1/4
近頃、毎日のように店に来る客がいる。
「会計を頼む」
老け顔なので年頃はよくわからないが、見た目より少し若いとすれば、引退までまだ十年はありそう。毎度しっかり高そうなスーツを着こなして、それなりの地位にあるのだろう。そういう身分だからなのか、ランチタイムはゆったりと長ったらしい。
彼は連日店を訪れる常連客ではあるが、店の料理やサービスはさほど気に入っていないらしい。いつもむっつりとしていて、眉根を寄せている。時々、きょろきょろと周囲を見回して、落ち着かない様子を見せることもある。気になる人がいるのか、親しい人の来店を期待しているのか、それとも追手でもいるのか。いずれにせよ、食事を楽しんでいるようにはとても見えない。
そのような客がいるとき、店員が抱く感情は二通りに分かれる。一方は、つまらなそうにされると、彼を楽しませたい店の人間として気分が落ち込むというもの。他方は、カネがナイフとフォークを持って座っていると思えば、どんなふうにされていたって構わないというもの。
彼の接客をしているときの私の心情は、ふたつのパターンのうちどちらにも当てはまらない。不機嫌そうな彼に私まで気を悪くするようなこともなければ、かといって彼をカネの生る木と割り切ることもできない。
その理由は、彼が店を去るときの態度にある。
「お釣りです」
会計を済ませると彼は決まって、釣銭をしっかりと握りしめてから、こう言う。
「ありがとう。きょうも美味かった」
と。
そして、そのまますたすたと店を歩いて出て行ってしまうのだ。その素っ気ない態度に、私はショックを受けるというより苛立ちを覚える。その苛立ちも、彼が気前のいい人間だったらどうとも思わなかっただろう。ところが、彼は決して、カネの生る木ではない。だって、彼は何度も来店しているにもかかわらず、一度たりともチップを置いて帰ったことがないのだ。
きょうも私は、彼の背中に礼を言う。口先だけの、心の籠らない礼。「ありがとうございました」とは、「また店にお金を落としてくださいね」という意味である。私の場合、そこにもうひとつ意味が加わる――「次は私にもお金をくださいね」
なにも、チップが欲しくてたまらないわけではない。
困窮知らずの楽な生活をしているといえば嘘になる。さすがに、客ひとりからチップがもらえないくらいで生活が傾いてしまうほどではない。お金が欲しいのではなくて、ちょっとやりがいがほしいのだ。お給金は別にして、意欲を持って仕事に取り組めるような動機が。チップはそういう意味で、とてもわかりやすい具体例だ。
彼は料理については褒めるような言葉を毎回残している。何度も来店しているのも、料理を気に入っているからだろう。しかしその評価を行動で示さないということは、店員の接客によほどの不満があるということだ。
さて、その店員とは誰か? 彼は店に通ううちに店員のシフトを記憶したのか、私が担当するテーブルにだけ座る。だから私は、ほぼ毎日偏屈おやじと顔を合わせている。彼の立場でいえば、私以外から接客を受けたことはほとんどない。
……私のモチベーションは、推して知るべし。
「きょうもいたね」
シフトを終えて裏に戻ると、着替え中のチーフに声をかけられた。彼女と私はシフトの終わりの時間が同じなので、帰り際に顔を合わせればいくつか言葉を交わすことが習慣になっている。年頃が近いので、ロッカールームでは敬語も気づかいも要らない、ただの友達だ。
「きっと、あしたもあさっても顔を合わせることになる」
私の嘆息に、チーフは声を低くする。
「ストーカーってことはないの?」
私は笑い飛ばした。
「そうだったらむしろ楽。御用にしてやればいいんだから。この前話したでしょ、あのおやじ『チップは差別的だ』って」
「ああ、そんな話もあったね」
偏屈おやじの接客をするようになって、三回目くらいのときだった。
そのころはまだはっきりとは顔を憶えていなかったので、チップをくれない客だと忘れ、会計のあと一銭も手渡してこない彼を前に一瞬、ぼうっと立って金銭を待ってしまった。そこに彼は、こう言った。
