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                       麗子の結婚

作者: 堀本廣

 階堂修二は旭川の高校三年の時、親友の紹介で三名のペンフレンドを持った。その中にA県T市の宮下麗子がいた。彼女は階堂よりも一つ歳下である。

 階堂は三人と文通を続ける内に、文章と言い、文体と言い、宮下麗子が他の二名よりも優れていると感じた。感性や知性も抜きん出ている事が、麗子に好感を抱く原因となる。文通は半年以上続き、やがてお互いが写真を交換する事になった。

 階堂は胸をときめかせて、麗子の写真が来るのを待った。

 階堂はラグビーの選手で、北海道内での選手権大会で優勝候補チームに所属し、高校三年の秋の大会に優勝している。その時の記念写真と、自宅でくつろぐ写真を三人に送っている。階堂は日焼けした逞しい体に、彫りの深い顔をしている。性格は柔和で、学校の成績も上クラスであった。

 日ならずして、三人のペンフレンドから写真が送られてきた。階堂のお目当ては宮下麗子。自宅で撮ったらしいセーラー服の写真を見た時、階堂は自分の目論見が正しかった事に満足した。

 大きな眼に聡明な光が宿っている。筋の通った鼻に形の良い唇が色白の肌にマッチしている。一七歳にしては大柄のようだ。スカートから伸びた脚がスラリとしている。遠くを眺めるような眼差しが、階堂の心に灯火をつける。・・・会いたい・・・とは思うものの、A県は北海道からはたやすく行ける距離ではない。


 階堂の家は旭川では、比較的大きな工務店である。父が一代で築き上げて、今は父と共に、六つ年上の兄が会社を切り盛りしている。

 次男の修二は札幌の国立大学に入った。父は入学に際して一つの条件をつけた。授業料は払ってやるが、小遣いは自分で稼げという。

 辛苦をなめて今日を築き上げて来た父は、息子たちにもそれ相応の苦労をさせようという腹づもりなのだ。

 一代で財を成した者は、跡継ぎに自分の苦労をさせたくないと、甘やかせて育てる傾向がある。その結果、一代目が亡くなり、世の中が厳しくなると、その後継者は耐えぬくという免疫性がないので、たちまち財を食いつぶす。

 階堂の父はその事をよく知っているので、長男は高校卒業後、三年ばかり同業者の所で働かせた。その後自分の跡継ぎとして、主に現場まわりをさせている。

 階堂修二は大学に入ってもラグビーを続けるが、暇な時は、自分の家の工務店でアルバイトをした。将来兄の右腕にするという、父の希望があったからだ。

大学に入ると共に、宮下麗子以外のペンフレンドとは疎遠になる。二週間に一度出していた手紙も一ヶ月に一回、二ヶ月に一回となり、やがて、手紙が来ても返事を出さなくなった。彼の胸の内は麗子だけが息づいていた。

 彼女もまたA県N市の大学に通っていると手紙で知らせてきた。彼女の家は贈答品を販売している。昔は窯屋だったが、焼物の不振で、十年前、跡地にアパートを建てた。その一角で、お盆や暮れの贈り物や、会社等が得意先に贈るもの等を揃えている。T市では数少ない店なので、結構流行っているという。

 麗子の手紙には家の仕事や、大学のこと等、人生上の問題が詳細に書かれているが、家庭内の事には余り触れていない。興味がないのか、あるいは触れたくない何かがあるのか、階堂は詮索したい衝動に駆られるが、強いて突っ込もうとはしなかった。藪から蛇を突いて、彼女との文通が途絶えることを恐れた。

 麗子との文通は階堂が大学を卒業しても続けられる。

 大学卒業後、彼は父の要請で、大手ゼネコンの大西洋建設に入社した。ここ数年、階堂工務店は大西洋建設が発注するビル工事や道路工事を請け負う機会が多くなっている。

大手ゼネコンは自社で人夫や動力機を賄うことはまずない。役所関係や大手企業から仕事を請け負うと、ほとんど下請けの工務店に卸す。下請けは孫請けにと仕事を発注していく。

 数年前、大西洋建設が発注していた下請けの工務店は社長の急死で、廃業のやむなきに至っている。その後釜が階堂工務店に回ってきたという次第だ。

 下請けの仕事は、利幅が少ないが、安定的に仕事を回してくれる。仕事が切れた時に、人夫や重機を遊ばせる事もない。それに大手ゼネコンの仕事をやっていると言う事で、世間の信用度も違う。裸一貫から今日を築いた階堂の父は、大手ゼネコンと結びつく事が、いかに有利かを知っていた。抜け目なく次男を大西洋建設に入社させたのだ。

 修二は頭もよく人に好かれる青年だ。将来兄の右腕になるとしても、大西洋建設で相当の地位を気付くようになれば、階堂工務店にとって、そのメリットは大きい。


 階堂は、平成八年四月一日をもって、東京本社での研修を命ぜられた。新入社員は一度東京本社に集められる。富士五湖近くの研修センターで三ヶ月教育を受ける。その間に本人の適性や能力等がチェックされて、全国の各支社に配属される。約十年間間、全国の支社を転々とする。本人が希望するなら、北海道への転属を許される。

 階堂が麗子との運命的な赤い糸を感じたのは、研修後の七月にN支社に配属されることが決まった時である。N支社は駅前の二〇階建てのビルの中にある。彼は販売促進課に配属された。着任早々、課長より、T市出張所への出向を命ぜられた。

 課長は金縁眼鏡の細い眼で、慈しむように言う。

 A県は二〇〇五年に国際見本市が開催される。それと前後してT市に飛行場建設が予定されている。承知していると思うが、今後公共事業は厳しい状況が予想される。その中にあって国際見本市や飛行場建設は、我が社が生き残りを賭けた大型プロジェクトとなる。今、T市出張所には、二名の社員が駐在しているのみ。ここ、一、二年の間に、十数名の社員でプロジェクトを組むことになる。

 君は新入社員として優秀な人材であり、君の力量を見込んで、T市出張所に行ってもらうことにした。頑張ってほしい。

 課長の激励の言葉を、階堂は上の空で聞いていた。麗子との赤い糸が、頭の中で目まぐるしく動いていたのだ。

 七月中旬、階堂はT市のアパートに引っ越す。三月まで二名の駐在員はN市支社から出張していた。正式にT市空港として、国の予算がつく平成八年夏、階堂を含めて三名の駐在員を常駐させる。

来年には課長クラスも常駐することになる。

 バブル不況以後の底冷えした景気の中、大手ゼネコン各社は生き残りをかけてT市に押しかけている。平穏な町も水面下では激しく揺れ動いていた。

 階堂がT市に行くことは、麗子には手紙で知らせてある。今年大学三年生の彼女は、夏休みでほぼ毎日自宅にいるという。

 階堂の会社の出張所は、T市役所北にある市民アリーナの南側にある。三階建てのビルの二階の半分を借りている。将来の展望によっては、もっと大きな事務所に移転するかもしれない。不動産屋には市役所近辺で貸土地があればお願いしたいと依頼をでしている。不動産屋の話では、数社から依頼されているという。T市内に事務所を構えているデネコンは三〇数社にのぼる。

 T市に来て数日間、階堂は二人の先輩に連れられて、市役所や市内の不動産屋、土建屋への挨拶回りに忙殺される。宴会にも引っ張り出されて、休む暇もない日が続く。

 七月の下旬、蒸すような熱い日、麗子の家を尋ねる。電話を入れようと思ったが、階堂のアパートから車で五分の距離だ。彼女の家は市役所から南東の方角、旧市街地の大通りにある。

 宮下贈答品店と書いた看板の奥に、二〇坪程のガラス張りの店舗がある。店舗の奥に自宅とアパートが建っている。

 T市内は至る所に窯場の跡がある。土管や瓶などが、無動作に放置してある。現在、焼物は中国産の安い物に押されて、不振が続いているという。T市に来て、階堂は色々な情報を耳にしている。

 店の前の駐車場に車を置く。朝十時。店のドアを開ける。

「ごめんください」声をかける。

「はーい」奥で声がする。店と自宅がつながっているようだ。店内は、朱泥の急須や花瓶、湯呑茶碗の他、色々な手芸品が並んでいる。小物入れもある。

「いらっしゃいませ」顔を出したのは、高校生の時送ってもらった写真の女だ。

・・・彼女が宮下麗子か・・・初めて本人に会う。階堂の胸がときめく。

「あの、階堂修二ですが、宮下麗子さん?」

「えっ?姉は今留守ですけど」

 驚いたのは階堂である。

「あなたが、北海道の階堂さんね。私、妹の純子です」

 女はペコリと頭を下げる。

 階堂は頭の中が混乱する。女は利発そうな大きな目で階堂を見ている。色白で肩まである髪や、スラリと伸びた大柄な体は写真そのままだ。四年前と変わっていない。紺の事務服に変わっただけだ。

「私の事、知っているんですか」言って気を取り直す。

「だって、姉のペンフレンドなんでしょ。郵便物が来れば、名前や住所ぐらい判るわ」言いながら藤椅子に腰を降ろすよう促す。

 お茶を出しながら「わざわざ、北海道からいらっしゃたんですか」好奇心に満ちた表情だ。

 階堂はT市に来た理由を手短に話す。

「今日、お見えになること、姉は知っているんですか?」

「いえ、手紙で今日までの経過を知らせてあるだけで、突然の訪問ですが・・・」

「電話頂ければよかったのに」

 宮下純子は同情した眼で階堂を見る。朱に染まった唇が緩む。白い歯が除く。男好きのする表情が美しい。

「あの、麗子さんって、どんな方でしょうか」

 階堂の胸の内には、妹がこれほどの美人だ。姉も負けず劣らずの器量よしと見たのだ。

「どうって、言われても」純子は困った顔をする。

 階堂は話題を変える。

「お姉さんは、今日どちらに・・・」

「多分、大学ではないかと思うわ」

「大学?」

「ええ、アルバイトやってるんです。時々」

 彼女のはなしによると、大学は一年から二年、二年から三年に上がる時は無条件でなれる訳ではない。単位不足だと留年のおそれがある。そのような学生を集めて単位習得の勉強会を開く。麗子はその講師役としてアルバイトをしている。それだけ彼女が優秀だという事なのだ。

「夕方八時に帰ってくるから、電話させましよか」

 階堂はこちらから電話をかけるからと、その場を去る。

 階堂の会社のT市出張所は彼を含めて三人。二八歳の大野は隣町から通っている。もう一人の山岡は二五歳。独身で階堂と同居している。来年は階堂専用のアパートをあてがってもらえる。

 宮下麗子から電話をもらうのは結構な事だが、山岡に知られたくない。T市に来て日が浅いのに、もう女を作ったのかと言われたくない。

夜八時半、階堂は宮下贈答品店に電話を入れる。電話口に出たのは純子だ。姉はまだ帰っていないが姉の事で話があるので、会えないかという。

 階堂はT市着任の挨拶回りも済んで、自由時間が取れるようになっている。翌朝、十時にT市役所北側にある喫茶店で落ち会うことにする

 当日、純子は紺の事務服のままで来る。

喫茶店は駐車場も広く、座席数も多い。広々とした店内でゼネコン各社の社員のたまり場となっている。

「よう、純ちゃん、お久しぶり」若いマスターが声をかける。お互い顔見知りのようだ。

「話って何でしょうか」席につくと、コーヒーが運ばれないうちから、階堂が口を切る。

 宮下純子は俯いたまま、お手ふきで手を拭っている。三日月眉の下の瞼がわずかに盛りあっがて、美しい形をしている。固く閉ざした唇がつややかで情感をそそる。豊かな頬が心持ち緊張している。

 コーヒーが運ばれる。佐藤とクリープを入れ、スプーンで渦を巻くようにかき回す。そんな彼女の仕草は、これから言わんとする事にためらいがあるように感じられる。それでも、意を決したように顔を上げる。肩にかかった髪を後ろにさっとなびかせる。

 大きな瞳がキラキラ輝いている。階堂は純子の美しさに圧倒され、彼女を見つめている。

「姉からの伝言をお伝えします」小さいがはっきりとした口調で言う。

 宮下麗子は階堂がT市に来ていることは知っている。いずれ自分に会いに来ることも。もっとも、彼女の胸の内は、階堂がT市に来るとは思いのよらなかった。

 北海道とT市という遠く離れた場所で、文通を続ける事が彼女の楽しみだった。やがてお互いが世帯を持てば文通は自然解消となる。楽しい思い出だけが残る。それが麗子の希望であった。

