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カルチェは意を決した。
矢継ぎ早に、言いつける。
「僕は以前、恋人を錆びさせたことがある。喧嘩をしてしまって、彼女は僕に……いや、そんな言い訳はいいか。とにかく、僕は恋人を錆びさせた経験がある。僕には新しく恋人を迎えるなんてことは無理なんだ。君を錆び付かせてしまうわけにはいかない」
「存じております」
アンジュは淡々とした様子で言った。
呆けた様子で、カルチェが口を半開きにする。
「昨日村の方々から教えていただきました」
その言葉に、カルチェは愕然とした。
嫌われているとは思っていた。
けれど実際、遠まわしに疎まれている事実を確認してしまい、カルチェは心の奥が冷え切ってしまうのを感じた。
そりゃそうだよな、とカルチェは思う。
忘れ去るには、近すぎる過去の話だ。
村の女を一人、錆びさせてしまった罪は重い。
だが、アンジュはけれど、と続けた。
「私はあなたにすると決めた」
それにカルチェは苦笑をこぼした。
「それは僕が恋人を錆びさせた男だと知らなかったせいだろ。今ならその言葉を撤回しても、誰も文句を言いはしない」
「私が文句を言います。私が不満に思います。私は、あなたがいい」
静かな気迫。
感情の顕れない貌に、強い感情と決意が封じられているようだ。
カルチェは、ヒュッと息を呑んだ。
「どうして……僕なんだ?」
当然の疑問だった。
カルチェは自分自身、褒められるような容姿をしていると思っていない。
なのに、何故自分なのか。
アンジュの唇に微かな微笑が浮かんだのを、カルチェは確かに見た。
「どうしてでしょうね」
その言葉には、本当にわからない、というニュアンスが含まれていて、カルチェは戸惑う。
戸惑って、途方に暮れた。
どうすればこの指名を取り消せるのかと考えて、どうしてこの指名を取り消さなければいけないと思ったのか、と考えた。
そこを狙いすましたようにアンジュが切り込んできた。
「私がお嫌いですか? 私ではご不満ですか?」
「い、いや……」
無表情とはいえ、上目遣いに見られると胸にクる。
カルチェは、ウッと仰け反って、視線を右往左往させた。
何について躊躇っているのか、自分でも把握できていない。
「わ、わか――」
「旦那様」
カルチェの言葉を遮って、アンジュは、すっと立ち上がって、言った。
「そろそろ出勤のお時間です」
ハッとして壁掛け時計を見れば、確かにそろそろ家を出たほうがいい時間だった。
アンジュは台所へ引っ込み、小箱を両手にすぐ戻ってきた。
「旦那様、お弁当です」
「あ、あぁ。……ありがとう」
弁当箱はずっしりと重かった。
それを受け取って、何故かカルチェは居た堪れない気持ちになった。
「それから」
アンジュは言って、何かを取り出そうと背後を振り返った。
まだ何かあるのか、とカルチェは思って、それを覗き見る。
アンジュが取り出したのは螺子巻だった。
「これを」
カルチェのそれとは違う、薄紅色の意匠細かな螺子巻を、アンジュは両手を使って跪拝するかのように掲げ持ち、差し出した。
それを見たカルチェは、姿勢を正さざるを得ない。
これは、アンジュの命。
命を恋人へと差し出す、神聖な儀式なのだ。
カルチェはごくりと生唾を飲み下して、震える両手でその螺子巻を受け取った。
自分とそれと同じくらいの重さであるはずの螺子巻が、果てしなく重く感じられる。
これほどまでに重たいものだったか、とカルチェは思う。
「旦那様」
アンジュはこちらに背中を向けて、椅子に腰掛けた。
そして、長い黒髪を一纏めにして持ち上げる。
その意図を、カルチェは即座に理解した。
「……失礼」
螺子巻を片手で持ち直すと、アンジュの服に手を掛ける。
細く華奢な白い肌のうなじを、出来る限り意識しないように押さえ込むと、洋服のホックを外してファスナーを下ろす。
かちかちかち。
決して広くはない室内に、ファスナーを下ろす音だけがする。
そうして大きく開かれた白い背中に螺子が見える。
思わず眩暈がするほどの色香を感じて、カルチェは強く目を閉じた。
首を横に振るって雑念を散り飛ばし、螺子穴に螺子巻を取り付ける。
「回すよ」
カルチェが言った。
「ありがとうございます」
