1話目
三流剣士と六位の魔法使い
略して36です
「また、遅くまで起きてたんでしょ?」
薄暗い部屋。
シュゥッ、シュゥッ、と何度か発火石を擦り合わせる音がして蝋燭に火が点く。ぼんやりとした淡い光が宿屋の一室を照らしていく。
埃っぽい木棚、ひび割れた壁、低い天井、そして『黒い』髪の少女。朝露に濡れた『黒』は、ゆらゆらと揺れる蝋燭の光に照らされ、少女アウラの横顔を蠱惑的なものに仕立て上げていた。
窓の外は冷たい朝。深い闇。
アウラは、ベルトモンドの疲れた背中を、できる限り優しく揺すった。
「椅子で寝てたの?ベル」
「ん…、ぁあ、起きたのか? アウラ。眠れたかい」
「えぇ、おかげさまで。良く眠れたわ」
ベルトモンドは「それならよかった」と草臥れた笑みを浮かべた。
肘掛け椅子から立ち上がり、何度か眠そうに瞼を擦る。眠気の覚めきらない様子。質素な肘掛け椅子では満足に睡眠をとることもできなかったはずだ。アウラは「馬鹿ね」とため息を吐いた。
「一緒のベッドで寝ればいいじゃない」
「君と同じベッドの上で眠る訳にもいかないだろう。仮にも異性だ」
「わたしは気にしないわ」
「私が気にするんだ」
ベルトモンドは眉間にシワを寄せ、こめかみの辺りを長い中指で掻いた。彼が困った時にする仕草だ。
「でも、身体に悪いわ。寝てないんでしょ?なおさらよ」
「心配してくれるのは嬉しいが、私は」
「研究の続きをしなければならない…、もう聞き飽きたわ」
「そういうことだ」
ベルトモンドは苦笑混じりに言葉を濁すと、卓上に散らかった試験管や魔術本を片付け始めた。中にはクシャクシャになった不思議な文様が描かれた洋紙が混じっていた。全て失敗作であった。「ダメだったか…」残念そうに肩を落とす姿を横目に、アウラは何も言わず丈違いの大きな寝巻きを脱ぎ捨てていった。
外で風が吹き込んだのか、カタリカタリと古びた木製の扉が軋む。
扉をジッと見つめながら、アウラは鍋の水を温め始めた。
「…お茶、いれるわ」
「ん。あぁ、助かる」
「イネモの葉でいい?」
「砂糖を入れてくれ、甘いのが飲みたい」
「甘党ね、大人のくせに子供みたい」
アウラはクスクスと意地の悪い笑みを浮かべて、皮袋から深緑の茶葉を取り出した。
湯に浸すと鮮やかな黄緑になる、イモネの葉だ。
「糖分は脳にいい影響を与えるんだ。私は甘党なんかじゃない」ブツブツと言い訳気味に「甘党じゃない、うん。甘党なんかじゃないぞ…。イモネの葉にはね人をリラックスさせる効果があって…それが砂糖と相互作用を…」と終わりのない知識を並べて行く。そうして次の言い訳を思い付いたベルトモンドは、アウラの裸体を見て言葉を詰まらせることになった。
「っ、た、頼むから、服を着てくれ」
「…いい身体でしょ? 欲情した?」
「していないっ」
「してよ…」
「勘弁してくれ、アウラ」
「ねぇ、ベルトモンド…」
男の名を、優しくなぞるように言葉を紡ぐ。
一糸纏わぬ姿で、アウラはベルトモンドに近付く。
その身体は少女らしからぬ引き締められた体であった。筋肉の付き方で少女が戦士であることは容易に想像できるだろう。肌を這うように付いた大小、無数の切り傷も少女が戦いの中を潜り抜けてきた証明になる。特に背中の傷は酷く、肉が抉られ、完治していない刺傷があり、首筋から背中にかけて致命傷でもおかしくはない大きな傷跡が残っていた。
手負いの凶暴な獣を前にジリジリと追い詰められている小動物の気分だ。ベルトモンドは、アウラの傷ついた身体から見てはいけないものを見たようにパッと視線を外しながら、そんな感想を浮かべた。
ふいに鼻孔をくすぐる。柑橘系の甘酸っぱい匂いがした。イモネの茶葉の香りが欲を誘うように部屋中に漂う。
「イモネの葉には、発情効果もあるのよ?」
「確かにそういう成分もあるが、人体に影響ない程度の微量しか含まれt」
最後まで言い終わらない内に、半ば強引にベルトモンドは椅子に座らされた。
アウラは彼の膝に跨ると、ゆっくりとその身を預けた。「あたたかいわ」と甘い言葉がその薄桃色の唇から零れた。服の上から体をなぞり、首筋に細い指を這わせ、猫のように頬を舐め、舌で少しずつ濡らしていく。唇まで一つずつ口付けを落とし登っていく。「愛」を探るように。ろくに抵抗すら許されぬまま、少女らしい胸が押し付けられた。
ガタガタと立て付けの悪い扉が揺れ動いた。
アウラはそのまま顔を近付け、優しくほぐすように耳に噛み付いた。
「やめろっ!」と、ベルトモンドが声を荒げる瞬間であった。
「扉の外に三、四人。金属音がする、武装してるわ」
耳元で囁くような少し強張ったアウラの声音に、ベルトモンドは言葉を失った。少女の黒い瞳には、緊張の色が浮かんでいた。
「…こちらの気配を伺ってる」
「…追っ手かい?」
「分からない、…キスするわ」
アウラは演技ぶった表情でベルトモンドに向き直った。そっと目を閉じ、大切なものを労わるかのように髪を撫でた。手を添えて、ゆったりとした動作で唇を近づけていく。