 問題なのは、高校生のとき、写真を交換したことだった。彼女は思い余って妹の写真を送った。

「姉は、私の写真を送った事を後悔しているんです」

 純子の済んだ眼に翳りが生じる。純子は姉が自分の写真を送ったことを知らない。昨夜、はじめて知らされた。事実を知っても彼女は別に驚きもしない。むしろ姉に同情している。

 階堂との六年間の文通を知らされ、姉のためにひと肌脱ぐ気持ちになっている。

「姉はあなたに会えないと言っています。あなたを騙そうとしたわけではないんですが、結果としてそうなってしまいました」

 純子は言葉を選ぶように話す。

「姉は階堂さんを空いています。それだけに会うことが辛いんです。姉の気持ちを察してやって下さい」

 純子の話を聞いていて、階堂は目の前にいるのが、麗子だという錯覚にとらわれる。六年間、写真の主が彼女と信じてきた。T市に行けと命ぜられた時、運命の絆を感じたほどだ。

 美人で頭もよく、物の考え方もしっかりしている。感性豊かな女性と信じてきた。それが今、音をたてて崩れ去ろうとしている。

「一度麗子さんと合せてくれませんか」強い口調で言う。

 純子は大きな瞳で階堂を見つめる。どうしょうか迷っている。階堂の押し切るような迫力を感じている。

「判りました。姉に話してみます」

・・・おれはこの女が好きなのだ・・・六年間写真の女に惚れてきた。彼女が誰であろうと、要は当の本人が目の前にいる。とりあえず麗子と付き合うことで、彼女との接触を図りたい。

 喫茶店は客の入りが5分位だ。黙々とコーヒーを飲んだりモーニングのパンを食べている。新聞を読んだり、週刊誌に眼を通す客もいる。時々宮下純子の方を見る。

 彼女が返事をした時、1人の男が入ってくる。半袖姿で、汗を拭き拭き、「冷コ、頼むわ。モーニングは要らんでな」大きな声で階堂達の横向いの席にどっかと腰を下ろす。

「おっ!ミスT,頑張ってるかな。麗ちゃん元気?」

 階堂を一瞥して「純ちゃんのこれ?」親指を立てる。

「山本さん、お久しぶり、いつもご贔屓にして頂いて有難うございます」男の親指を軽くあしらう。にこやかに頭を下げる。

 後々聞いたところによると、一年前、純子は焼き物焼き祭りの際の開催されるミスTコンテストに入賞している。ミスTに選ばれたがそれを辞退している。

「あれはねえ、姉が申し込んだの。どうしても出ろって言うから、しぶしぶ出ただけよ」宮下純子は口をとがらして姉を避難している。

 彼女は言う。晴れがましい舞台に立ちたいとは思わない。平凡な人と結婚して、平凡な生活ができればそれでいい。

 階堂は純子ほどの美貌を持ってすればミス日本も夢ではないと見ている。話し方も気さくだ。社交性も富んでいる。男女間の際どい会話も嫌味がなく、さらりとして好感が持てる。

 「丁度、会ったついでだから、急須のセット二〇個頼むわ」

山本と名乗る中年の男は眼を細めて言う。

「有難うございます」純子は深々と頭を下げる。

「麗ちゃんのいつもの色紙、忘れんどいてな」

 純子が頷くと「俺、ちょっと急ぐから」山本は早々に店を出て行く。

「麗子さんの色紙って何ですか」

 階堂は不思議そうに聞く。純子は真顔で答える。姉は書道も良くし、短歌の才能もある。姉の毛筆の色紙はは客に喜ばれる。急須のセットの中に一枚ずつ入れておくのだという。

「姉はね、特別な存在なの」純子は階堂を射るような眼で見る。麗子と会う日を約束して。二人は別れる。

・・・特別な存在・・・階堂は出張所まで行く間、その言葉を反芻する。あの時聞き返そうと思ったが、純子は慌ただしく立ち去るので、聞きそびれている。


 三日後の休日、駅前の大型スーパーの二階の喫茶室で麗子と会う。

朝十時。喫茶室は座席数が五つしかない。階堂は半袖のノーネクタイというラフなスタイル。日に焼けた、彫りの深い顔はガッチリとした体格と合いまって、日本人ばなれした風貌を漂わせている。柔和な表情が人懐こさを感じさせる。

 待つこと十分、「階堂さん?」ジーパン姿の女が現れる。階堂は立ち上がって「どうぞ」宮下麗子に席をすすめる。

「遅くなってすみません」彼女は軽く頭を下げる。コーヒーを注文すると両手を組んだまま俯いてしまう。

 階堂はそんな麗子を見つめる。長い髪を後ろに束ねている。化粧げがない。半袖のカラーのシャツを無動作に着込んでいる。六年間の文通相手と初めて挨拶を交わすにしては芸がなさすぎる。

 容貌は瓜実顔の純子と似てなくもないが、目鼻立ち一つ一つを比較すると、美貌の妹にくらべて、見劣りがする。眉は濃い。眼が細く、鼻梁が低い。唇の結びがゆるく、親しみやすい表情だが、文通で知った知性や感受性の高さが、その表情とうまくむすびつかない。むしろ、純子のほうが、知的で感受性の豊かな表情をしている。

 コーヒーが運ばれてくる。彼女はクリープだけを入れる。

「ごめんなさい。階堂さんには悪いことをしたわ。騙すつもりはなかったけど・・・」 

 階堂から写真を要求された時、随分悩んだ。いくらペンフレンドとは言え、美男子の階堂とブスの自分とは釣り合わない。かと言って、このまま自分の写真を送ると、階堂から手紙が来なくなるかも知れない。思い余って妹の写真を送る。

 文通だから、いずれ終わる時が来る。それまで楽しい思い出を作っておこうと考えた。

「まさか、こんな事になろうとは思わなかったわ」

 宮下麗子は顔を上げる。細い目が階堂を見る。その表情は遠くを見ているようで茫洋としている。

「私に言いたいことがあればお聞きします。無ければ、これで失礼したいんですが・・・」

 階堂は麗子の唇を見ながら、頭もなかでは純子の事を考えている。彼女と付き合ってみたい。その思いが胸の内を駆け巡っている。

「麗子さん、今日会うことをお願いしたのは、あなたと付き合ってみたいからです」

 階堂は言葉を続ける。六年間妹さんを麗子と信じていた。偶然にも、自分はT市に来ることになった。文通相手が別人だと知った時はショックだった。それでも文通で知った宮下麗子の魅力は忘れがたいものだった。付き合ってみたいという気持ちは本心だ。

 麗子は階堂の唇を見つめている。喫茶店の外は雑貨売場と電気器具売場が混然としている。その奥に本屋がある。アベックや子供連れが行き来している。

「今日、付き合ってもらえませんか」階堂は喋り終えると、柔和な表情でデートを申し込む。

 麗子は驚いた顔で眼を大きくする。彼女は六年間階堂を騙していた非礼を詫びて早々に立ち去るつもりで来ている。だから普段着のままでやって来た。

「でも・・・」麗子は戸惑っている。

「今、お忙しんですか」

「そうじゃないんですが・・・」麗子は歯切れが悪い。

「こんな格好でお付き合いなんて、はずかしくて・・・」

 階堂は麗子の逡巡の理由を知って快活に笑う。その笑いには嫌味がない。麗子のつられて笑う。

・・・ほう・・・その表情をみて驚きの声を上げる。笑うと引き込まれるような魅力に溢れるのだ。顔全体が輝いて見える。

「僕だって、こんな格好さ、お見合いじゃあるまいし」

 階堂のくだけた口調に、麗子は口を開けて笑う。真っ白な葉がこぼれる。きれいな歯並びだ。

「六年間、心の中をさらけ出した中でしょう」

 階堂の親身な物の言い方に麗子の表情は明るくなる。

「階堂さん、ラグビーやったただけあって、立派な体ね」

「そういう、麗子さんもテニスをやってるでしょう。素晴らしいプロポーションだ」

「あら、嫌だ」麗子は真っ赤になる。

 二人はすでに、文通時代の仲間の雰囲気に戻っている。その日、あちらこちらをドライブしたり、麗子の案内で焼物の製造元をみたりして時間をつぶす。


 階堂はその日を境に宮下家に足を運ぶようになる。両親にも会って親睦を深める。

 九月になる。階堂は積極的に人脈作りに励む。始めの内は二人の先輩に付いて挨拶回りをしていた。一ヶ月も立たない内に自分だけで行動するようになる。

 階堂は父から、自腹を切ってでも、付け届けをしておけと教えられている。役所関係への挨拶は世間の目がうるさいので表向きは自粛されている。

 階堂はこれからお世話になるであろう人達への自宅に贈り物をしている。大げさの物はかえって辞退されるおそれがある。相手がすんなりと受け取るような物にしている。

 宮下贈答店の切り盛りは純子が行っている。彼女は高校卒業と同時に父親から店を任せられている。階堂が麗子について、眼を開かされるのは贈答品を贈ることから始まる。

 値段は4,五千円程度の物が評判が良い。贈答品を受けとった人の中には、電話でわざわざ礼を言う人もいる。

「いやあ、孫がよろこんでねぇ」礼を言われて階堂も嬉しい。

 階堂は純子に、贈答心を贈る人の名簿と家族構成等を渡している。何を贈るかは彼女に一任している。階堂は礼を言われて嬉しいと話す。

 純子は{喜ばれて、良かったですね」というものの、品物の選択については曖昧な返事だ。どの人に何を贈ったのか問い詰める。

 彼女は眼を伏せて、申し訳無さそうに言う。

「私が選んだのではないの」

 純子は答える。お客が贈答品を指定してくれば別だが、そうでない場合は、贈る相手の家族や人柄などを出来るだけ詳しく聞き出す。その上で麗子が品物を選び出す。姉の判断は的確で、贈り主に喜ばれる。

 麗子は大人しくて目立たない。純子はそこにいるだけで、その場の雰囲気が華やぐ。彼女は気さくで誰とでもすぐに打ち解ける。相手が際ぞい会話を始めても、サラリと受け止める。いやらしさや嫌味もない。上品な雰囲気でその場を盛り上げる。かと言って、彼女自身がその場の中心的な存在になろうとはしない。華やいだ場所に身を置こうとはしないのだ。普段は紺の事務服で過ごす。外に出かける時も地味な服装だ。

 そんな純子と引き換え、麗子には華やいだ雰囲気はない。そこに彼女がいるという存在感さえ感じられない。

 店にお客が来る。純子はその場の空気を盛り上げる。すぐにも客と十年来の知己のような雰囲気になる。客が何を贈るべきか相談に入る。簡単に決まればそれに越したことはない。あれこれと思案に暮れると、麗子がそっと客に質問する。贈り主の事をさり気なく尋ねる。客は贈る品物の選択に頭が一杯だから、尋ねられることに何気なく答える。麗子の事はそれ程意識していない。

 麗子が小さいがしっかりとした口調で贈答品の中身について「こういうものにされたほうがよろしいかと思いますよ」さり気なく答える。

「そうね」客は少し乗り気になる。すかさず麗子の口から、その品物の良さと、贈り主に喜ばれそうな理由が飛び出す。押し付けるような理屈っぽさはない。客の顔色を伺いながら、その心情に訴えかけている。客がいちいち頷くのを確かめて次の説明に入る。

「そうね。それじゃ、それにしようかしら」

 最後の決断はお客がする。麗子はお客の気持ちをレールに乗せてアドバイスをして、購入という駅に巧みに誘導いていく。客が購入を決意すると、麗子は店の片隅に引っ込む。空気のような存在になる。

「良い品物をお決めになりましたね」すかさず純子が客の選択を褒める。

 客は店を出て行く時、チラリと麗子に会釈する。階堂は麗子の巧みな話術に舌を巻く。豊富な知識と豊かな感性に裏打ちされた話し方なので説得力がある。


 階堂は暇があるごとにしげしげと宮下贈答品店に足を運ぶ。麗子は昼間大学にい行っていて留守が多い。それでも、純子から階堂が毎日のように来ていることを知らされている。階堂のお目当てが純子であることを、麗子は見抜いている。好男子の階堂と美女の純子なら、お似合いのカップルだ。麗子は妹に暗に階堂とデートするよう勧める。

純子は階堂が姉のペンフレンドと見ている。姉を差し置いて階堂とデートなど出来ないと考えていた。階堂が自分に好意を抱いている事は承知している。そういう自分も階堂に憧れている。

 階堂が純子にデートを申し込む時、姉と一緒なら、という条件をつける。男一人に女二人のデートが成立する。大抵はドライブになる。喫茶店でコーヒーを飲みながらの他愛のない、純子と階堂のお喋りとなる。麗子はその会話を黙って聞いているのみ。話の中身が少し難しくなると、麗子の独壇場となる。純子と階堂は聞き手に回る。