アンジュは言って、軽く頭を下げた。
コチコチコチ。
螺子が巻かれる音。
命を与える音だ。
アンジュは今、カルチェの手によって生を受けている。
その途方もない感覚に、カルチェは胸が苦しくなる。
爆発しそうな感情が腹の奥に淀んで、カルチェはただ無心に螺子を回した。
コチン。
螺子が巻き終わって、カルチェが螺子巻を取り外すと、アンジュが下げた頭を戻した。
カルチェはファスナーを閉め、ホックを止める。
するとこちらに向き直ったアンジュが、ゆっくり立ち上がった。
「旦那様の螺子も巻かせて頂きます」
その言葉にカルチェは頷いて、椅子に座ると上着を脱いだ。
少し冷たいアンジュの指先が背中に触れ、螺子巻きが宛がわれる。
「では、巻きます」
「頼む」
僅かな死の瞬間。
いつもその瞬間に怯えていた。
大きな死から、小さな死に逃れて、僅かな安堵を得ていた。
逃れようのない死の恐怖と不快感は、記憶に新しい。
しかし、酩酊感にも似た不如意の恐怖は、何処か甘かった。
それは自らが失われてしまうことがないと信じることで得られる、胎児の安らぎのようだ。
今、カルチェの螺子巻きを持つアンジュは、何があろうとも必ず螺子を巻いてくれる。
カルチェはその思いが死の感覚を遠ざけていることに気づく。
螺子が巻かれる規則的な音を聞きながら、カルチェは自分を生かしてくれる絶対者の存在に安堵し、力を抜いて身を任せていた。
*
ふと、思い出した。
それはお昼に、カルチェが螺旋を描くベルトコンベアーに乗って、アンジュが作ってくれた弁当に入ったタコさんウインナーを頬張っているときのことだった。
彼女も確か、不器用そうにお弁当を作ってくれた。
負けず嫌いの心配性。
強がりの泣き虫だった彼女。
素直ではなかったけど、彼女は確かにカルチェを愛してくれていた。
些細な言い争いが喧嘩に発展したときに、謝ってしまえばよかったのだ。
売り言葉に買い言葉で、カルチェは「螺子を巻いてほしくない」と言った彼女の螺子を巻かなかった。
海岸線で歌を歌う彼女の声が途絶え、カルチェがそこに駆けつけたときには、彼女はすでに錆びてしまっていた。
泣いた顔を見られないように覆い隠して、彼女は、死んでしまったのだ。
*
無駄に無難で気鬱だとカルチェは思った。
家路への足取りは重い。
昨日と変わらぬみんなの対応が、わざとらしく余所余所しく感じる。
それはきっと正解で、影では噂話を囀っているのだとカルチェは知っている。
「気にするな」と言ってくれたトドニスには悪いが、そういう問題ではない。
カルチェの仕事である、シャボン玉作りには重要な役割があった。
吹き出すときの息で、その人の望みがわかるのだという。
それを工場の屋根に集めて、計算する。
その係の人とカルチェは会ったことがない。
それが誰が目を通し、どのように利用するのかも知らない。
けれど重要なのは、このことを全ての従業員が知っていて、カルチェの仕事を妨げようと邪魔をする者がいないことだった。
何故なら、この仕事についたものは、シャボン玉を吹けないからだ。
カルチェの望みは、誰の元にも届かない。
ぼんやり歩いていたカルチェの足がピタリと止まる。
家に着いたのだ。
ため息を一つ吐きだす。
まだ遅くはない、とカルチェは思った。
今からでも関係を破棄すれば、また次の祝賀会でアンジュは別の男を選ぶことができる。
そうだ、それがいい。
カルチェはドアノブに手を掛けたまま、決意に胸を張った。
アンジュの言葉に流されるのは甘えだ。自分は罪に対する罰を受けなければいけない。
顔を上げたカルチェは、ノブを捻りながら、口を開いた。
そのまま、全ての動作を停止する。
ドアの先にアンジュがいる。
黒いドレスを身に纏ったアンジュは土下座の姿勢で身動き一つしなかった。
「……お、おい」
ようやくカルチェは声を出した。
「お帰りなさいませ、旦那様」
アンジュはそのままの姿勢で言い、さらに続けた。
「旦那様。旦那様の螺子巻を壊されてしまいました」
カルチェはその言葉を、口を開いたまま聞いた。
その口が、あんぐりとさらに大きく伸びる。
螺子巻が壊された。
つまり、カルチェの螺子はもう巻くことが出来ない。
巻かれなくなった螺子は、ただ錆びるだけ。
「コルスとポトムダという男たちが押し入り、私が持っていた旦那様の螺子巻を奪い、その場で破壊して去りました」
