チーフはふっと口元で笑ってみせて、それ以上の言葉はなく、開店とともに最初の客の対応へと去っていった。
彼女がそのように笑うときというのは、たいていの場合、大した意味はない。「面倒臭いことになった」「あんたも苦労しているよね」――ちょっとした皮肉な気持ちを含んだ愚痴のようなもの。そうとわかっているのに、どうしてか、心の表面には苛立ちが浮き上がってくる。
最悪の気分だ。
無心で仕事をしたくても、胸の奥にイライラが引っかかる。
自分でも接客が乱暴になりがちなのを気にしながら、それでも努めて笑顔を作るのに慣れてきたときに限って、あの偏屈おやじが来店する。きょうほど彼に来てほしくない日はなかった。
きのうのことがあったせいか、彼は店に入ってから少しばかり立ち止まる。さっさと座ってよ、担当はいつも通りに戻ったんだから。
やがて彼も気がついて定位置に座す。焦らされていた私は、彼に一息つく時間を与えず、メニューを届けた。
「お飲み物は何を頼まれますか?」
どうせ炭酸水を頼むことはわかっている。面倒だから一緒に料理の注文も済ませてもらえると嬉しい。
「…………」
「……何か?」
偏屈おやじはなぜか沈黙している。メニューも開かず、私の眉間のあたりを焦点の定まらない目で見つめている。
「いいや、嫌に丁寧だから面食らっただけさ」
「はあ」
「むっつりとして『何を?』としか言わないところだ」
「…………」
確かにこの中年男の相手には辟易しているから、普段なら適当にしか声をかけない。どれだけ丁寧に尋ねても、注文は炭酸水と決まり切っている。ところが、今回に限って苛立ちもあって仕事を手短に済ませたいあまり、かえって不自然に声をかけてしまったようだ。
そういえば――私はこの男にだけ特別な対応を見せていたということか。皮肉を言われて気がつくなんて。
「気を悪くしたなら済まないね、からかってみただけだ」
嫌味たらしい口元の笑み。つられて私も笑顔で現在の心持ちを表現する。
「ええ、そうですか。それで、注文は?」
「いつもと変わらないよ。毎度世話になるね」
「…………」
「どうした? どの料理かちゃんと言ったほうがいいか?」
「いいえ、ちょっと面食らってしまって。お礼を言っていただけるなんて」
彼は目を見開いた。ただ驚いているのか、それとも私の返事に腹が立ったのか、そのジェスチャーだけではわからない。おそらく両方だろう。大声を出してくれなければいいけど。私が悪いとはいえ、また店長に怒られるのはごめんだ。
クソ真面目は何と言って怒りだすかな、とおなかに力を入れていると、思いがけない返答があった。
「どうやら気分が荒んでいるようだ。何かあったか?」
「…………」
ありましたとも。主にあんたのことで。
「あっても言えません。個人的なことなので」
「……そうか」
すでに注文を受けていたのだから、皮肉なんか返さないでさっさと戻ればよかった。
チーフの表情は、仕事が終わった喜びに晴れ晴れとしていた。
「何よ、きのうより荒んでいるんじゃない?」
同じような言葉は、交代の引き継ぎのときにも言われた。「疲れているんじゃない?」と。悪気がないことはわかっている。偏屈おやじの相手をしたことのない店員だったから。
わかっていることと、感情的にどう受け取るかは別問題だ。
「ごめん、きょうは何を聞いても全部皮肉にしか聞こえないと思う」
「もしかしてあんた、あたしが開店前に言ったことを気にしていたの?」
その通りだ。
ただし、そのときの苛立ちとは少し違った気分でいる。あの男の態度の違いや、チーフの澄ました態度は、もはや気にならない。いまは、気持ちが悪い思いでいる。
チーフと私とでは、接客の態度に大きな差はないはずだ。ほかの店員と比べても同じ、こなすべきサービスをできる平準的な店員である。それなのに、私にはチップを渡さず、私以外にはチップを渡す。つまり、奴は私の前でだけ偏屈おやじなのだ。担当を交替したところでなんの意味もない。奴はほかの店員の前ではごく普通の来客を演じ、そのうちにまた私を追いかけてくることになる。
チップを渡したくない理由は私にある。いろいろとクソ真面目な御託を並べていたけれど、奴は最初からそんなことを考えていたのではない。ただ、私に嫌がらせをしようというだけなのだ。
でも、そのストーカーじみた態度が気色悪いのではない。それだけならば、適当に接客していればいいのだ。ちょっとチップをもらえないくらいなら、やる気はなくなっても死ぬわけではない。あの男のほうも、私にイタズラをしたところで面白みがないとわかれば去っていくはず。
本当に気に入らなかったのは、あの問いかけ――私を心配するような言葉をかけてきたこと。鳥肌が立った。気持ち悪くて仕方がなかった。
「別に私を狙って嫌がらせしていることくらい、わかっていたし、それならそれでもいい。チーフはもらえるだろうなって、交替するときからそんな気がしていたもの」
そうだろうね、とため息交じりの相槌。着替えの手を止めて腕を組み、壁に寄り掛かる。