 麗子は時を見て階堂に、妹にプロポーズするよう、促すつもりでいる。自分は来春に大学を卒業する。店は自分が継げば良いと考えている。


 平成八年も十月となる。

大西洋建設T出張所の貸事務所の隣が空くことになた。今借りている部屋は十帖程の広さしかない。隣を借りる事で倍の広さになる。もっと広い所を探していた矢先だ。願ったり叶ったりである。部屋と部屋の間仕切りを取り払う。事務用品の整理にとりかかる。三人しか居ない部屋だから大したものはない。半日もあれば片付いてしまう。階堂が不要な書類を整理していると、一冊の見積書が出てくる。日付は今年の八月と、まだ新しい。

「大野さん、これなんですか」階堂は金縁眼鏡の大野に見せる。

「ああ、それ?塚本住宅っていう建売屋の見積りよ」

 それは解っているが、まだ日付が新しいのに何故破棄処分にするのかと問う。大野は面長の色白の優男である。お茶を飲みながら憮然としている。

「それはなあ」横から、たばこを吸いながら山岡が答える。大野は思い出すだけでも嫌だという顔をする。 山岡は実直でどちらかと言えば事務向きだが、営業向きの大野とは馬が合う。

 以下山岡の話。

 三ヶ月前の七月。この貸し事務所を紹介してくれた不動産屋より話があった。

「自分とこの知り合いに、塚本住宅と言う建売屋がいる。そこがユニーT店から約三百メートル南に行った所で宅地開発をやる。今、工事屋を捜している。大西洋さんとこも見積りを出してみないか」とのこと。

 B市支社からはどんな工事でも請け負えと言われている。その不動産屋からの紹介で、宅地造成の設計図をもらい、見積りを出した。

当初提出した金額は一億六千万円。

 塚本住宅からは高過ぎると一蹴された。四社の相見積もりの中で「あんたとこが一番高い」と言われて、九月に再見積もりを出す。二千万円削って、これならいいだろうと思っていた。後日連絡が入る。

「こちらの希望価格は消費税込みで一億二千万円までだ」

 山岡は麻雀の寝不足の顔で階堂を見ながら喋る。

「大野さんもなあ、支社の課長にずいぶんと掛け合ったんだわあ」

 塚本住宅の希望価格では採算割れをする。

 大野は山岡を引き連れて何度か塚本住宅に交渉に行く。結果は惨敗で屈辱感だけがしこりとして残る。

「大変だっただわあ。支社の課長の応援まで頼んだりしてなあ。言っちゃなんだが、町の小さな不動産屋のくせして、天下の大西洋建設を見下すような態度でなあ」

「あんたとこはどうせピンハネするだけだらあ」

大野は何度訪問しても子供のようにあしらわれた。さすがの大野もプライドを傷つけられて、思い出すことさえ嫌なのだ。

「その仕事ってもう他社に決まったんですか」と階堂。

「まだ決まってないだろうよ。工事は来年の春頃を予定しているって言うから」山岡が答える。

「一万立米の宅地造成だぜ。こんな田舎の土建屋に出来るわけがねえやな」大野が捨て台詞を吐く。

「消費税を入れて一億二千万円では到底ムリだ。どんなに下請けを叩いても、一億三千万はする。消費税抜きでな」

 山岡は大きく欠伸をして、眼をしょぼつかせる。

「これ、一つ私にやらせてくれませんか」

 階堂は新入社員がしゃしゃり出て、嫌味を言われるかと思った。

「無駄だと思うが、これも勉強だと思って、やってみな」

 大野は応接椅子にどっかと腰を下ろすと、その話は無かったように山岡と一杯やる話をしている。二人は一週間に二、三回ぐらいは一諸に飲んだり、麻雀をやったりする。恋人同士のように仲が良い。

 階堂は仲間はずれだが意に介さない。この二人と顔を合せているよりも宮下純子と付き合っていたほうが良い。

 早速、B市支店の積算部に電話を入れる。見積りを作成した担当者に詳しい事情を聞く。

 一億四千万円の内、土砂取りと運搬費、整地費で六千万円に付いている。これはいくらなんでも高すぎないかと尋ねる。担当者は現地を見た上で見積もったという。

 彼の言い分はこうだ。

 大西洋建設はT市に出張所を開設して日が浅い。近隣の市町村からの受注工事も少ない。工事もほとんどB市の下請けにやらせている。今回の見積りもその業者に出させている。

 現場は一山削ることで宅地造成が成り立つようになっている。設計図を見ると、土砂取りの量を一万立米としている。これは山をそのまま土砂の量としただけだ。実際に山を削るとその量は三割ばかりばさばることになる。こんな事は土建屋の常識で、どこでもそうやって見積もっている。

 問題なのは土砂の捨場だ。極端な例で言うと、一時間もかかるような所にダンプで運んだすると、その費用だけでも大変なものになる。一応片道三〇分位なところに捨場があるということで出した見積りだ。

「それじゃ、ダンプで五分か十分ぐらいで運べる場所があれば、もっと安くなるわけですよね」

 階堂は新入社員であることと、二人の先輩がこの担当者と何度も打ち合わせしていることを意識して、言葉が丁寧になる。

「それに・・・」担当者は付け加える。あくまでもB市の下請けが出した見積りだから、地元の業者がやれば、もっと安く出来るかもしれない。ただ、そんな融通のきく土建屋との付き合いはないと言う。

 階堂は見積りをチェックする。北海道の家で働いていた時、将来の息子のためと、父から見積りの仕方を教えてもらっていた。

 土砂取り費用六千万円の内千五百万円カットできれば擁壁工事、道路舗装費なども五、六百万円安くなるのではないかと判断した。上手く行けば消費税込みで、塚本住宅の希望額に近づけるかもしてないと考えた。

 問題なのは、塚本住宅が、再見積もりの交渉に応じてくれるかということだった。

階堂は塚本住宅に電話を入れる。社長が在社で本人の声が聞けた。階堂は用件を言って、お会いしたいがと伝える。

 受話器の向こうから疳高い早口の声が飛び出してくる。今更話し合う気はない。それに隣町の土建屋から、うちの希望に沿えそうだと言ってきている。今はそっちを第一希望としている。

 言うだけ言うと電話は一方的に切れてしまった。

・・・万事休すか・・・階堂はそれでも諦めきれない。何か良策はないかと思いあぐねるが、名案は浮かんでこない。

 十月中旬、階堂は宮下贈答品店の夜食に招かれた。

 アパート暮しで独身なので、階堂と山岡は近くのラーメン屋で食事を摂ったり、喫茶店でモーニングサービスで済ませたりする。毎日が外食なので、麗子が案じて時々は宮下家で食事を摂る用招いてくれる。

 彼女は階堂に妹を娶せる腹づもりでいる。両親にもひきあわせて、親睦を図る意味も含まれている。

 階堂は宮下家の事を両親に知らせている。純子との結婚も匂わせている。苦労人の父は北海道の海産物を送ってくれる。階堂はそれを持って宮下家を訪問する。海草やズワイガニなど喜ばれそうな物が多い。彼は宮下贈答品店に北海道の海産物問屋を紹介している。

 食事のもてなしと言っても大げさなものではない。宮下家の普段の夕食に階堂1人が割り込んだだけである。

 宮下家は屋敷の一部を店舗に改装し、店の奥が居間兼食堂となっている。不意の来客に備えて接客出来るようになっている。屋敷の北は、裏手の納屋を改装したアパートで、その奥、西側は三年前に山を削って倉庫を建てている。

 宮下家の西の方はT駅や商店街などを見下ろせる高台である。隣町に抜ける横断道理はT市役所へ直通となっている。道路拡張のために西側の高台が一部削り取られている。

 夕食は純子たち姉妹と両親それに階堂が席を占める。台所は六帖程で、テーブルを囲んで五人賀座ると一杯になる。熱気があおり、十分もいると、上着を脱ぎたくなる。

 両親は共に四八歳。小柄で若く見える。二人とも温厚な人物である。階堂が夕食に招かれる時は、食事が終わると、二人共早々に自分たちの部屋に引き上げる。若い者は若い者同士という計らいなのだろう。後は二人でテレビを見ながら夜を過ごすという。平和な家庭が宮下家にある。

 二人の姉妹は屈託がない。純子の方は軽い冗談を飛ばして、その場の雰囲気を盛り上げている。彼女は薄化粧している。肩にかかった長い髪は手入れが行き届いている。漆黒の髪が綺麗だ。目鼻立ちの整った色白の顔も酒が入ってほんのりと赤みを帯びている、彼女はいつ見ても紺の事務服だ。身を飾った姿を見たことがない。艷やかの容姿なのに、晴れやかの事を好まない。

 麗子は長い髪を後ろに束ねただけの、地味な姿だ。小麦色の肌は化粧気がない。今夜は割烹着姿だ。

「階堂さん、どう姉の手料理、いけるでしょう」

 純子は酔で潤んだ瞳で言う。階堂は頷く。確かに旨い料理だ。麗子は何をやってもすぐに我が物にする。そういった才能の持ち主だ。 

 麗子は付き合えば付き合う程、味の出る女性だと、階堂は感じている。"スルメみたいな女”それしか表現のしようがない。

・・・それに・・・階堂は麗子の酌を受けながら思う。

 純子と比較して見劣りのする容姿も、それほどではないと感じるようになっている。ふっくらとした頬や、内面から輝き出るような知性の高さが、彼女の欠点を補って余りある。

 麗子と純子は、階堂がそんな事を考えているとは露知らない。子供に還ったような他愛のない会話が続いている。階堂も引きずられて、北海道のこと、小さいころの失敗談も交えて話に興を添える。

 酒も心地よくお腹に染みわたる。

 話も麗子の大学の事、卒業のことが話題になる。彼女は何処にも就職する気はない。しばらくは店の手伝いをして過ごすという。

 麗子の将来の人生設計の話も三〇分ぐらいで終わる。純子の駄洒落のような会話を挟んで、階堂の仕事の事が話題となる。彼はT市の飛行場建設が、大西洋建設の将来の命運を賭けたプロジェクトになると話す。来年早々には会社のお偉方が常駐する。

 一杯やりながらの会話である。気難しい話も、上滑りの、舌の上で転がすだけの調子で終わる。

「実はさあ・・・」階堂は何気なく塚本住宅の件を話題に乗せる。酒の肴になればと、気軽に話す。

 話始めて数分後、麗子の細い目から酔いが消える。

「もっと詳しく話して」彼女の要望に、今までの経緯を喋る。

「階堂さん、その仕事、絶対引受けるべきよ」

 麗子は真顔になっている。純子は姉が話しだすと、身を引くように、無口になる。姉と階堂を代わる代わる見ている。

 麗子は言う。

 大西洋建設のような大手ゼネコンからみれば、塚本住宅など、取るに足らない会社かも知れない。

「でもね・・・」麗子の声に力が入る。

 塚本住宅はT市では、”大手”の建売屋さんだ。売上は近隣の地域も含めて、五本の指に入る。T市では一番があって二番がない。市内の五〇数軒の不動産屋、建売屋の中では抜きんだ存在だ。階堂の言う三千坪の、一山を削る宅地造成も、市役所が注目している。

「よく知っているね」階堂は感心する。

「そりや判るわよ。商売柄、役所の人達とも付き合いがあるから、色んな情報が入ってくるの」

 純子が酔った顔で間を入れる。

「つまりね、市役所はね、誰が宅地造成をするか注目しているの」

 麗子の肉厚の唇から白い歯がこぼれる。そんな馬鹿な、言ううことが大袈裟ではないか。階堂の口からそんな言葉が漏れそうになる。

「階堂さんの不審な気持ちは判るわよ」麗子は階堂の心の内を読んでいる。

「聞いた話だけどね」今度は純子の形の良い唇が動く。麗子が口を閉ざす。この二人は一つの生き物のように、ピタリと息があっている。

 宅地造成の許可が降りるのに三年かかっている。軒の許可そのものは一年もあれば充分だ。問題は宅地造成地が県道沿いの駐車場の奥にあることだ。土砂を運ぶにはその駐車場を通らねばならない。その通行の許可について、その土地を管理している西条区の字会の総会でもめたというのだ。

