テスト前日
良く澄み渡る空には、橙と明るい浅緑色が映えていた。
昇ったばかりの陽光はやわらかに地上を温め、しかし冷たい北風が木々や建物の間をひゅるひゅるとすり抜けていく。まだ外へ出るのには何枚か上から羽織るものがいるだろう。
工場の中には数十台もの車両が止められていた。普通に止めてあるだけでなく、大きなリフトに持ち上げられ、タイヤが外されてているものや、発動機が取り外されクレーン車につるされている、整備途中のものまであった。
壁や床は真っ黒に汚れ、換気をよくしているにも関わらずオイルの油ぎった臭いが充満している。
工場に入ると、まず床に広げられた何かの残骸に目が行くだろう。
空を飛ぶ翼付き動力機。生徒たちからダイダロスと呼ばれている発研部の有人実験機である。
窓から入る軟らかい陽光が、細かくきらめくホコリと共にその様相を照らしだし、今や無残な姿をさらしていた。
翼に張られていた布の膜は破れ、片翼の木組みの骨格はばらばらに砕け散り、胴体表面にも引きずられた跡が生々しく残っている。
このダイダロスの隣には今、一人の少年がいた。
ぼさぼさの黒髪に精悍な金色の瞳を持った少年。ジャンノットは、翼の残骸の中から何かを手に持ちそれを熱心に見つめていた。
設計・製造に大きく携わった彼には、それが翼の取り付け部分の重要な部分のものであることが分かっている。
ジャンノットはそれ様々な角度から見ながら、地面に広げていた部品設計書の同じ物と見比べ、と困ったように唸っていた。
ジャンノットは未だになぜこれが落ちたのか分からなかった。
別に盲信していたわけではない。彼には飛ばせる自信に見合うだけの根拠があった。
問題点のあぶり出しとその予防法を様々な角度から見て、部員たちと議論し合い徹底的に突き詰めた。また、計算上でも、製作した縮小模型の実験でもなかなかいい結果を出すことができていた。
だが、結果は結果として、過程に関係なくこうして目の前に残骸を残して地に横たわっている。
ショックがないと言えば嘘になる。今までずっとこの計画を実現する為に、多くの試行錯誤と苦労を重ねてきたことを思い出すとやりきれない気持ちになった。
それだけ、彼にはこのダイダロスに思い入れはあったのだ。
だが、いつまでも沈んだ気持ちでいる訳にはいかない。
ダイダロスは十分に働き、自分の役目を果たしてくれた。
ダイダロスが空を飛ぶことはもう無いだろうが、そのことを嘆くよりも、そこからどう次の芽を吹かそうかを考える方が、ダイダロスに対する一番の敬意だと、ジャンノットは思っていた。
ショックは大きかったが、ジャンノットは今ではすっかり気持ちを切り替え、墜落した原因についての考察をしつつ、次回につなげるための改善策を頭を絞ってひねりだしていた。
いつも朝早く、一番に工場に来ているのはジャンノットだ。
そのあと数十分後くらいに、他の部員たちがぞろぞろやってくるのだが、今日は彼らより先に珍しい生徒がやってきた。
「なにしてるの?」
ジャンノットはしばらく、喋りかけられていることに気付かず、少しの間無言の時間が流れた。入口の方からすうっと影が差しこんでいることに気付き、ようやくそこにいる生徒の姿を発見する。
「んー? 珍しいなリベカ。なんでこんなところにいるんだ?」
「なんでって、・・・あなたがいつまで経っても教室に来ないからこっちから来たのよ」
リベカは胸の前で腕を組み、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
ジャンノットは誤魔化すようによごれたグローブで頭をかく。
「ハハハ、悪い悪い! そういや約束してたな。あ―――まあ、座れよ。ここまで遠かったろ? そこのお茶勝手に飲んでいいからさ」
ジャンノットが指差した先には、写真や資料の束と共にお茶の入ったポッドが机の上に置かれていた。リベカはそれを一瞥することもなく腰に手を当ててため息を吐く。
「あのねぇ、あなた本当に大丈夫なの? テストは明日よ。部活ばっか行って、勉強全然やってないでしょ?」
「大丈夫さ。この後ちゃんとやるよ」
「はぁ、・・・言っておきますけど、今更来ても私は教えませんから。それは分かってるわよね?」