傍目から見れば、恋人同士がキスを交わしている光景にしか見えなかった。愛を確かめ合うのに夢中で、「それ以外」のことは頭にない男女にしか…
キスのフリをする最中、ベルトモンドはアウラの身体越しに宿の扉を見つめた。耳を澄ましても風の音しか聞こえなかった。アウラの言葉では扉一枚隔てた向こうに追っ手が迫って来ているらしいが、ベルトモンド自身にはそれが感じられなかった。
だが、アウラは時々こういう気配に鋭い…。
不安げな少女の瞳を覗き、決断する。
渇いた口が開く。
その呪文は一瞬だ。
『捧げた花は愛だった
捧げた歌は愛だった
胸を突き刺すこの矢は
君からの愛なのかい』
「扉だっ、アロー!」
バチリと電流が走る。
青くほと走る。急速的に魔力エネルギーが収束し、熱と電気が副産物として吐き出される。焦げた匂いがすると、窓も開いていない部屋に風が吹き込んだ。微かに灯っていた蝋燭の火が、吹き込むはずのない風に吹き消され、音もなく光を失う。
それは魔法によって生み出された風。
後に残るのは暗闇。部屋は真っ暗になる。
空間が、魔法という異現象を感じ取り、拒絶しようと白い煙を上げる。
やがて、パチリと最後のピースを嵌めたように完成した。
それは矢の造形をしていた。
だが不可視であった。
風は人間が目にすることは出来ない。魔法で構築された風の矢『アロー』もまた、僅かに塵や埃がその輪郭を象るだけで直接目にすることは出来なかった。
矢は高速で放たれる。高速で放たれた魔法の矢は、古びた木製の扉をいとも容易く貫いた。
「ぐぅぁああっ!」
「おいっ、大丈夫かっ、何がっ」
「くそ、気付かれたっ」
野太い男の声が複数聞こえた。
アウラの言葉は正解だった。
追っ手の一人に『アロー』が命中したのだろう。悲鳴らしきものが聞こえた。
ベルトモンドはその声を敵と認識すると、暗闇の中、すぐに次の呪文を唱え始めた。
『遠い大地にいる
辺りは真っ暗だ
場所を知らせてくれ
ここにいると』
「目を閉じろっ、アウラっ」
「もう閉じてるっ!」
呪文を唱え終わるのと、扉の外にいる男達が強引に部屋に乗り込んで来るのは、ほぼ同時だった。
「フラッシュっ!」
眩しい光が炸裂した。部屋から溢れる閃光が男達の視界を奪う。強烈な閃光に男達はたたらを踏む。
その隙をアウラは逃さない。
野獣のごとく飛び上がり一人目を蹴り倒す。男の巨体が、倒れる。床に頭を強打し動かなくなる。
流れる動作で鍋を掴む。まだ『フラッシュ』の光に目を抑えて悶えている二人目に、沸きたての熱湯を浴びせた。
「あぢぃいっっ!?」
床でのたうち回る二人目の男。アウラはそいつの剣を奪い、全身の体重を掛けて刃を突き立てた。ぶすりと鈍い、肉を裂く生々しい音がした。悲鳴が重なる。鮮血が噴き出す。
「次ッ」息を整えぬまま顔を上げる。『アロー』を受けた手負いの三人目がいた。死を間近にした戦鬼の形相。既に武器を構えている。
アウラは素早く、突き立てた剣で防御の体勢を取ろうとし、
「ぁっ、っく」
剣が抜けない。床板か、男の肉か、予想以上に深く刺さって抜けない。
身を守るものがない。ゾワリと死の恐怖が這い上がる。
「アローっッ!!」
ベルトモンドの叫ぶ声。
声がしたと同時に、振り下ろされようとした斧は、男の腕ごと吹き飛んでいた。初発の三倍もの大きさの『アロー』が男の腕を貫いたのだ。右腕の先が丸ごと無くなっていた。
三人目の男は、まだ自分が何をされたのかもよく分からないまま、フラフラとそのまま二、三歩よろめき、呻き声と共に大量の血を撒き散らしながら廊下の方に倒れ伏した。
雷雨が通り過ぎたがごとく、シンシンとした静寂が訪れた。僅か数秒の出来事であった。
アウラは、呼吸を整えると、丁寧に男達の心臓に剣を突き立て息の根を止めていった。
「…ありがと、ベル」
「はぁはぁっ、はぁ、一人で、戦おうと、するんじゃない…」
ベルトモンドは額の汗を拭うと、乱れた呼吸を整えながら椅子に座り込んだ。
質素な宿部屋は、数刻の間に血生臭い地獄絵図に変わった。扉は無惨にも破壊され、奥の壁も二発目の『アロー』によって穴が空いていた。簡単に修復できる状態ではない。
くたびれたように悪態をつき、ベルトモンドは「この宿も使えないな」と溜息を零した。
「水浴びをしてこい、アウラ。返り血が酷い…」
「わかったわ」
「それが終わったら、早々にこの宿を出よう」
「イモネの葉をすり潰して香料にしてよ」
「そういうのを気にするのなら、あまり人を切るんじゃない」
ベルトモンドに、そう言い諭されるとアウラは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「それ、剣士に言う台詞?」
「君は三流だ」
「…ひどい」
アウラは不機嫌そうに頬を膨らませ、最後の男を刺した。
時刻は早朝にも関わらず、窓の外は宵闇のように暗い。
人工恒星アガナの光は届かない。