 麗子達が聞いた話だと、字の役員の中に、塚本住宅の成長を妬む不動産屋がいる。彼は宅地開発をやらせまいとして、字会を煽ったり、この地区の実力者をけしかけている。

 昨年の冬、宅地造成が行き詰るかに見えた。

 塚本住宅にとって幸いな事に、宅地造成地内に、絹川という、この地区で大地主の土地が含まれていとことだ。絹川にとっても宅地造成祖すれば自分の土地が活きてくる。

 宅地造成の話がなかなか進展しないことに業を煮やした彼は字会の総会に臨む。その席で土砂取りの通行を認めないなら、字に貸してある会館の土地を即刻返してもらう。その上で今後市役所がこの地区で行う道路拡張工事や公共事業などには一切協力しないと声を荒らげる。

 絹川の発言でダンプの通行は認めたものの、当の不動産屋は実力者を煽り、宅地造成地の南側を流れる川は、大雨や台風の時に氾濫するおそれがある。その時、責任は誰が取るのかと市の担当者に迫る。

 その事実を知った塚本住宅の社長は絹川と設計士を引き連れて市長に直談判に及ぶ。市長に事の次第を説明して理解を求める。市長は関係部署の部長、課長、担当者を呼び出す。その場で設計士は過去十年間の雨量のデータを示す。三〇軒の建物が達ち、家庭内排水が増えたとしても、川が氾濫すつことは考えられないと力説する。

 担当者はその事は承知しているが、この地区からの実力者からの抗議なので、後々問題が発生した時の責任は負えないと、困惑の表情を見せる。

 設計士は宅地の一区画を調整池とする。大雨が降って、もし川が氾濫するようであれば、造成地内の排水は調整池に溜める。担当者はそうして貰えば助かると市長に説明する。

 当の実力者には私が説明するから、この宅地造成を早く進めろ、との市長の鶴の一声で三ヶ月後に認可が降りた。

 宮下麗子は酔の覚めた声で続ける。

 以上のような経緯があるので、市は宅地造成の成り行きに注目している。ましてや市長のお声がかりときている。正直な話、一万立米の土砂を取り、宅地造成をする土建屋は市内にはいない。いたとしても自力だけではやれない。市としても大手の土建屋に頼むよう、塚本社長に促している。

「つまりね、この仕事を引受けるという事は、今後の市と付き合う上で大いにプラスになるという事ね」

麗子の声は弾んでいる。

 市に顔が出来るということは、将来の飛行場建設に有利に働くと言う事だ。現在多数のゼネコン各社がT市に進出している。国家的な巨大プロジェクトにT市も関与している。そんな時に市の有力者に顔を売る絶好のチャンスなのだ。

 麗子は階堂の顔色を窺う。階堂は麗子の言わんとする事はよく判るが、これ以上は自分の力ではどうしょうもないと、肩を落とす。

「私に任せてくれない?悪いようにはしないから」麗子は階堂の反応を見る。

「階堂さん、姉に任せてみて」純子も後押しする。

 どのみちパーになった仕事だ。階堂は駄目で元々と考える。

「判った。お任せする」

 階堂が返事をするが早いか「純子、古川不動産に電話して、私が出るから」

 麗子の声が終わらぬ内に、純子は受話器に飛びつく。

「この時間に居ればいいけど」純子はブツブツ言いながらプッシュボタンを押していく。

「あっ、古川さん、私、宮下贈答品店ですけど、ちょっと、姉と代わりますから」

 麗子は受話器を受け取る。

「夜分、すみません。うちのアパートも事いつも有難うございます」受話器の前で頭を下げる。

「古川不動産ってね、うちのアパートの管理をしてくれているの。塚本住宅とも付き合いのある人なの」

純子が階堂の耳元で囁く。

  麗子はは電話口で、塚本社長について、あれこれ聞いている。

「塚本さんって、多賀の伊能さんと付き合いがあるって聞いたけど・・・」

 麗子は階堂の顔を見る。

「ええ、市会議員の伊能国次郎さん。やっぱりね。有難う御座いました。夜分にすみませんでしたね」

 麗子は電話を切る。「伊能さんと懇意にしているそうよ」誰に言うとも無しに言うと、電話帳を調べる。すぐにもプッシュボタンを押していく。

「伊能さんのお宅ですか。夜分すみません。あっ、奥さん?私、宮下麗子ですお久しぶり」

 電話口で暫くの間女同士の無駄口が始まる。

「奥さんすみません。明日のご主人のご都合はどうなっていますかしら」

 麗子は伊能国次郎に相談したいことがあると話す。電話口の向こうで、朝九時頃なら居るという。まだ帰ってきていないが、麗子ちゃんが来る事を伝えておきますとの返事。

「純子、次、中田土建さんに電話」、「はいよ」

 純子は姉から受話器を受け取ると、テキパキとプッシュを押していく。その間麗子は手帳を取り出して明日の予定を都合している。

「階堂さん、すみません、明日、八時半にここにきて下さいね」

 階堂の都合を聞こうともしない。普通から言えば失礼な事だが、階堂は頷く。宮下麗子が一回りも大きく見える。命令口調にも素直に応じる。

「姉さん、中田さんよ」

「中田さん、お久し振り、折り入ってご相談があるの、明日、午前中時間ない?。ある?。じゃ十一時頃にお伺いしますね。そちらに行ける時間がはっきりしたら連絡します」

 受話器を降ろす「ああ終わった」麗子は純子と顔を合せて笑う。

「まだ九時よ。もう一杯いこまいか」地元弁丸出しで階堂に杯を進める。階堂は呆然として、上気した麗子を見つめている。彼女の顔は明るく輝いて美しい。階堂は黙って杯を差し出す。


 翌朝八時半。階堂は麗子を車に乗せて、伊能邸に向かう。場所は約三キロ北にある多賀公民館の西側、車で十分とかからない。約束の時間より二〇分も早く着く。風呂敷包みを手にした麗子は階堂に言う。

「伊能さんは待つことの嫌いな人なの」

 それだけ言うと、伊能国次郎の人物評価を手短に話す。伊能は多賀地区での大地主である。市会議員として最古参で、現在は議長を務めている。政治家としての実力は市長より上であることは、市役所を知る者にとっては常識となっている。歳は六七歳。六歳歳下の奥さんと、五人の子供に恵まれている。長男夫婦が後を継いで、家の切り盛りをしている。

――付き合って損のない人――麗子の評である。

 県道沿いに多賀公民館がある。その出入口を奥に入ると伊能邸である。南東の角に蔵がある。板囲いの引き戸が道路に面している。敷地の北東な角が駐車場になっている。

 今日は何か催しがあるのか、道路の向かい側、東にある公民館の広い駐車場には多くの車が入っている。

 車を駐車場に入れて引き戸をくぐる。中は百坪程の庭になっている。建坪八十坪はある屋敷は明治時代の末期に建てられたという。古いが、がっしりとした入母屋の平屋である。

 玄関の引き戸を開ける。麗子は後ろに控える階堂にこちらで待たせてもらってと言いながら上がり框に入り込む。

「こんにちは、麗子です」奥に声をかける。

 玄関を上がった右手が応接室だ。階堂は麗子に言われたように、入り口のドアを開けて十帖の応接室に入る。

「奥さん、見える?」余程親しい仲なのか、麗子は案内も乞わずに玄関の奥に上がりこむ。上がり框の奥は八帖の和室となっている。玄関と和室の間には間仕切り用の屏風が立てかけてある。

 応接室に入った階堂はソファに腰をおろしてつくねんとしている。

「奥さん、勝手に上がり込んじゃったわ」

麗子の疳高い声が聞こえてくる。

「まあ、麗子ちゃん、お久しぶり」女の声が対応する。

「これ、もらいもんですけど」

「まあ、麗子ちゃん、そんな事しなくても」

「北海道の特産品・・・」

「まあ、こんな良い物を、まあ、まあ」

女はまあまあを連発している。

「やっ、麗子ちゃん、しばらく見ん内に、色っぽくなったなも」男のしわがれた声がする。

 声とともに、畳を摺る足音が聞こえる。階堂が入ったドアの向かい側に同じような入口がある。

「やっ、待たせたなも」

 白髪を短く刈り込んだ初老の男が入ってくる。体格ががっちりしている。四角い顔で浅黒い肌をしている。ぶ厚い唇と、大きな鼻が目立つ。切れ長の眼が眠たそうに細い。

 男と同時に階堂が入ってきたドアから麗子が入ってくる。階堂の側に腰を降ろす。階堂は慌てて立ち上がると、恭しく名詞を差し出す。男は背広にネクタイを締めている。

 男は階堂から名詞を受け取る。内ポケットから名刺入れを取り出す。

「わし、こういう者です」軽く会釈して名刺を渡す。

――T市、市会議員、伊能国次郎――

 階堂は深々と頭を下げる。押しいただくように名刺を受け取る。

「まっ、座って」言いながら伊能はソファににどっかと腰を下ろす。

「で、用件は?」

 階堂は塚本住宅との今までの経緯を話す。物の一分も立たぬ内に

「判った。要は塚本住宅から仕事を貰いたいと言うのだね」

「伊能さん、私からもお願い」麗子は階堂とはペンフレンドだと話す。

「で、わしにどうしろと言うのだな」

「伊能さんから塚本さんにお願いしてほしいの」

 伊能は麗子の声が終わらぬ内に、左手のテーブルの上の受話器を取り上げる。電話番号のメモを見ながら、プッシュボタンを押していく。

「塚本住宅さん?、社長いる?、わし伊能ですがな」

 しばらくの沈黙の後、「塚本さん、今時間あるかな。そうか一時間ばかりならな。それじゃ、今すぐわしんとこに来てくれんか。じゃね」

言うなり受話器をガチャリときる。見方によっては乱暴な対応だ。

 伊能の奥さんがお茶を持って入ってくる。先ほどの声の主と見える。伊能と階堂達の間のガラステーブルにお茶を置く。彼女は伊能の耳元に何かを囁いて応接室を出て行く。

「階堂さんとか言ったね。えらいええものをもらっておおきに」伊能は軽く頭を下げる。

「まっやって」目の前のお茶とお菓子を勧める。

「階堂さん、遠慮しちゃ失礼よ」

 麗子はすでに菓子を頬ばっている。伊能も口いっぱいに菓子を食いながら、無動作にお茶を飲み込んでいる。その姿は何処から見ても田舎の好々爺のようで頼りなさそうだ。階堂は不安な気持ちで菓子を口に入れる。

 伊能は菓子を食べ終わると眠たそうな表情で俯いてしまう。麗子は紺の事務服から手帳を取り出すと、何やらメモをしている。仕方なく階堂は部屋の中を見渡す。所狭しと花瓶が並んでいる。置き時計が四つもある。色々なものが雑多に置いてある。

奥に伊能が席を締めている。後四人程腰を降ろす広さしかない。来客用とは言うものの、五人も六人の押しかけて来たらどうなるのかと考えてしまう。

 伊能が電話を入れて十分程立った頃、

「こんにちは」玄関の引き戸を開ける声がする。

「塚本さん、入りや」伊能は眠たそうな顔を上げる。

 すぐにも応接室のドアが開く。

「あら、麗ちゃんじゃないの」大きな声を出しながら、塚本は伊能と麗子の間に割り込むように腰を降ろす。

「塚本さん、いつもお世話になっています」麗子は腰を降ろしたまま、頭を下げる。

 階堂は立ち上がると名刺を差し出す。塚本は階堂の名刺を手に取ると、麗子と伊能を代わる代わる見る。何も言わず階堂に名刺を差し出す。

 階堂は塚本とは電話で対応はしたが、会うのは初めてだ。麗子から市内では最大手の不動産屋と聞いている。さぞかし大変なやりてだろうとその風貌を想像していた。

 今、目の前にいる小柄な男は猫背である。頭髪のてっぺんが薄れかかっている。白髪が目立つ。度の強い眼鏡をかけて、小太りの頼りなさそうな顔をしている。服装もノーネクタイで、背広もヨレヨレだ。垢抜けない表情で、ぼんやり壁を見ている。