「それは勘弁してくれよ〜。リベカがいないと、どうも勉強が全然はかどらなくてさ」
明日に控えるテストの勉強を、ジャンノットは未だに全く手を付けていなかった。テストで赤点を取ると、補修を受けなければならない。
なので、勉強嫌いの彼としても、一応勉強はしっかりやらなければいけないと危機感は持っているのだが、どうも最近は忙しく勉強に全く時間が割けていないのが現状であった
まあ、それは彼の言い分であり、実際のところは単に勉強がしたくないという理由に違いない、とリベカは今までの経験と彼の性分からそう思った。
リベカが何度ジャンノットの勉強を手伝ってきたことか。テスト前になる度に、彼女は勉強嫌いの彼に手を焼かされているのである。
ジャンノットは人差し指と親指で「あと少しだけ!」というと、リベカは呆れた顔をして「何があと少しよ」と小さく毒づいた。
「まったく・・・」
そもそも、一体これの何がそんなに面白いのだろうかと、リベカは床に広げられた残骸を見ながら思った。
腹に響く轟音を響かせ、排気菅からは黒い煙と火を吐き散らしながら少年を乗せて飛び立とうとした木組みの機械。
ダイダロスと名付けられたそれは、今やずいぶんと変わり果てた姿をしていた。
あちこちに擦り傷、ひび割れが見え、片翼を失った機体。窓から入る日差しに照らされているせいか、傷の影がより一層濃く刻まれているように見える。
発動機という心臓を抜かれ、まるで干からびた骨格の死体みたいになり、今ではかつて暴力的なまでの爆発性を持った活力は微塵にも感じられない。
リベカは今でも、数日前のあのときのことを許していなかった。
「空を飛びたいって、ジャンは昔から言ってたけど、方法は本当にこれで合ってると思う?」
何気なく言おうと努めた意志に反し、リベカの声音は自然と低くなる。
だが、ジャンノットはそれにたいしていつも通りの陽気な声で答えた。
「合ってるも何も、それを今から確かめようとしてるのさ」
そう言って立ち上がると、ダイダロスの胴体部分を触りながらぐるりと移動していく。
リベカも床に並べられた翼の破片を飛び越えてついて行く。
「翼の形状を少しだけいじればいいのか。それとも全体の形状から見直さなけりゃいけない状況なのかも分からない。でも、今度は絶対に飛ばしてやる。方法はまだ模索中さ」
ジャンノットはそう言いながらノートに何かを書き込んでいく。
彼の取っているノートにはたくさん数式が書かれている。
それが何を示しているのかはリベカには分からない。だが、彼らがまた同じことを繰り返そうとしているのは明白である。
「私が言いたかったのはね、ジャン。周りの人たちがどういう目であなたを見てるってことよ、飛ぶかどうかなんてことじゃなくて」
「? 何言ってるんだ。飛ばすのが目的なんだから、そこが一番重要だろ? 周りで見てるやつらも飛ぶのを見たいはずだし」
「そういう事じゃなくて! 〜〜〜〜ッ!」
リベカは頭をクシャクシャにかきむしりたい衝動に襲われる。
「あんな危険なことはもうしないで。怖いのよ、ジャンが―――今回は運よくなんともなかったけど、次はもしかしたら大けがするかもしれない。もしかしたら、死ぬことだってあるかもしれない。だから―――」
「ハハハ! 大丈夫さ、次は失敗しなけりゃいい。その為に頑張らなきゃなあ」
ジャンノットは笑いながらダイダロスにかけられた梯子を上っていく。操縦席に登って上半身を突っ込んで何やら作業を始めた。
「人がこんなに心配してるのに、どうしてそれが分からないの?!」
リベカは制服の裾をぐっと強くつかんだ。
―――いつもそうだ
リベカは思った。
どれだけ訴えても、ジャンノットはそれをまともに聞こうとせず、誤魔化すように笑ってばかりで、それがリベカにはどうしても許せなかった。
もう少し自分の話を聞いてほしいという思いは、結局いつも空回りしてしまう。しかしリベカはそれが空回りしていることを、この時は自覚していない―――もしくは忘れていた。
それは一方的で、まるで子供が腕を回して殴りかかるような幼稚な意思表示。
リベカの口からは思ってもいないような、しかしずっと心の奥にため込んでいたような醜い言葉が、すらすらと零れ落ちて来た。
