招かれざる客~踊り子 アリシア・モーグ~
ルーデル共和国とルニ民主主義国との国境にある小さな湖の湖畔にその店はあった。
ルニの首都からは車で2時間。観光ガイドにも1行載れば良いほどの溜池のような静かな湖である。
小さな古いログハウス風の建物に『ジョージの土産物店』とようやく読める程、掠れた文字の看板が乗っている。趣があるという感じはとうに越し、少し入りづらい雰囲気も醸し出していた。
しかし、四十後半ですでに真っ白な髪と口髭がトレードマークの店主のジョージは一向に直す気はない。
今日もいつもの定位置、カウンターのこれまた年季のある錆の浮いたレジスターの横の椅子に座り、帽子を目隠しにのんびりと船をこいでいた。
それでも店の中に目を転じれば、驚くほど綺麗で壁も床も艶が出るまで磨かれており、いつからあるのかわからない商品もチリ一つかぶらず整然と並んでいた。
もっとも、これはジョージのせいではなく店員のウォルトの手慰みだった。ウォルトはルニ育ちの優しい黒人の青年で店が出来た時から働いているジョージの片腕である。
身長180センチを超える大柄でガタイの良いウォルトはジョージに見た目には似合わないなと笑われながらも、いつも掃除をしていた。
小さな湖にポツンとある土産物屋は客もいなければ、することもなく土産物店としては店員はジョージだけで十分で、基本的に暇なのである。掃除でもするしかなかった。
今日は珍しく店の前に車が滑り込むように止まった。
ジョージは、その音にあまり慣れてないなと思いながら、誰に言うでもない気のない声でお客さんだぞと呟いた。 少し早足で、赤いコートの女が店に入ってきた。
ジョージは女をじろりと見た。
肩までのウエーブのかかったブロンド、青い目、右の頬にホクロが一つ。中肉中背だが、スカートからのぞく足はすこし筋肉質でスラリと伸びていた。
初めて来る客だがジョージは女の名前を知っていた。
アリシア・モーグ
ルニ民主主義国軍御用達のサロンの踊り子の1人でルニ人民軍情報総局大佐の愛人。
女は早足で店の中を見て回ると、Xのキーホルダーを2つにピンクのパスポートケースを1つを手にレジにやってきた。ジョージは決められた言葉を口にする。
「いらっしゃい。キーホルダーは間違ってないかい?」
女は緊張した面持ちで軽く頷いた。もっとも、ここにこれを買いに来る客で緊張しない者はいないからジョージも気にすることなく、アリシアが次に言うであろう言葉を待った。
「いい湖ね。」
しばらく間があって女がそう言った。
「ああ。湖は何でも癒してくれる。傷心旅行かい?」
「ええ。まぁ、そんなところ。簡単でいいから、ラッピングをお願い。」
「あいよ。」
ジョージはカウンターの下の机で手早くパスポートケースに中身を入れてリボンをかけた。この瞬間、アリシア・モーグという存在は消えた。もっともジョージにとっては慣れた作業であったし、アリシアという名前もまた目の前の女の本当の名前ではないだろう。
「お待たせ。ジョーンズさん。」
「ありがとう。いい店で助かったわ。」
アリシアからジョーンズに変わったその顔がようやくほころんだ。
「国境まで、ここから10分もあればつくだろう。気をつけて。」
「ええ。ありがとう。あと少しだけど、気をつけていくわ。」
女は艶やかな笑みを浮かべて去っていた。
「あの人が無事に国境を越えられるといいですね。店長。」
入れ替わりに店に戻ったウォルトが心配そうに女の背中を見ながら言った。
「やはり、客は他にいたのか?」
「ええ。コーヒーをお出しして後はボート屋さんにお任せしました。」
「なら、大丈夫だろう。」
ジョージはタバコに火をつけ、帽子を目線まで落として、ゆらゆらと揺れ始めた。
ウォルトは、そんなジョージを見て微笑みながら、また店の掃除を始めた。
その日、人民軍の大佐が1人自殺し、ルニを旅行中だったジョーンズという一般女性が出国し、首都の近くで車が1台が交通事故を起こして男が2人死んだ。
むろん、辺境の土産物屋がこの件について何も知るはずはない。