「塚本さん、こちら大西洋建設さん。例の宅地造成、頼むわ」伊能は頭を下げるのでもない。ぽつりという。

「判りました」塚本もぽつりという。

「見積りだけでもお願いしたいんですが・・・」

 階堂が深々と頭を下げる。途端に伊能の眠たそうな眼が、階堂の真新しいダブルのスーツを見つめる。

「階堂君、見積りを出すだけだったら、麗子ちゃんが塚本さんに色目を使うだけで充分だわ」

「色目だなんて」麗子が赤くなる。

「お父さん麗子ちゃんに失礼ですよ」塚本のお茶を持ってきた奥さんがたしなめる。

「いやあ、麗ちゃんの色目なら大歓迎ですわ」塚本は眼をパチパチさせて喜んでいる。

「色目はともかくとしてだね。麗子ちゃんが頼むといえば、それで済むことなんだわ」

 伊能の本気とも冗談ともつかぬ物の言い方に塚本が頷く。

「ええかな、階堂君、麗子ちゃんがわしんとこに来たのはな、塚本さんの仕事をあんたとこにやらせるためだわ」

 伊能はそれだけ言うと「おーい、もう一杯お茶くれんか」奥に声をかける。

「塚本さん、お願いね」麗子が頭を下げる。

「麗ちゃん仕組んだな」

「仕組んだなんて」麗子は口をモゴモゴさせる。

「ところで、お二人はどういう関係?」と塚本。

「ペンフレンドだそうだわ。恋愛中というやつだわな」伊能はにこりともせずに言う。

 恋愛中と言われて、麗子は真っ赤になって顔を伏せてしまう。階堂はそんな麗子がいじらしくなる。

「すみませんが、何とぞ、よろしく」

 階堂は塚本に頭を下げる。伊能も塚本も、どういう人間なのかよく判らない。二人とも掴みどころがない。奥が深いのか、頼りげがないのか、階堂には手に余る人物のようだ。

 その時、奥さんが抹茶を運んでくる。

「すみません、奥さん」麗子は立ち上がり、抹茶を運ぶのを手伝う。

「やってくれや」伊能が手を差し出して勧める。

「やっ、有難いなも、いただくわ」塚本は真っ先に口に運ぶ。抹茶を一気飲みにして、まんじゅうを一飲みにする。腹の中に収めると、

「すみません、奥さん、お茶もらえます?」無遠慮に奥に声をかける。

「伊能さんの顔を立てるとして、わしの顔も立ててくれんか」塚本は階堂を見る。

「顔?」

 階堂は塚本を見返す。彼の太い眉の下の大きな眼がパチパチまばたく。薄く引き締まった唇がだらしなく開く。麗子は軽い微笑を浮かべて、コクリと頷く。

 伊能は抹茶を一味一味楽しむように飲んでいる。まんじゅうをひとつかみごとに口に運ぶ。

「麗子ちゃん、階堂くんに説明したりや」伊能は一言いうと、お茶を持ってきた奥さんに「お菓子はまだあるか」持ってくるように促す。甘党のようだ。

 麗子は抹茶を飲み終えると、茶碗を隅に片付ける。塚本の顔色を伺いながら口を切る。

塚本は造成費が一億二千万円なら工事をやらせると、隣町の土建屋に約束している。大西洋建設が同額の見積りを提出すれば、伊能の顔は立つが、その土建屋との約束を反故にする塚本の顔が丸つぶれとなる。当然、当の土建屋は約束を盾にして、契約の履行を迫って来る。。

 だから、二、三百万程度下げた見積りを提示すれば、それを理由に、当の土建屋との約束を反故にしても言い訳が立つ。

「判ったかな、階堂君、」伊能は眠たそうな顔でお茶を飲み、菓子を頬ばる。

「しかし、それでは・・・」階堂は思わず声を立てる。

一億二千万円でもきついのだ。それを諸費税込みで一億一千八百万円にしろとは、不可能な話だ。

「階堂さん、麗ちゃんに任せときや」塚本は背中を丸めてお茶をすする。どうみても風采が上がらぬ。五〇前後なのだろうか。」何となく定年退職を控えた、侘しい中年の趣がある。そんな頼りげのない男が麗子に任せとけと言う。

 宅地造成の話も、つい先程切り出しただけだ。麗子と塚本が延々と打合せを重ねた訳ではない。あまりにもあっさりと交渉が進展していく。階堂は不思議なものでも見るように麗子を見る。

 彼女は菓子の味を楽しみながら、楽しそうにお茶を飲んでいる。塚本の話を他人ごとのように聞きながら、泰然と花瓶を眺めている。

 伊能といい、塚本といい、麗子といい、応接室の春のような雰囲気を楽しんでいる。階堂だけが、事の重大さに心動が激しく波打っている。取り残された気分に、不安に襲われる。

「麗子さん・・・」階堂は救いを求めるように麗子を見る。

「階堂君、麗子ちゃんがわしんとこに来るというのはな、それだけの成算があってのことだわ」

 伊能は階堂の勘の悪さに苛立っている。

麗子はお茶を飲み終えると「私に任せて」階堂に助け舟を出す。

「はあ・・・」階堂は浮かぬ顔になる。成算があるなら、何もこんな所に来なくても、塚本住宅と直談判すればよいではないか。内心不満を漏らす。

「伊能さん、市役所の南側の海岸の埋め立て工事、いつから始まるんですか」

 宮下麗子が言おうとしているのは、飛行場開港に伴う前島の為の、港の埋め立て工事を言う。この情報は市の広報誌にも掲載されている。

「一応来年の春頃かな」伊能は素っ気なく答える。何を考えているのか判らない表情だ。

「伊能さんのお力で、三月頃に出来るよう計らってくれませんか」

「ええよ。役所の責任者に言っとくわ。で誰にやらせる?」

「中田土建さん」

「あそこなら大丈夫だわ。判った」

 伊能はそれきり何も言わない。菓子を食べながらお茶ばかり飲んでいる。中田土建は市の指定業者である。市の信頼も厚い。

「伊能さん、この時計、ええできですなあ」

 伊能と麗子が話をしている最中、塚本は、裸体の女性が二人、両手を掲げて丸型の時計を持ち上げている置き時計を手に取っていた。

「それ、もらいもんだわ」

「この裸の女性が気に入ったもんでなあ。わしに頂戴」

 塚本は度の強い眼鏡の奥から小さな眼を瞬かせる。

「欲しけりゃ、やるけどなあ。あんた、時計ぐらい自分で買いやな」伊能は文句を言う。

「この人なあ、わしんとこに来ちゃ、そこいらにあるもんを持って行くんだわあ」

 伊能の声が大きくなるが怒っている風でもない。

「この人なあ」塚本を指さす。

「年間に二〇棟以上やる建売屋だわ。金持ちなんだけどなあ、しみったれでなあ。車だってカローラしか乗らんし、服だって十年前のもの着とるし・・・」

 麗子は伊能の真面目くさった顔と、ニタニタ顔の塚本を見比べてクスクス笑う。階堂は二人を見ながら眼を丸くする。

・・・この二人、どういう関係なんだろう・・・

「麗子ちゃん、塚本さんが偉いのはなあ、こんな金持ちになっても、ベンツに乗ったり、偉きばったりせんどこだわ。やることが地味でなあ」

麗子はもっともだと頷く。


 時計の置物を側に置くと、塚本は背中を丸くして、

「ところで麗ちゃん、純ちゃん元気?」

 矛先を麗子に向ける。

「ええ、お陰様で」

「どうだいな、近いうちに一杯やろまいかな」

「有難いわ、純子も喜ぶわ」

「まっ、割り勘でな」

 麗子は思わず口を開けて笑う。伊能が横槍を入れる。

「塚本さん、そんなケチっとちゃ、だしかんで。コンパニオンを呼んでみや。一時間一万円か二万円とられるだらあ」伊能はどこまでも真面目である。

「そうよ、塚本さん、花の女子大生と、ミスTをはべらして、割り勘なんて、虫がよすぎるわよ」

麗子は笑っている。

「塚本さん、二百万円儲かるんだから、わしも呼ばなあかんよ」

「伊能さん、判ってますがな」

 階堂は三人の掛け合い漫才のような会話を聞いている。この三人はどういう関係なんだろう。自分だけが浮いてしまってるが、この場の雰囲気は悪くない。

「じゃ、月日と時間だけ決めとこまい」伊能は手帳を取り出す。

「この日はどうだな」一方的に宣言する。

「いいですよ。麗ちゃんの方は?」

 塚本は麗子の反応を確かめると、「じゃ、割烹清水でいいですな」電話を取り上げる。

「あっ私、塚本だけどね、予約五人ね」

 割烹清水は、伊能邸と宮下贈答品店との中間に位置する。

「五人?」四人の間違いではないかと、階堂は思わず声を立てる。

「階堂さん、あなたもよ」

「えっ」まさか自分も出席するとは思っていいなかった。

「階堂君、もうちょっとピントこんとだしかんよ」

 伊能は眠たそうな眼を見開く。子供に言い聞かすような言い方だ。

「ええかな、塚本さんわな、あんたの顔を立てるために一席設けようと言っとるんだわ。あんたをわしに近づけるためもあるんだわ」

 駄洒落のような会話の奥に、政治的な配慮が隠されていようとは、階堂は思いつきもしない。改めて麗子を見る。自分より一つ歳下なのに、先の先まで見透かして話をしている。それを露骨に顔に出そうともしない。急に自分が幾つも歳下の様に思えてくる。階堂は必死になって頭を働かせる。

「その席に課長を呼びたいのですが」 階堂は最良の思いつきと思った。

「課長さんはな、日を改めて、わしんどこに連れていらっしゃい。一杯やるのはあんたのためだから」

 伊能はあっさりと階堂の申し出を退ける。

「ちょっと、電話を借りますね」麗子は中田土建に電話を入れる。今十時半。一五分ぐらいでそちらに行けると伝える。

 麗子が受話器を置くと同時に、

「よっしゃ、これでお開きとしょう」伊能は立ち上がると

「おーい、わしの車、出しといてや」奥に声をかける。


 中田土建は伊能邸から車で15分。T市港二キロほど東に行った御嶽神社の北側にある。T高校や大手タイルメーカーの工場が立ち並ぶ。」

 車中、階堂は黙ったままハンドルを握りしめている。塚本住宅との話は簡単に決まる。無論消費税込みで一億一千八百万円にした場合でのことだ。麗子はそれを請け負ってみせると言い切っている。階堂は不思議な気持ちで助手席の麗子を見る。彼女の横顔は美しい。階堂はふと、平安時代の絵巻を想像する。

 一二単の女御の顔と似ていると思った。眉は太いももの、細い目と、顔全体からみるとやや小さめの鼻、小さい受け口と豊かな頬。

「階堂さん、ごめんなさいね。怒っているでしょう」

 麗子が申し訳無さそうに階堂を見る。

「えっ?どうして」訝しげに言う。

「だって、何もかもでしゃばちゃって・・・」

「とんでもない。偉い人と引きあわせてもらって、感謝しているよ」

 階堂はいったん言葉をきる。

「ただね、塚本住宅さんの要望通りの見積りが出せるかどうかだけど」

B市支社の積算部の担当者は、下請けをいじめて、利益幅を圧縮しても、一億三千万円はかかると見ている。それも消費税抜きでだ。

「やれる成算はあるの?」

「中田土建さんの返事次第よ」

 麗子はくすりと笑う。付き合えば付き合う程、不思議な魅力を持った女だと、階堂は思う。

 純子は胸をときめかす程の美人だが、付き合っていると、何となく底の浅い印象を受ける。かと言って彼女に魅力がないというのではない。

「何かおかしい」階堂は麗子の微笑に心の和らぐものを感じている。

「別に、今から心配したって仕方ないもの。なるようにしかならないと思ったら、急におかしくなっちゃって」

 階堂も思わず笑い出す。絶対に契約しなきゃいけないと思うと、気が重くなる。元々諦めていた仕事なのだ。失敗したら初めから無かったと思えばよいのだ。

「そうだね」二人は笑い出す。 

 中田土建の事務所はT高校から百メートルばかり南に行った県道沿いにある。県道から左手に入った角に自宅兼事務所がある。駐車場には三台の車が止まっている。階堂は車を駐車場に乗り入れる。