「私はチップを渡さないようにしているんだ。知っているか? チップの金額は、男女や肌の色で違いがある。私にそんな意識はないが、無意識というものもある。差別に加担しないためにも、誰にも渡さないことに決めている」
ご立派なことを考えなさる。
彼の中では、ケチな人間と気前のいい人間も平等ということだ。
差別反対。人類みな平等。博愛主義万歳。
「その発言が嘘でないなら、まあ、ストーカーをする人ではないね」
少なくともセクハラはありえないだろう。ただし別のハラスメントをしている。
いや、見方によっては、私はすでに彼からセクハラを受けていると考えられなくもないか。「お前は女という被差別的地位にある」と、遠回しに言われているのだから。
「本気だと思う、たぶん」
「からかっているのでもなく?」
「うん、たぶん本気」
私もそれなりにこの仕事で経験を積んでいるつもりだ。からかっているだけの客がどういう振る舞いをするかは充分わかっている。視線の動きや笑い方、手先の些細な動きなどに、いやらしさが表れる。あの頑固おやじには……そういうところが見えないのだ。
ただし、ふざけているのでもないのに差別がどうのと言っているなら、そのほうがよっぽど面倒かもしれない。エロおやじと違って、無視すればいいというものではないから。
「ああ、聞いているだけで面倒臭い」チーフもそれをわかっていて、顔を歪める。「クソ真面目ってやつね。どうせ、細かくてどうしようもないようなことばっかり気にするみみっちい奴だよ。東の人なんじゃない?」
「やめてよ、私はそんなんじゃないもん」引き笑いが堪えられない。話を逸らして、チーフにお願いをする。「ねえ、あしたからテーブルこっそり替わってくれない? 借りは何かしらで返すから」
私の頼みに、天を仰いで思案する。
「そうねぇ、面倒くさそうだけれど、まあ、私はいいよ」
「やった、助かる。ありがと」
バレないように上手くやらないとねぇ、とチーフは呆れながら微笑んだ。
クソおやじはその日もやってきた。
うちはさほど高いクラスの店でもないので、座席への案内は「お好きなところへどうぞ」というくらいだ。そのためクソおやじは、店の入り口をくぐってから着席するまで、ものの数秒である。ほとんどルーティンになっているらしい。自らの指定席にほかの客が座っていないことを確信して来店するのだ。混雑しているときは、相席をして座るか、私が担当する別のテーブルを選ぶ。
一部の常連客など、胡麻塩頭の中年男が私目当てにやってくることをなんとなくわかっていて、半ばわざと彼の席を空けておく。余計なお世話だ。彼がチップをケチっていることは知らないのだろう。
でも、きょうは違う。座ってしばらく周囲を伺いながらそわそわと私を待っていたところ、チーフに迎えられた彼は、ハトが豆鉄砲を食ったような顔を浮かべる。その様子を視界に収めることができた私の爽快感ときたら、店内のそこら中から聞こえる食器が擦れぶつかるリズムに乗せて、ステップを踏みたくなるほどだ。
チーフに料理を注文するときの細かな仕草が面白い。
炭酸水を舐めるように口にしながら目を躍らせるのが面白い。
私の姿を視界の端に認めて、苦々しく何かを得心した顔をするのが面白い。
少し距離を置けたことで、いつもだったら見えなかったものがよく見えているようだ。あの人は前にも見たことがある人かもしれない、とか、店の観葉植物の元気がないから閉店したら水をやらなければいけない、とか。
偏屈おやじにも、いままで気がつかなかった特徴があったことに気がつく。白髪はこめかみ付近に多い。つむじは頭のてっぺんよりやや後ろに左回り。いやらしい口髭を生やしているが、手入れは几帳面そのもの。その髭はひょっとすると、口周りにある髭剃りの傷跡を隠そうとしているのかもしれない。だとすれば、若いころはいまほど几帳面ではなかったということになる。きょう着ているグレーの背広はよほどのお気に入りなのか、修繕したと思しき箇所がいくつかあり、クリーニングをしても繕えない傷みも散見される。指を組んで人差し指を擦り合わせる癖があるようだ。
久々にとても良い気分で働くことができ、上機嫌で裏に戻ったときだった。
「勝手なことをしてくれたな?」
店長が仁王立ちをしていた。