呻くような声をあげ、カルチェは天井を向いた。
道理で、二人が今日も休んでいたと思った。
思ったところでもう遅い。
「朝、僕の螺子はいつ巻いた?」
アンジュは土下座のまま返す。
「3刻の後半かと……」
約4刻と考えて、リミットは9刻。
今から2刻後のことだ。
今日のうちには止まってしまう計算になる。
カルチェはしばらく押し黙り、ふと我に返った。
「君の螺子を巻こう」
カルチェは椅子の前に移動した。
アンジュはまだ、土下座の格好をしている。
「おいで」
再びカルチェが言うと、アンジュは身を起こした。
椅子に腰掛け、頭を下げる。
カルチェは朝と同じように螺子を晒すと、螺子巻を取り付けて巻き始めた。
コチコチ、という音に混ざって、死に途絶えながら、アンジェは言葉を紡ぐ。
「旦那、様。私、を、お恨みにな、らないのです、か? 旦那様、の螺子巻を、私は、お守りで、きませんでした」
それを聞きながら、カルチェは目を閉じて、熱い吐息を中空へ移す。
「2人の男が相手なら、仕方ないだろう。君を怯えさせてしまった僕にこそ罪はある」
「旦那、様……」
コチコチ、コチコチ。
螺子巻の音色。
螺子を巻き終えると、カルチェはアンジュの手の中に、彼女の螺子巻を落とした。
「旦那様?」
無表情に微かな戸惑いが滲んだ。
カルチェは苦笑する。
「僕には過ぎた恋人だった。次の恋人には、幸せにしてもらってくれ」
カルチェはアンジュの頭を、軽く二度叩いた。
アンジュが振り返ったとき、その姿はもう、家の何処にも見当たらなかった。
*
「私の旦那様を、カルチェ様を見ませんでしたか?」
アンジュは駆けていた。
この島はさほど広くはない。
その上、いくつかの部族で土地を分割しているため、ナココ族が行ける場所はある程度限られている。
それなのに、カルチェは見つからない。
カルチェを見たという者もいない。
気ばかりが焦って、頭が混乱してしまう。
アンジュはまだ生まれたばかりなので、この島に対する知識が少ない。
知り合いと呼べるほどの人も作れていない。
アンジュは一人、カルチェを探して走っていた。
村ではすでにパーティが始まっている。
時刻はもう8刻の中ほどか。
早ければもうカルチェが止まっていてもおかしくない。
細い路地を走っていたアンジュは、大通りに出たところで立ち止まった。
そこに大柄な男がのそりと立っていた。
「おう、聞いたぜ。カルチェ探してるんだって?」
大男はトドニスだった。
トドニスは白い歯を見せて笑った。
「俺ァ、最初からそうじゃねぇかって思ってたんだ。オメェさんがアイツを選んだときからもう、ビビッと来てたよ。よく思い出してみろよ、オメェさんにはアイツと一緒に過ごした大事な場所があるんじゃねぇのか? そこにきっと、アイツはいるよ。俺も探してやっから、諦めんなよ」
胸をドンと叩いたトドニスの後ろに、村の人が集まっていた。
アンジュはそれに気づいて、少し驚く。
「わかったろ、オメェら! 草の根掻き分けてもカルチェを探し出せ!」
すぐさま息のいい声で「おう!」と返事が返り、三々五々に散っていく。
トドニスはそれを見届けると、決まりが悪そうに鼻の下を人差し指で擦った。
「アイツにはみんな世話になってるからな。みんな素直になれねんだよな、不器用だからよ。全部が全部、アイツが悪いってわけじゃないのはわかってても、思いつめた顔するアイツにどう接したらいいのか、みんなわかってなかったってだけなのさ」
トドニスの横顔は少し緩んでいる。
頬が行灯の明かりを受けて、赤く染まっていた。
「あ、あー……。まぁ、とりあえずアイツ見つけねぇとな。んじゃ行くわ」
トドニスは頭を掻いて、その場を後にした。
それを見送ったアンジュは、空を見上げる。
満天の星空が広がる、夜の海のような空。
煌きながら揺れていた。
アンジュはリサイクルされた女だった。
使えなくなった部品を交換し、生まれ変わった女。
そこにはきっと意味があるはずだと、アンジュは思う。
それが確かなことなら、この答えも確かなのかもしれない。
アンジュは胸のうちに浮かび上がる情景の元に走った。
――その記憶は最後の記憶。
――彼の背中と満天の星空。
――私の歌声と静寂の水面。
そこにカルチェは、いた。