「さっ、行くわよ」麗子の声は緊張している。塚本住宅の要望通りの見積りが出せるかどうかは中田土建にかかっている。

 塚本住宅の一万立米の宅地造成は一山削り落とさねばならない。B市支社の一億三千万円の見積りの内、現場管理費や人件費、諸経費、利益を二千万円と見ている。 

 アスファルト舗装、コンクリート擁壁や上下水道を六千万円としているがB市内の下請け業者との直談判の末五千万円でやれると判った。

 問題なのは六千万円と見積もった宅地造成費である。


 事務所の引き戸を開ける。粗末な応接セットが有り、その奥がカウンターで仕切られ、三つばかりの事務机がある。

「こんちは、遅くなってごめんなさい」

 麗子は事務所の奥の、自宅の方に声をかける。すぐにも筋肉質の背の高い、鷲鼻の男が出てくる。歳は五〇前後か、パンチパーマの頭が若く見える。

「作業服姿で「よっ、麗子ちゃん久し振りやね」言いながら鋭い眼を階堂に向ける。

「私、こういう者ですが」階堂は素早く名刺を取り出す。

「あっ、ゼネコンさんかいな。こりゃどうも」中田は二人にソファに腰を下ろすに促す。事務机から名刺入れを取り出す。

「よろしく」名刺を出しながらソファに腰を下ろす。

「で、何の用」中田の眼は急に優しくなる。自分の娘でも見るように麗子を見ている。

「実は・・・」まず階堂が口を切る。

 塚本住宅との経緯を述べるが、伊能邸での出来事は口を閉ざす。

「その話はなあ、わしんとこにもあっただわ」

 中田は某大手ゼネコンの名前を出す。中田は話を続ける。

一万立米の山とは言うものの、ブルで削ってダンプの積むと、三割ばかりはかさが植える。

「それについては私共も心得ております」階堂は合いの手を入れる。

 中田は頷くと、ダンプ一杯分で約八立米、おおよそ一千六百杯分のダンプが必要になる。来年二月か三月の土砂取りとは言うものの、この近くには捨場がない。何とかメドを立てて、片道二五キロほどの所に埋立場が確保出来そうだが、行って帰ってくるだけで一時間、一日八時間やるとしても、八往復しか出来ない。運搬費に足を引っ張られて、とても塚本さんの要望には応えられない。やむなくゼネコンさんにはお断りした。

「その時の中田さんの見積りは幾らなんですか」麗子が尋ねる。

 中田は事務机の中から見積りの写しを取り出す。

「費用を削りに削って、五千五百だな」

 麗子と階堂は顔を見合す。

「ねえ、中田さん、土の捨場が、車で五分の所にあるとしたら、いくら位でできます?」

「五分?」中田は鷲鼻を摘んで麗子を見る。

「ちょっと待ってな、大体をはじいて見るから」電卓をポンポン押して

「大体だけどな。一千ぐらいは引けるかな」

 五千五百から一千引くと四千5百万円。

「宅地造成の山って、良い土が出るって聞いたけど」

「ああ、一メートルぐらい下に良い砂がある。見積り出すときに調べたから確かだ」

「それって、売れるんでしょう」

「そうさな、ダンプ一杯で二千円ぐらいが相場かな」

「売れば随分金になるんじゃないですか」

「わや言っちゃいかんよ。麗子ちゃん、そりゃなあ、一千六百杯全部が金になりゃ、捨場に困りはせんよ」

 中田土建の社長は素人はこれだから困ると笑う。

「せいぜい出ても百杯か二百杯ぐらいだね」

「お金にして三〇万から四〇万ぐらい」麗子は素早く計算する。

「よくいってね、百万もあれば、おんの字さ」

「ねえ、中田さん、車で五分で行けるとして、この仕事、四千万円で引き受けてくれません?」

 麗子は居住まいを正して、強い口調で言う。

「ところで、その場所は何処なの」

「T市役所の南側}

「ああ、飛行場の前島ね。で、誰が入っているの」

「伊能さんよ」

「ああ、議長さんか、成る程わかった」

「ねえ、お願い、引き受けて」麗子は頭を下げる。

「しかしなあ、みすみす赤字となる仕事はなあ、いくら麗子ちゃんの頼みでもなあ」

田中は頭を抱えて困惑気味だ。

「中田さん、小を捨てて大を取るって考えません?」

「どういう事?」

 麗子はここぞとばかりに熱を込める。

この仕事を引受けることで太平洋建設と縁ができる。飛行場建設は国家プロジェクトだから、けなして申し訳ないが、直接T市の業者には仕事は回ってこない。大手ゼネコンの下請けとして仕事がもらえる。

 「それに・・・」麗子は出かかる唾を呑み込む」

「階堂さん、代わって」バトンタッチをする。

 階堂は身を乗り出すと声を張り上げる。

大西洋建設支社は来年にも本格的にT市に進出する。T市のみならず、近隣の市町村等の公共事業に積極的に参入する。ここで中田土建さんに協力願えれば、今後のしごとについては、私共は重点的に回すことが出来る。

 中田は鋭い眼で階堂の口元を睨んでいる。彼の頭の中は目まぐるしく動いているに違いない。階堂の説明が終わる。中田はつっと立ち上がると、事務机の前に腰掛ける。電卓をポンポン押している。

「判った。引受けるわ」損のない話と踏んだようだ。

「麗子ちゃん、議長さんによろしくな。市の仕事、もっと回して欲しいもんでな」

 麗子はほっとした表情で笑う。

「伊能さんにはこの仕事、中田さんがやるって言ってあるの」細い目を大きく見開いて、茶目っ気たっぷりに笑う。

 一瞬、中田はあっけに取られたように、口をぽかんと開ける。

「麗子ちゃん、はめたな」中田は笑い出す。

「中田さんなら話に乗ってくれると信じてたの」

 中田はさも愉快そうに笑いこけている。

「おーい、おっかあ、お茶持ってきて」笑いが収まると。中田は奥に声をかける。

「ところで、麗子ちゃん、どうして大西洋建設さんと・・・」

 中田は二人を代わる代わる見る。

 麗子は今までの経緯を述べる。中田はそういう話には興味がないのか、階堂に向かって、一週間以内に見積書を持って、事務所に行くと伝える。階堂はよろしくと頭を下げる。その場はお開きとなる。

 中田土建の事務所を出て、県道を元来た方へ曲がろうとする。

「お茶でものんでいかない?」麗子の誘いに、階堂は応諾する。

「あそこに喫茶店があるでしょう」見ると左手、南の方百メートル程行った所に”喫茶山本"の看板が見える。階堂は腕時計を見る。十一時を少し回ったばかりだ。中田土建の話は意外に早く終わっている。

 喫茶店は十数台の車が駐車出来るほど広い。店舗の中も綺麗で広い。半年前に開店したばかりという。

コーヒーを飲みながら、階堂は麗子にお礼を言う。その上で、もし中田土建との話が不調に終わっていたらと尋ねる。

「その時はその時ね」麗子はクリープを入れながら、細い目を大きく見開いて、くすりと笑う。

「でもね、九分九厘、引き受けてもらえるという、自信はあったわよ」彼女の顔が真面目になる。

 その理由として、中田社長は利害関係に目ざとい。少々損でも、後に大きな利益が見込めると判ると、大胆な行動を取ることが出来る人。

「報じて言えば、先の読める人ってことね」

 中田社長は麗子の父と同年で、宮下家の山を削るときも工事を頼んでいる。もし、この仕事を引受けるだけの度量が無ければ、いくら親しくても頼みはしないという。

「これで一件落着ね」

麗子は階堂の彫りの深い顔を見る。テーブルに目を落とす。

これで胸を張って、課長に報告出来るよ」入社第一号の初手柄とばかりに、階堂は言う。

「階堂さん」麗子は階堂を見つめる。

「この仕事ね、二人の先輩に任せて上げて・・・」

 一瞬、階堂は耳を疑う。

「出る杭は打たれると言うわ。でもそれだけじゃないの」

 二人の先輩に花を持たせろと言いたいのだろう。これからの仕事の上で、色々と世話になるかもしれない。

 しかし・・・と階堂は麗子の慈しむような表情を見て心の中で抵抗する。T市に来て約半年間、当初は大野や山岡と連れ立って挨拶回りもしている。それも一ヶ月程だ。

 山岡とはアパートの同じ部屋に住んでいるが食事はバラバラで、山岡は自分勝手に外食している。幸いなことに階堂は宮下姉妹と知り合いになったことから、ほとんど毎日食事に呼ばれている。

 大野は山岡と連れっだて行動している。階堂は爪弾きにされた格好で、1人で行動している。何を今さら、二人の顔を立てねばならないのか・・・。

 それに来年早々には、課長以下、人員が数名程度に膨れ上がる。ここは課長の眼に止まったほうが出世が早いというものだ。

 階堂は、自分の気持ちを麗子に話す。たとえ、二人の先輩に花を持たせたところで、彼らは有難いという気持ちを抱かないだろう。むしろ上役に認められたほうが良い。

 麗子は階堂の話を黙って聞いている。

「あなたの気持ち、よく判るわ」彼女は呟くように言う。

「伊能さんの言ったこと、覚えている?」

 階堂の眼が宙を泳ぐ。何を聞いたか思い出そうとする。

「日を改めて、課長さんを連れていらっしゃいって言ったのよ」麗子は諭すように言う。

・・・そういえばそうだった・・・階堂は思い出す。

「階堂さん、あなたの仕事は、将来の飛行場建設の為に、人脈を作ることね」

 階堂は頷く。

「塚本住宅さんの宅地造成工事ね、二人の先輩に花をもたせたところで、結局はあなたが受注したって事ぐらい、上役の人は判るんじゃないかしら」

 麗子は微笑する。階堂を馬鹿にした表情ではない。子供扱いにしている風でもない。愛する人への思いにあふれている。

「一時間ちょっとの付き合いでったけど、伊能さんって人、解ったでしょう?」

 得体の知れない人、伊能にはそんな気持ちしか抱いていない。階堂はよく判らないという顔をする。

「塚本さんとこの仕事、先輩たちに任せるとね」

 麗子は噛んで含めるように言う。

麗子の策によって塚本住宅の仕事を得たとはいえ、それをあっさりと先輩たちに与えたとすると、伊能は階堂を見直すことになる。若いのに大した奴だと好感を持つ。それが伊能の評価の仕方なのだ。

 彼は市役所の幹部連中に顔が利く。飛行場に乗り入れるN電鉄の重役や社長とも懇意だ。それだけではない。財界にも顔が広い。W県出身の国会議員とも顔なじみときている。階堂は大物の素質があると見抜くや、必ずそれら産業界や経済界、政治家達に引きあわせてくれる。

「それじゃあ、もし、塚本さんの仕事、僕がとっていたら?」

 階堂は思わぬ話に眼が開かれる。

「それが普通の人間のやることでしょう。伊能さんだってそう取るわ。伊能さんとの付き合いはそれだけのことよ」

 階堂は宮下麗子の奥の深さに下を書かざるを得ない。改めて、もし自分が麗子の立場だったら、どうしたろうかと考える。

 塚本住宅の社長や、伊能、中田土建と親しい間柄であったとしても、塚本社長に紹介するだけだろう。自分のやり方が薄情という言うのではない。それしか案が浮かばないのだ。見積りの再提出は認めてくれるだろう。後は階堂が塚本社長の希望通りの見積りが出せるかどうかだ。

「僕はとても麗子さんには及ばないよ」階堂は心中を吐露する。 

 階堂は直情型の性格だ。竹を割ったような、表裏のない心根をしている。人間関係を上手く利用したり、悪い言い方をすれば、策を弄する用な事はできない。そう言った考えも浮かばないのだ。

 後々、表裏のない階堂だからこそ、六年もの間文通でお付き合いが出来たと麗子は告白している。

 階堂は麗子の意見に従う。

「もうすぐ昼よ。昼食、うちで食べていくわね」麗子は階堂を促す。

「純子が舞っているわ」そういう麗子の表情には寂しい陰りが見える。階堂はそれに気づかなかった。


 年が明けて、平成九年一月中旬。

大西洋建設T市出張所は、課長の常駐で、人員も階堂を含めて六名となる。塚本住宅の宅地造成が、T市での初仕事となる。地元の土建屋とも繋がりが出来て、課長も喜んでいる。幸先は良しと、事務所内も活気にあふれている。

 そんな中一月中旬、大激震がT市出張所を襲う。

 ――大西洋建設の本社の社長、副社長、総務部長が検察庁に逮捕される事件が起こったのだ――

 新聞やテレビの報道によると、株主総会に対して、総会屋に総会対策として、一千万円の金額を授与していたという。総務部長が手渡し、社長と副社長が関与していた。

 この事件は大西洋建設T市出張所のみならず、全国の支店、出張所に大きな波紋を拡げた。B市支社でも請負先や工事関係者から殺到する苦情や問い合わせに追われている。課長はB市支社につきっきりでT市出張所にはいない。

 階堂達社員は固唾を呑んで事件の進展を見守る。

 一週間後A県とB市が大西洋建設B市支社を、三ヶ月間の指名業者停止を公表した。これに倣うような処分が他の市町村からも相次いで出始める。

 T市はまだ大西洋建設を指名業者としていないので、沈黙を守っている。事務所の中で、大野や山岡、階堂達が顔を曇らせている。大野は昼間から酒の匂いを漂わせている。彼は誰彼に当たり散らす様に喚いていた。

 「本社の奴ら、俺達の苦労を判っているのか!」

 大野の怒りはもっともなのだ。

 階堂たちは飛行場建設という国家プロジェクトの受注に向けて、市や県の関係団体と接触を図っている。大西洋建設のような大手ゼネコンがT 市内に事務所を開設している。彼らは受注体制を築きあげようと必死な努力を続けているのだ。