「ジャンは自分だってできると思ってるのよ。あなたの祖父みたいに、偉大に空を飛べるって・・・でもあなたは違う、あなたには無理なのよ!」
ジャンノットの顔が、ぽかんとした。理解が追い付いていないようだ。
リベカははっとした。自分は今、とんでもないことを口にしたのではないかと。
だが、この時彼女は、自分が言ってしまったことの後悔と、しかしそれを認めたくない自尊心とが混ざり合って訳が分からなくなってしまった。
何だかとてもいたたまれなくなり、次第にリベカの表情が赤面していく。
「――――も〜いいっ! 勝手にすればいい!」
「リベカ? ちょっと待って―――うわッ!」
ジャンノットは手を伸ばす。しかし、彼がいた場所は梯子の上で、バランスを崩しそのまま梯子と共に倒れ込んだ。
ガシャン!という音と、「いててて・・・!」というマヌケな声が後ろから聞こえてくる。しかし、今のリベカにとってはそれはイライラの原因にしかならない。
リベカは振り返ることなく奥歯を噛みしめながら工場の外へと走って行く。
走りながら、リベカはふと昔のことを思い出していた。
それは、ジャンノットが初めて空を飛んだ時の記憶。
身一つでリュウにしがみつき、途中で降り落とされ大怪我を負った時の、リベカの最も思い出したくない記憶である。
(きっとあの時、呪われたんだ。リュウに空に心を持っていかれたんだ)
彼はあまりにも空を飛ぶことに執着しすぎている。
きっとそれはリュウの仕業なのだ。リベカがリュウを苦手なのも、あの時の記憶が一番の原因だった。
「何で私、あんな・・・っ!」
リベカは目に浮かぶ涙をごまかすように、地面の小石を強く蹴った。
ふと、リベカは足を止め、一度だけ背後を振り返った。
枯れた木の葉が地面の上を転がっていくだけで、他に動くものは何もない。
リベカは前に向き直ると、再び道なりに走り始めた。
・・・・・・・・・・・・
「―――だから、ネズミから尾を切り取る実験を20世代にわたって繰り返したとしても、その仔は尾を失くす兆候は見せなかった。このことから、生物の形質はそのまま親から受け継ぐとは必ずしも言えないことが分かる。だが、これはあくまで“尾を切られたネズミ”を外的要因で作りだした実験に過ぎない。仮にネズミにとって尾は必要ないものであるなら、尾の無いもしくは尾の短い仔の兆候を見せるかもしれない。
要するに、用・不用説においては、生物に自主性―――つまり意志を持った者としての振る舞いを仮定し、そこから個を取り巻く環境に対して形質を能動的に変化させることで、現在自然界でみられる生物の形になっていくことを論じた進化論のことを言っているんだ」
こっくりこっくりと、ジャンノットは眠気で舟をこいでいた。
視線を前に戻すと、丸テーブルの反対側では生徒が何十名かが集まって何やら話し合っている。
生物学の進化論だ。明日のテスト科目がそれなのである。
ジャンノットは目の前の机の上に目をやると、そこにはほとんど白紙のノートが拡げられていた。ついでに言うと教科書も開いていたが、逆に言えばそれだけで決して勉強している訳ではないのは、その姿勢と頬づえが物語っていた。
勉強会に参加したはいいものの、内容に全くついて行けない。
今までまともに授業を受けてこなかったツケである。
さっきから寝ないよう必死に努めているつもりだったが、やはりつまらないものはつまらない。つまらないものは眠いのだ。
―――今頃みんな、部活行ってるんだろうなあ・・・いいなあ
さっきらか彼の脳裏にあるのは、そんな邪念ばかりである。
いつもなら、ジャンノットはテスト前になるとリベカに勉強を教わりに行っていた。
幼馴染という縁で、リベカはジャンノットになにかと世話を焼きたがり、当然のようにジャンノットはそれに甘えていたのだ。
今回も同じように勉強を教えてくれとリベカの元を訪ねたわけだが、行っても不在だったり、誰かに勉強を教えている途中だったりして中々都合が合わなかった。
それは何ら珍しいことではない。リベカは性格はきついが、周りから信頼されたり好かれやすいからだ。
問題はジャンノットがもう一度訪ねに行ったときのことである。