海岸線から突き出した丘の上。
潮風がキツく、島の人間は滅多に海岸沿いには来ない。
カルチェはそんな寂れた丘の上で一人、ぼんやりと海を眺めていた。
音を立てないようにそっと、アンジュはその隣に腰掛けた。
「……ここで」
しばらくして、カルチェはそう切り出した。
「ここで彼女は死んだ」
その記憶はアンジュの中に、微かに残っている。
アンジュの前の体はきっと、カルチェの前の恋人だったのだろう。
その事実に何故か、胸がざらつく。
自分が一番じゃないことへの、僅かな不快感。
「彼女は止まってしまう瞬間、何を思ってたんだろうって。そう思ってここに来てみたけど、ははは、何にもわからないよ」
膝を抱えたカルチェは、まるで子供のように見える。
アンジュにはかける言葉が見つけられない。
「……わからないんだよ。僕がこうして生きていることに何の意味があるのか。誰も、何も言ってくれない。生きろとも死ねとも言わない。僕はずっと、あの日からずっと、宙ぶらりんなままだった。でもようやく答えは返ってきた」
その答えが何であったのか、アンジュは知っている。
アンジュの目の前で壊された螺子巻は、カルチェに死を願う気持ちに満ちていた。
アンジュは口を開いた。
「私は知ってます」
カルチェは聞かない。
ただ、その視線だけを向けてくる。
「私は、最後に彼女が何と思っていたのか、知っています」
カルチェはそれを聞こうとはしなかった。
アンジュもまた、それを言おうとは思わなかった。
海が波打つ音が、足元から這い上がってくる。
遠くから届く喧騒は、微かに切なさを呼び起こす。
カルチェとアンジュは隣り合って座りながら、静かに海が蠢く様を見ていた。
星は柔らかな光を地表に注ぎ、人々は生を謳歌し、喜びと願いを空に返す。
二人の間に言葉はなかったが、そこに満ちる空気は安らかなものだった。
お互いがお互いを必要とし合い、心を許したからこと生まれる穏やかな時間。
このまま、時が止まってしまえばいい……。
けれど、アンジュは知っている。
カルチェも知っている。
カルチェは死んでしまう。
カルチェは止まり、そしてもう動き出すことはない。
それは刻一刻と迫っている。
足が草を噛む音が、背後にする。
一人のものではない。
けれどその主が声を出すことはなかった。
ひそり、ひそりと気配は増えていく。
アンジェはそれを振り返りはしなかったし、カルチェも同じだった。
奇妙な静寂が降りる。
それはまるで、夕暮れ時、迷子になった子供が心細さに立ち止まったときのような静けさだった。
泣き出す前の停滞。
言葉にすることさえおこがましい、凛とした空気が満ちて、夜の帳を揺らしている。
カルチェが伸ばした手を、アンジュは柔らかく迎えた。
明かりの遠いこの場所で、手のひらだけが暖かい。
アンジュは心の中の一番大切な部分が溶けて、流れ出してしまいそうな感覚を覚えた。
けれどそれはきっと、止める必要のないことだと思った。
大事なものは消えない。
忘れなければ、それできっと報われる。
他の誰もが忘れても、自分だけは覚えてる。
カルチェが空を見上げた。
それに習って、アンジュも見上げる。
視界いっぱいの無数の星が、今にも落ちてきそうに煌いている。
「リチェ……」
手のひらが、きゅっと握り締められる。
「ありがとう、アンジュ」
それきり、カルチェは二度と喋らないし、動かなくなってしまった。
カルチェは死んでしまった。
肌寒さを覚えて、アンジュは急速に意識が戻るのを感じた。
繋がった手のひらは冷たい。
背後からすすり泣く声が聞こえてくる。
長い間、この場所にいた気がする。
体を動かすのが、ひどく辛い。
アンジュはゆっくりと立ち上がった。
伝えたい言葉はたくさんあったけれど、今は何故かひどく満ち足りていた。
アンジュは目の縁を拭って、カルチェの目の前に立った。
視界には多くの人がいた。
驚くほど多くの人が、カルチェのために泣いていた。
嘘つき、とアンジュは心の中で呟いた。
こんなにカルチェは愛されていたと、教えてあげたい。
カルチェが苦しんでいたことは、無駄ではなかった。
アンジュはそっと、カルチェの両頬に指を沿わせた。
接吻は蘇生。
そんな奇跡はありえないけれど。
私はあなたを待ってるから。
目尻から流れた雫が、カルチェの頬を伝って落ちた。