 大西洋建設本社の不祥事は階堂達の努力を気泡にしかねない。事実、懇意に成りつつある市の職員、幹部連中の態度がよそよそしくなっている。階堂達を避ける風さえ感じられた。


 二月上旬、寒期厳しい中、階堂は宮下贈答店にいた。朝十時。寒風が吹き抜け、店外は立っているだけでも寒い。北海道の寒さと比較すると大したことはないが、風の強さには、さすがの階堂も閉口する。

 季節がら、贈答品の売れ行きが落ちている。暖房の効いた店の中で、階堂は浮かぬ顔をしている。

「姉は十一時頃帰ってくるから待ってね」

純子はコーヒーを勧める。麗子の大学卒業が間近い。今日は早朝から大学に出かけている。

 宮下姉妹は大西洋建設の事件を心配な表情で見ている。階堂達にも深刻な影響がある事を充分に承知している。純子は世間話で階堂の心を慰めようとしていた。そんな思いやりが階堂には嬉しいが、心は晴れない。

 純子のふくよかな表情を見ていても、彼女の話には興が乗らない。麗子の、内から輝くような美しさに接していた方が心が休まる。階堂は一刻も早く麗子が帰って来るのを祈るばかりだった。

 三日前「伊能さんに相談したい」麗子に持ちかけた。

麗子は即座に「駄目よ、そんな甘い人じゃないわ」階堂の申し出を一蹴する。

 麗子の説明はこうだ。

 伊能はそこらにごろごろいるような凡人には魅力を感じない。そんな輩が相談に行ったところで、適当にあしらわれるだけだ。その人の為に骨を折ってやろうという考えは伊能にはない。

伊能が役所に顔があるからといって、事態打開の相談にお伺いしても「この男は、これだけの器量だったのか」冷淡に扱われ、追い返されるのがオチだ。

「むしろね・・・」麗子は階堂を諌めるように言う。

伊能は階堂がこの窮地をどのように乗り切るか、見守っているという。

「私に任せて」麗子の暖かい心情に、階堂は子供のようにすがるのみだった。

 階堂の心は揺れている。宮下純子の美貌に惹きつけられている。行く行くは彼女と一緒になりたい。純子もそう思っているに違いない。

 階堂のそんな心の奥底、それとは裏腹に、麗子への思いが燃え上がっている。麗子の側に居るだけで、重いストレスが消えていくような、暖かい雰囲気に包まれるのだった。


 宮下純子はとりとめのない話をしている。階堂は時計ばかりを気にしている。

 十時四十五分頃「僕、駅まで迎えに行こうか」階堂は気が急く。早く麗子に会いたい。ここでじっとしているよりもという気持ちが強い。

「大丈夫よ。歩いて五分だから」

 純子はは階堂の心情を知らぬげに言う。階堂は黙って、浮かした腰を降ろす。純子の他愛無い話に付き合う。

 十一時頃、麗子が帰ってくる。

「すごい風よ。歩きにくくてねえ。顔がパリパリに凍っちゃって」

 頬を真っ赤にしながら店に入ってくる。石油ストーブに両手をかざす。

「純子、暖かいおしぼりないかしら」言いながら出されたコーヒーを、ふうふう言いながら飲む。

 ようやく一息ついて「階堂さん、待たせてごめんなさいね」

純子から、湯気の出るおしぼりを受け取ると、顔をおう。

「じゃ、行きましょうか」麗子は階堂を促して立ち上がる。

「絹川さんとこへ行って来るからね。昼めし、美味しいもの食べさせてよ」

「任せとき、いってらっしゃい」

 姉妹の息のあった掛け声に、階堂は促されるように外に出る。

「絹川さんって、塚本住宅の宅地造成地の大地主さん?」

 車中、階堂は助手席の麗子に尋ねる。

「そうよ。十一時頃に行くって言ってあるのよ」

 麗子の豊かな頬がバラ色に輝いている。細い眼が眠っているように、前方の車を見ている。

 絹川邸は宅地造成地の東側にある。今は山だが、宅地造成が進むと、幹線道路の県道沿いに位置するために、土地の価格が数倍に跳ね上がる。北側徒歩三分程の所にユニーT店がある。西側には歩いて五分ほどの場所にカーマがある。環境といい、交通の便といい、市内の一等地に位置している。

 塚本住宅も絹川も宅地造成によって、莫大な利益を得ることは間違いない。階堂は塚本社長の度のきつい眼鏡をかけた、風采の上がらぬ顔を思い浮かべる。

 絹川邸に到着。三年前に新築した屋敷は中二階の切妻である。建築面積は七〇坪。敷地が五百坪。県道から東に百メートル程入った所にある。建物は四メートル道路の北に位置し、南側の千坪に及ぶ敷地と、建物の北にある三千坪の田や畑を貸し付けている。西条地区だけで1万坪はあるという。多賀の伊能と肩を並べる大地主である。

 階堂は数回絹川と顔を合わせている。塚本住宅と契約後、造成地の関係者と言う事で、挨拶している。

 絹川は今年六六歳。小柄で眼が悪いのか、ビール瓶の底のようなぶ厚い眼鏡をかけている。髪も白く、足を引きずるようにして歩く。気さくな性格で、大西洋建設の課長、B市支社の支店長代理以下数名の挨拶も「天下の大西洋建設さんなら大丈夫だろうて、まっ、気張ってやってくれや」無造作に応ずるのみ。肩の張るような礼儀は嫌いと見える。

 抹茶を出す奥さんの「あんじょう、頼むんね」甲高い声で、

「さっ、やってやって」ご近所のお年寄りでも呼ぶような、気楽な応対をする。奥さんは小柄で小肥りだ。髪を短くしている。笑う時は腹の底から笑う。

 駐車場に車を停める。麗子は「ここで、ちょっと待っててね。奥さん呼んでくるから」

 絹川の奥さんの紹介で市長さんの奥さんに引きあわせてもらうことになっていると聞いて、階堂は眼を丸くする。麗子が何をしようとしているのか、興味はあるが、あえて聞こうとはしない。階堂は言われるままに、エンジンをかけたまま、運転席で待機する。

 数分して、麗子と絹川の奥さんが門を出てくる。中肉中背の麗子と比べて、彼女は子供のように小さい。麗子の肩までしかない。

 二人は後部座席に座り込む。

「まあまあ、大西洋も大変だねえ」

 絹川の奥さんは階堂に声をかける。

「すみません。いつもお世話になりっぱなしで」

階堂は振り向いて頭を下げる。

「麗子ちゃんの頼みだもの。聴かなくちゃあ。ねえ、麗子ちゃん」

「奥さん、恩にきます」麗子は笑いながら頭を下げる。

「じあ、市長さんのおうちに行きましょう。奥さんには連絡しといたから」


 後になって階堂は麗子から、市長の奥さんと絹川の奥さんとの関係を聞いている。

 茶道の普及会が小学校の南側にある公会堂で行われる。ここは市内を見下ろせる高台である。

 絹川夫人は自宅でろくろや電気炉を設置するほどの焼き物好きだ。知人の奥さん連中を誘っては抹茶茶碗を作っている。市長夫人も顔なじみで、趣味が高じて茶会さへ開くようになっている。

 宮下麗子も高校に入った時に誘われて茶会に出席している。茶道の作法の手ほどきを受けて、二、三年で裏千家の免許皆伝を取得する腕前となっている。

 市長夫人は特に茶会が好きで、同行の婦人たちを集めては頻繁に茶道の普及会を催している。

 四年前から、夫婦同伴で茶会を初めたのがきっかけで、毎年二月中旬の日曜日に茶会が催され、それが恒例となっている。当初出席者は同好の志のみだった。一年二年とたつにつれて、市の幹部職員、市会議員や市長の支持者が呼ばれるようになった。

 三月と四月は市の年度代わりのため、市役所の人事異動で多忙となる。暮れや正月は出席者が少なくなる。やむを得ず、季節的に一番寒い二月の茶会となる。

「絹川さんは、市長さんに顔が利くんですね」階堂はバックミラーから絹川の丸い顔を見て感心する。

「市長さんとこの土地、うちが貸しているの。それにね。うちの父ちゃん、市長さんの後援会の会長なの」

 絹川は甲高い声でにこりともせずに言う。

「そんな事よりも、大西洋さん、今度の事で上手く言ったら、麗子ちゃんにお礼せなあかんよ」

 絹川は釘を刺す。階堂は頷きながら、バックミラーから麗子を見る。彼女はニコニコして、絹川夫人を見ている。 


 市長宅に到着。玄関のドアを開けるなり「奥さん、上がるわよ」絹川夫人は大きな声で奥に声をかける。勝手に上がりこむと右手の応接室に入る。麗子と階堂がソファににかしこまると同時に奥のドアが開く。面長の上品そうな婦人が小走りに入ってくる。

「ごめんね。裕ちゃん、ちょっとバタバタしてたもんだから」髪をカールした、セーター服姿は若々しく見える。今年六一歳と聞いている。肌の艶が良い。

 裕ちゃん、と呼ばれた絹川夫人は「ごめんね。無理させちゃって」言いながら麗子と階堂を紹介する。

 市長夫人はソファに腰を下ろすなり、目の前のポットから湯を急須に注ぐ。お茶を入れると、三人に勧める。「麗子さん、お久しぶりね。お幾つになった?。二二歳、若いわあ」羨ましそうな顔をする。

「奥さん、麗子ちゃんとは何年ぶりなの?」

「四年ぶりかしらねえ。あなたまだ高校生だったものねえ」

 麗子は高校の時、茶会で絹川夫人と市長夫人と会っている。当時から麗子の感性の良さは評判になっていた。

「ねえ、奥さん、電話で話したけど、お願いできる?」

「私からも是非お願いします」麗子は市長夫人頭を下げる。

「いいわよ。その代わり、麗子さん、お手前、お願いするわよ」

「判りました」麗子は恭しく頭を下げる。

「階堂さんとか言ったわね。茶会に出席なさるけど、麗子さんのペンフレンドではいただけないわ」

 市長夫人は清々しい眼で階堂を見る。陰で市長を支えているだけあって、適切な配慮ができる人なのだろう。

「麗子さんの恋人で紹介するわ。いいわね」

「はい、私は麗子さんが好きですから、よろしく」

 階堂は彫りの深い顔で麗子を見る。彼女はぽっと赤くなって顔を伏せている。

 純子は好きだが、麗子の魅力はそれを凌駕している。付き合えば付き合う程奥の深い感受性が階堂を魅了していく。

 茶会での準備や出席者の人選などが市長夫人と絹川夫人との間で始まる。この人はどうかしら。この抹茶茶碗は茶会の席に合うかしら。二人は麗子の意見を求めている。総勢五十人くらいの出席者という。

 階堂は三人の女達のかしましい会話から取り残されて、お茶をすすっている。

・・・自分が茶会に出ることと、本社の不祥事の影響と、どういう関係があるんだろうか・・・

 階堂は紅潮した顔でしゃべりまくっている麗子を眺めている。今、彼は一抹の不安も抱いていない。麗子への信頼が愛情に変わりつつある事を、階堂は意識している。


 平成九年二月中旬の日曜日。朝九時半、階堂は正装姿で茶会の席に赴く。宮下麗子は茶会の準備のために早めに家を出ている。

 公民館は簡易式の入母屋の建物だ。高台の為に、青い海や遠方の山々などがよく見える。建物の北側は、谷を挟んで小学校が聳えている。南側の鬱蒼とした森の向こうに西条区の集会場がある。その東側に剣道が走り、その向かい側に塚本住宅の宅地造成地がある。

 アスファルト舗装の駐車場に車を停める。駐車場と建物の間には数百坪はあろうか、砂利を敷きしめた庭園があり、陶器型のテーブル丸椅子が点在している。

 十時開催の茶会に、三三五五、人が集まり始めている。ほとんどが夫婦連れのようで、男はみな正装、女は着物は外出用の洋服姿が目につく。

 建物の入口の自動扉を入る。正面は百帖敷の和室となっている。靴を脱ぎ、受付で名前を記入する。畳敷きの部屋は座布団が敷かれている。受付で名前を記入すると、和服の若い女性が席まで案内する。階堂は末席である。

 部屋の東西の壁を背にして、五〇人分の座布団が敷いてある。北の前の方は茶室となっている。大勢が楽しめる茶会としての機能を有しているようだ。セントラルヒーチングが完備していて、室内は暖かい。