本当は面倒くさいとしか思っていないのだろうけれど、話を聞こうという恰好だけは見せてくれる。彼女はそういう人間だ。
「どうして『何かあったのか?』なんて訊けるのかな?」不快感が度を越えて、もはや面白可笑しく思えてきた。嘲笑が漏れる。「自分が好かれているとでも思っているの? 少なくとも、嫌われているってわかっていないから訊けるんだよね。訊いたら私が素直に話しはじめると思い込んでいる。私を楽にしてやれると思い込んでいる。ああいう奴って心底嫌い」
私はそういう奴に育てられてきた。
自分で働いて食えるようになるまで、我慢してきた。
もう充分我慢してきた。人生の大半をそうやって過ごしてきたのだから。たとえ店の客、ほんの一日一時間くらいのあいだでも、これ以上私が耐える必要なんてあるのだろうか。そうだとしたら、不条理だ。
私は祖父母が嫌いだった。ほとんど孤児のような状態にあった私を育ててくれたことには感謝しているが、自分たちが私をそのような状態にしたとはひとつも思っていない、ふざけたふたりだった。
父さんは少々神経の弱い人だった。そんな彼はこれといった恋愛をしてこなかったが、初めてできた恋人と結ばれようとしていた。しかし彼女は子どものできない身体だった。父さんはそれでも彼女以外のパートナーはありえないと思っていたらしく、養子を迎えることにした。それが私だ。
出自については幼いうちから知らされていたから、それほど違和感を覚えずに暮らしてきた。大きくなってから聞いた話だが、匿名で譲り受けた子だから、どのみち血縁的な両親には会うことはできない契約だったらしい。
それなりに幸福な暮らしを送っていた。
しかし不運だったのは、当時の不況の煽りを受けて、両親が職を失ってしまったことだ。
仕方なく、父さんの両親――祖父母――を頼ることにした。それまで一定の距離を保っていたのは、祖父母のあまりにも古臭い性質のためだった。祖父母は、かねてより父さんと母さんの関係――結婚せず、実の子も持たないカップル――を良く思っていなかった。子どもをつくる能力のない母さんを忌み嫌い、数々の嫌がらせの末ついには追い出してしまった。私を育てるためには祖父母の支援が不可欠だった父さんと母さんは、泣く泣く別れることになった。
そのころ私はごく幼かったから、私は母さんに関する記憶がひとつもない。
父さんはショックのあまりアルコールに逃避した。残された私を育てる気力もなく、形式的には親子関係でも、私は祖父母に育てられることになった。最初のうちは母さんと時々会う機会を持っていたというが、酒の量が増えるごとにその回数は減っていき、やがて会わなくなった。父さんは心労と深酒が祟って、私が十歳のころに肝臓を患って死んだ。
そのころには私も、両親に何が起こったのかを理解できるようになっていた。大半は、酔った父さんが私に絡んできたときに知った。酔っ払いだったけれど、彼の話は信じている。ただひとりの父さんだから。
誰のせいで母さんが去り、父さんが死んでしまったのか、私にとっては明白だった。でも、祖父母は私と異なる見解を持っていた。私の前では隠していたつもりなのだろうけれど、ふたりきりのときには、母さんを追い出して良かったとか、酒に溺れた父さんも自業自得だとか話していたのを知っている。
祖父母は私を不憫な娘と思って猫可愛がりするようになった。鬱陶しいほどにお節介をかけるようになった。かなり甘やかされた。私はとても恵まれていたのかもしれないけれど、嫌なものは嫌だった。部屋に引きこもるか、出かけるかして一日を過ごすようになった。何度も食べたものを吐き出した。何度か家出もしてみた。
だから私はさっさと働けるようになって、ひとりで暮らしていくことを決めた。嫌いな人間に愛されるくらいなら、一度人間関係をリセットしたほうがすっきりする。逃げ出して賢明だったことは間違いない。
しかし、祖父母のような人間がどこにでもいて、私の前に現れる可能性もあることを、家を出た当時の私は想定していなかった。
もちろん、祖父母に比べればあのクソおやじのほうがずっとマシなのは確かだ。それなのに、その最低限の信用は、ただひとことで崩れていった。
はあ、とチーフの嘆息が聞こえて、顔を上げた。
「また替わってほしい?」
「意味ないよ」
「だろうね」
おどけて肩を竦める。
「じゃあ、あんたが割り切って相手するしかないじゃない」
「…………」
正論を言われて逆上するほど、私も子どもではない。
「でもあんた、この前言っていたじゃない」チーフは再び着替えを始めていた。私の相手をしてくれる時間も終わりらしい。「おっさんは勘違いストーカー野郎なんかじゃなくて、ただ本気でクソ真面目なんだって。そこは信用していたんでしょう?」
私が返事をできないでいると、花柄のワンピースに袖を通したチーフは、さっと踵を返して私の脇を通り過ぎる。
「勘違い野郎に気を遣われたら、あたしだって鳥肌立っちゃう」ドアノブに手をかけたところで振り返り、白い歯を見せながら冗談めかしたように言う。「露骨な奴は確かにキモいけど、あのクソ真面目ってそんなだったっけ?」