向かっている途中、リベカとちょうど廊下ですれ違い、ジャンノットはいつもの調子で話しかけた。
しかし、リベカは返事を返すどころか全く見向きもしなかった。
ジャンノットがその後しつこく話しかけなかったのは、リベカの表情が明らかに怒っていた時の物だったからだ。
リベカは怒ると、眉間にしわを寄せ、人と絶対目を合わせないのだ。
まだ今朝のことで怒っているのだろうか、とジャンノットは考える。
ジャンノットはその時作業中だったこともあり、何を話したかあまり覚えてはいない。一つ確かなことは、会話の中で大きな地雷を踏んでしまったということである。
ふいにググゥ・・・と言う変な音が耳に入ってきたので視線を横にやると、アサノシカ=ユウキが腕を組んでいびきをかきはじめていた。
運動部、競球部の部長である彼も、成績が危ないという事で半ば無理やり勉強会に参加させられているのである。
テーブルの反対側で何人かの生徒が不快そうな目でアサノシカを見る。だが誰も声をかけようとはしない。アサノシカは見た目が怖いのだ。
思い返してみれば、リベカは例の事件の日以降、妙に機嫌が悪かった。
例の事件というと、この前の発研部の飛行型動力機飛行実験のことである。
当の被害者である運動部部長のアサノシカは、今ではもう昔のことだと笑っているのに、部外者であるリベカが未だにそのことを引きづっているというのはおかしい。
「う〜ん・・・」
ジャンノットはそのことに関して思考を巡らせてみるが、すぐに面倒くさくなってやめた。この学校では、口語による意思疎通に最も重きを置いている。そのことは、討論が活発な背景からもうかがえる。
会話を交わした方が絶対に早く確実で、何より認識の相違が少ない。
認識の相違―――これは、会話をする上でも重要なことである。学生たちが議論する上でも重要なファクターとしてなくすことは無理でも、限りなく小さくするような取り組みがなされている。
人の生を川の流れに例えた者がいる。
生活するうえで、勉強するうえで、遊ぶうえで、会話するうえで。起点から始まる流れを辿りながら、人は最後に帰着点である海に向かっていく。
川の景色は人によってさまざまだ。景色とはつまり文化のことを表している。文化が同じであれば、つまりはそこに棲むグループ間で川の景色は似通ってくる。似たような考え方を共有するようになるのだ。
そのときは会話するうえでの隔たりは少なく、流れに沿った障害の少ない、相違があればその違いにすぐに気が付き、必要であれば互いで行先を微調整しながら議論をより澄み渡らせることができる。
だが、おたがいに見る川の景色ががらりと変わってしまえば問題だ。自分の見る景色をいちいち相手に説明する手間が必要になってくる。
これがとても難しく、おそろしく膨大な情報量になってしまう。
だが、この工程で躓いてしまうと、議論は泥沼化の一途を辿る。流れは鈍く、行く先の見えにくい、ただひたすら億劫な話し合いは、いくら時間をかけても有用なものを得ることは難しいだろう。
議論の真髄は意見を昇華させていくことにある。
意見の昇華に必要なのは、視野・視座の拡大。自分の視界を広げていくには、他のグループとの会話が一番手っ取り早く、最も効果的なのだからまた厄介だ。
要は何が言いたいのかというと、コミュニケーションは難しいという事だ。ついでに言うと、ジャンノットにはリベカの考えていることが分からない、という事である。
「相手の心が読めるように進化したら、全部解決しそうなもんだが」
そのもろもろの背景を知ってか知らずとしてか。おそらく後者であるが、ジャンノットの口から予期せず言葉がポツリと飛び出してきた。
テーブルの反対側では、進化論の概要を空で言えるよう何やら復唱を始めていた。
ジャンノットは急いで教科書を持ったが、それがどこに載っていたのか分かずまたすぐに教科書を投げ出す。
とりあえず、なにかしらの行動を起こさなければ明日のテストを乗り切ることは無理だろう。
ここにいても埒が明かない。そうと決まれば、やることは絞られてくる。
「よーし!」
こうなったら仕方ないと、ジャンノットは自分に活を入れるように肩に力を入れた。
それから席を立ち、教室を出るとある場所へと向かっていった。