 階堂は案内されるまま席に座る。

 ちらほらと席につく人々は、ほとんどがT市の名士なのだろう。階堂のような若者はほとんど居ない。役所の幹部職員も夫婦連れできている。彼らは階堂を見ると、驚いた顔をする。階堂は丁寧に頭を下げる。伊能夫婦も来ている。気さくな感じの奥さんは、階堂を見て軽く会釈をする。伊能は素知らぬ顔でどっかとあぐらを組む。

 一番前の席に市長夫婦が席を占める。それと対座するように伊能が座っている。市長夫婦の次が市の職員連中で、部長、課長と並んでい行く。伊能夫婦の隣が顔見知りの県会議員や市会議員が席を占めている。錚錚たる人物ばかりが顔を揃えている。

 市長夫人の発案で始まった茶会も市長の支持者を集めるための茶会となっている。同時に、市の幹部連中は茶会に招待されることで、将来の出世が約束されることを意味している。市の職員は大学出かどうかで、将来の出世に影響されるが、市長の機嫌を損ねると、冷や飯食いの境遇に甘んじることになる。

 十時になる。数人の艶やかな振り袖姿の若い女性が前方に居並ぶ。いずれも赤系統を下地とした着物に、白や紺系等の梅や桜等の絵柄を染め抜いた、きらびやかな装いである。

 前方の板の間に設けられた囲炉裏に四つの茶釜が用意されている。炭手前はすでに整っていて、赤い炭火が遠い目からでも見える。

「皆様、今日はお忙しい中、茶会にご出席いただきまして、真に有難うございます」市長夫人の挨拶が始まる。

「今日のお点前をして下さるお嬢さま方を紹介します」

市長夫人は朗々とした声で話す。会場の一人一人に眼を配りながらの、場馴れした口調だ。

 伊能の何列目か後に座を占めた絹川は窮屈そうに座っている。彼は市長夫人の話が早く終わらないかな、そんな表情で聞いている。

 市長夫人はお手前係の名前を呼ぶ。四人目に宮下麗子の名前が出る。

「ほう、麗子ちゃんがやるのか、こいつはいいわ」伊能が無遠慮な声を出す。

 四名全員の名前が呼ばれると、艶やかな着物姿の四人の女性が姿を現す。彼女達は板の間に居並ぶと深々と挨拶する。

「あっ・・・」階堂は和服姿の麗子を見て、思わず声を立てる。

 三人の女性が、左右に居並ぶ数人の和服姿と同じ赤系統なのに麗子一人だけが紺系統を下地として、白と桃色の八重咲きの桜の花を絹生振り袖に配している。帯は名古屋帯である。髪も後ろに束ねて、揉み上げの肌の白さが鮮やかだ。

 階堂は息を呑む。細い目や、やや小さめの鼻が気にならないほどに、服装がマッチしている。

・・・これが宮下麗子か・・・階堂は麗子の所作に眼を奪われる。

 数人の女性が客の前に落雁を配っている。四人の女性が茶釜の前で茶立に入る。最初に麗子のお点前で茶会が始まる。 

 麗子は茶立が終わると、すっと立ち上がる。抹茶茶碗の底を左手に、その縁を軽く右手で支える。滑るような足運びで、伊能の前に進む。伊能は居住まいを正す。茶碗を伊能の前に置く。一回二回と茶碗を回す。

 伊能と眼が合う。軽く会釈する。静かな動作の中にも、相手を圧倒するような毅然とした雰囲気が醸し出される。伊能は深々と頭を下げる。麗子は静かに立ち上がる。また元の位置に戻っていく。彼女は背筋をピント伸ばし、自然体としての何気ない動作のように見える。着物の着こなしも堂に入っている。

「議長さん、これからも議会の方、よろしく頼むんな」

 伊能が茶を満喫する前に、市長夫人から伊能の紹介がある。その後に市長の言葉が入る。

 伊能は眠たそうな顔で市長の言葉を聞き流している。落雁を口に入れ、その味を確かめてから、茶を口に運ぶ。

「さすが麗子ちゃんのお点前だわ」彼は誰彼に言い聞かせるともなく声を上げる。伊能はこの席に階堂が呼ばれた理由を悟っている。その上での発言であることを麗子は感じていた。

「お粗末でございました」麗子は改めて伊能に頭を下げる。

 二番目の女性が茶立を行う。その間、四人の女性の側に控える数人の女性の一人が伊能の飲み干した茶碗と落雁の器を取り下げる。

 市長にお茶が運ばれる。階堂はその女性の所作に注目する。茶会に列座する人達はT市を代表する実力者揃いである。晴れの舞台に、日頃鍛えた茶道の腕前を披露する絶好の機会である。彼女達もお点前に選ばれた事を誇りとしている。

 五〇名の視線が彼女達のお点前の一挙一動に注がれる。圧倒する室内の雰囲気だ。市長にお茶を運ぶ女性の頬は紅潮気味だ。作法を間違えないようにと緊張している。所作が硬くなっている。

 和服姿でお茶を手にして立ち上がる時は、どうしても前かがみになる。足腰に力を入れるために、猫背になる。体力を鍛えていないのか、踏ん張るように立ち上がる。

 茶を市長の前において、正座すると伏し目がちになる。階堂はこの時、初めて宮下麗子のすごさを知らされる。彼女は立ち上がるときも、腰を降ろすときも、実に自然体で、楽々とやっている。背筋は真っ直ぐで、毅然とした所作になっている。

 市長に茶を差し出す。一礼して目と目が合う。お点前の女性は微笑するが、市長という肩書に気押されているのだろうか、顔がこわばっている。笑ったつもりが泣き出しそうな表情になる。

 市長はごま塩頭の銀髪で、眼鏡をかけている。細長い顔で峰骨が突き出ている。彼はお茶を飲み干すと、黙って一礼するのみ。

 次に伊能さんの奥さん、次に市長夫人と、左右代わる代わるに茶が運ばれる。そのたびに市長夫人からの紹介と、市長の言葉が添えられる。

 麗子以外の三人の女性の所作も似たようなものである。日頃和服に馴染んでいないのか、立ち振舞がぎこちない。足腰の筋肉が弱いのか、摺り足も人形のようで、覚束ない。それだけに、誰に眼にも宮下麗子の立ち振舞いは際立って見える。

 茶会に招かれた客すべてが茶道に精通しているのではない。光栄に浴したものの、どうやってお茶を飲んだら良いのか、不安げに右左を見る人もいる。彼らは見よう見まねでお茶を飲み干す。中には飲んだ後、茶碗の底をひっくり返してみたり、しげしげと眺めたりする者もいる。

 階堂はここで使用される茶碗は、絹川夫人達、焼物愛好家が焼き上げた物ばかりだと知っている。逸品などある筈もないのに、これは名器だとばかりに押しいただく者もいる。  

 茶会も佳境に達すると、始めの緊張感が薄れてくる。あちらこちらからヒソヒソ話が漏れてくる。それでも市長夫人の紹介や市長の言葉が入ると、囁き声もやまる。

 末席の階堂は麗子の和服姿と、立ち振舞に心を奪われている。頭の中は麗子のことで一杯だ。彼女の機転で随分と助けられている。課長を伊能に紹介した時も、支社長の名の入った手土産を持っていくようにとの、麗子の助言が効いている。

 階堂の脳裡からは宮下純子の姿が薄れていく。美貌の妹ではあるが、知性と感性の高さにおいては遠く姉に及ばない。教養とても麗子は群を抜いた存在ののだ。

 市長夫人へのお点前は彼女のたっての願いで麗子が行っている。彼女は麗子の所作を皆の前で褒めちぎる。見方によっては他の三名をけなす行為だが、誰もがそうは思わない。それほどの実力が麗子には備わっている。十数人いる若い女性の晴れ姿の中で麗子は際立って冴えている。

・・・姉は特別な存在なの・・・宮下純子の言葉が鮮やかに蘇ってくる。


 階堂の番となる。宮下麗子のお点前が始まる。彼女の所作は水が流れる様に粛々としている。気後れした動作は微塵も感じられない。末席の階堂まで茶を運ぶ。五十人居並ぶお歴々の視線も、彼女には空気のようにしか感じないのだろうか。ふくよかな頬に微笑を浮かべたまま、微かに畳を摺る足音だけが響く。

 階堂の前に座る。お茶を差し出す。一礼して、階堂と眼が合う。

「・・・」階堂は胸の高まりを覚える。麗子の表情は何とも言えぬ静寂さを漂わせている。きっとしめた唇が、物言いたげに、わずかに開く。

 この時、階堂は麗子への愛を、はっきりと感じ取っていた。麗子は立ち上がり、元の席に戻る。

「階堂修二さん、大西洋建設T市出張所に勤務しております」市長夫人の紹介が始まる。

 階堂を見知っている人は黙って聞いている。見知らぬ者は「大西洋建設・・・」驚きの声を上げる。そんな会社の社員が何故招待されているのか、訝しげな表情をばかりだ。

「ご存知とは思いますが、大西洋建設の本社は揺れ動いております。でも彼のような下の者には関係のない事でございましょう」

 市長夫人の玲玲とした声が会場内に響き渡る。精悍とした空気を圧倒している。誰もが固唾を呑んでその声に注目している。

「階堂さんは宮下麗子さんの恋人ですわ」夫人の一声に、会場がどよめく。伊能国次郎だけが、眠たそうな顔で俯いている。

「皆さん、階堂さんをご贔屓にね」

 市長夫人はそれだけ言うと「あなた・・・」市長の発言を促す。

「今、家内が言うた通り、大西洋建設の上層部の不祥事は、階堂君達に関係の無い事だ。T市としては、このことで他の業者と差別しない」

 市長の声を聴き終わった時、階堂は今さらながらに麗子の深謀に感動する。これで市の職員達は階堂に対して無碍な扱いはできない。

 階堂は目頭が熱くなる。感極まってくる。

 落雁を口に入れると、ゆっくりとお茶を口に運ぶ。麗子の立てたお茶はほんのりと甘みがある。それが口の中に拡がる。階堂への思いが籠っている。階堂は竹を割ったような性格だが、思い詰めるタイプだ。彼の胸の内に、麗子への思いが一気に膨れ上がる。

 お茶を飲み干すと、末席の中央に進み出る。

「皆様、今日は真に有難うございました」

 張り裂けんばかりの声を上げる。彼の予期しない行動に、一同の眼が注がれる。麗子は眼を見張る。

 ガマガエルの様に這いつくばると、きっと顔を上げる。その眼は麗子に向けられる。

「この場をお借りして、宮下麗子さんに結婚を申し込みたいと存じます」階堂は胸の内の熱い思いを吐き出す。こんな告白は場違いである事は百も承知している。

 それでも階堂は、この場を借りて、ここでしか愛を告白する事はかなわぬと思ったのだ。矢も盾もたまらず彼は叫ぶ。

「麗子さん、お願いします」

 階堂の予想外の行動に、ざわついた会場内がシンとなる。彼の血を吐くような熱気が他を圧倒している。皆の眼は麗子に注がれる。

 彼女は突然の出来事に、一瞬たじろぐ。次に顔を赤くして恥じらいの表情を見せる。そこには二十歳を出たばかりの乙女の可憐な姿があった。

 が・・・、次の瞬間、宮下麗子は顔を上げると、泰然とした表情に微笑を浮かべる。

「階堂さんのお気持ち、喜んでお受けいたしますわ」凛とした口調で言う。

 その光景を見守る人々は声を呑んで、言葉を失っている。市長夫人も絹川の奥さんも突然の出来事に、ただ呆然とした顔をするのみ。

 数秒間の沈黙が流れる。階堂も麗子も化石の様に動かない。時間も止まってしまったような感じだ。空気さえ凝り固まって動かないように見える。

 突然パチパチと手を打つ音がする。みると伊能が拍手している。

「階堂君、ようやった、それでこそ男だ」

 伊能の拍手につられて、周囲からパチパチと手を打つ音がでる。それも段々と大きくなる。激しい拍手の嵐となる。

「麗子さん、よかったわね」市長夫人の感にむせぶ声がする。拍手が収まる頃、

「市長さん、仲人をお願いできますわな」伊能が間の抜けた用な声を出すが、有無をいわさぬ響きがある。

「議長さんの仰せとあらば、喜んで引き受けますわ」

 市長の声に、階堂は「よろしくお願いします」

大きな声で頭を下げるのだった。

                                    ――完―― 












  


 

 




































 





 

 



 この小説はフィクションです。登場する個人、個人、組織等は現実の個人、団体、組織とは一切関係ありません。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] かなり変換間違いが多かったです。話に集中しようとするたびに目に入るのでできれば直した方がよいかと思います。
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