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機械工場の仕事には多種多様な種類がある。
それは例えば、工場長の椅子を暖める仕事だとか、ベルトコンベアーを動かす仕事だとか、機械に油を差す仕事だとか、工場内に風船を浮かべる仕事だとか、部品を眺める人の汗を拭く仕事だとか、そういったものだった。
そしてカルチェの仕事は、機械工場で働く従業員、一人一人の元に赴いて、シャボン玉を作ってもらうことである。
カルチェは黄緑色した風船がまた一つ、ぷかりと浮かんで工場の屋根目掛けて一直線に飛んでいく光景を見ながら、鋼色の丸い塊を熱心に磨く男のところに歩いていた。
「トドニス、調子はどうだい」
カルチェがそう言って声を掛けると、分厚い筋肉を動かすことを止めたトドニスはこちらを振り返った。
長時間動かし続けた体が発した熱が、トドニスの体からもくもくと立ち上っている。
トドニスは村一番の怪力で、それを見込まれて塊磨きの仕事を任されていた。
「おう、カルチェじゃあねぇか。なんだ、シャボン玉か? 今日は随分とはええじゃねぇか」
不思議そうなトドニスに、カルチェが苦笑を返す。
「今日はコルスとポトムダが休んだんだ。あいつら恋人いないから、きっと昨日の晩に螺子を巻き忘れたんだろ。仕事が終わったら見に行ってやれって、工場長に言われたよ。それもあってちょっと急いでる」
それを聞いてトドニスは大きく頷いた。
「だから早く恋人を見つけろと言ってやってたのに、ポトムダなんか、この間も止まってたじゃねぇか」
トドニスはカルチェの手からストローと石鹸水を受け取って、ぷうと噴き出した。
大小様々なシャボン玉が、虹彩を丸く描きながら浮かび上がっていくのを二人は見つめる。
周囲は作業をする人々で騒々しいが、今この場所だけは静寂を尊ぶ沈黙が支配していた。
「……昨日、新しい部品が届いたの知ってっか?」
トドニスが声を潜めていった。
「……いつもの連絡船より大きいと思ったけど、それでか」
自然、カルチェの声も小さくなる。
トドニスは厳しい強面に苦悩の縦皺を刻んで、続けた。
「それで、今日はそれを使って女を作ってるらしいぜ。きっと今日の夜は祝賀会がある。オメェも恋人がいないんだろ、そろそろ意地張ってねぇで参加しろよ」
それにはカルチェも眉を顰めざるを得なかった。
「別に意地張ってるわけじゃないよ」
「あぁ、もうわかったわかった。とりあえず仕事終わったら、すぐあいつらの螺子巻に行ってやれよ。祝賀会に遅れちまったら、あいつらも相当ショック受けるだろぅからな」
その光景を思い浮かべて、口の中に苦いものが混じった。
まるで気にしてない様子のトドニスは、もう一度ストローの先を石鹸水に浸し、シャボン玉を生み出した。
きらきらと輝きながら上空へ登っていくその姿を見つめ、トドニスはカルチェにつき返した。
「早く行け。とっとと回らないと、今日のノルマが終わらないぞ」
はっ、として見れば、もうトドニスは汚れた雑巾を取って、鋼の塊を磨き始めている。
カルチェは軽く頭を下げて、早足で歩き出した。
トドニスはすでに恋人持ちだ。
新しい女が生まれたときに催される祝賀会は、島を挙げてのパーティとなる。トドニスは4回前の祝賀会で恋人を作った。
恋人のいないナココ族は一人前と認められてなかった。
いつ死んでしまうかわからない人間を、機械工場の重要な仕事につかせられるわけがない。
恋人を作らなければ螺子巻を忘れることもできない、という圧迫感と重圧はなかなか苦しいものがある。
そしてその場合、何人か仲のいい人を作っておかなければいけない、ということもあった。
恋人がいない以上、もし螺子巻を忘れて動かなくなってしまったなら、それを助けてくれる知り合いが必ず必要になるからだ。
人付き合いが悪ければ、もしそうなったときに助けてくれる恋人も知り合いもいない、という状況に陥ってしまう。
そうして体が錆付いてしまえば、もはや動くことは叶わなくなる。
この世界は残酷だ。
死んでしまったと判断されれば、すぐさま機械工場に運ばれて、バラバラにされてしまう。
新しい体になったとしても、それは最早自分ですらない。
全く新しい、別の誰か、なのだ。
カルチェは考え事をしながら、それでも着々とシャボン玉を作ってもらう仕事をこなした。
*
その放送を聞いたのは、途切れた二人の螺子を巻き終えて、ようやく一息ついたときのことだった。
動き始めた二人に、トドニスが言っていた話を聞かせた。
すると、途端にお礼も漫ろになって、二人は慌てて衣装を選び始める。
さほど祝賀会に興味のないカルチェは、その様子を見てすぐさま家を辞すと、自宅に帰る道を辿っていた。
ぼんやりしながら考え事をして、暗くなり始めた空を眺めているときに、島に一つしかない巨大スピーカーから音が漏れた。
ブッ、
と音が鳴り、サーという接続音が響き始める。
放送が始まる。
全ての村人が手を止め、スピーカーのある方角へ向かって耳を澄ませた。
何者かがマイクの前で息を吸う気配がする。
この放送を流している人が誰なのか、村人は誰も知らない。
スピーカーがある場所を知っていても、それを誰が、何処から流しているのか。
それを把握している人物は、誰一人として存在していないのだった。
「皆さんこんばんは、放送係です。本日、8の刻より祝賀会を行います。参加される方は時刻までに広場櫓前にお集まりください。……繰り返します――」
同じ内容がスピーカーから吐き出された後、スピーカーは沈黙した。
皆薄々とわかっていたようで、喜ぶ者と特に気にしない者は半々といった割合だった。
喜ぶ者は恋人がいない人で、気にしないものは恋人はいないが気にしない者か、すでに恋人がいる人だろう。
特に、すでに恋人がいる人間に限って言えば、喜ぶ様子を見せただけで恋人に螺子を巻いてもらえなくなる可能性も存在するのだった。
1日は10の刻に分かれており、2刻と9刻は寝る準備と起きる準備の時間だ。そして1刻と10刻には皆眠らなければいけないことになっている。
万が一目を覚ましてしまっても、家から出ることは硬く禁じられているのだ。
残りの6刻はそれぞれ、朝昼夕に分けられ、さらに前と後に細分化される。
今日は早めに仕事を終わらせたので、今はまだ6刻の時分である。
家でゆっくりとしていても、十分祝賀会には間に合うだろう。
そう考えてカルチェが踵を返すと、同時に機械工場の黒い煙突から、キノコの形をした白煙が上がった。
どうやら本日の仕事が終わったらしい。
7の刻の合図である。
もうしばらくすれば仕事から解放された人々でこの辺りも賑わいを見せるだろう。
カルチェは足早に家路を急いだ。
*
家に着いたカルチェは帰るなり、すぐに戸棚の鍵を外すと中から螺子巻を取り出した。
それはカルチェの螺子巻だった。
カルチェは上着を脱ぐと、すぐに背中の螺子に螺子巻を取り付ける。
自由にならない両手を苦労して背中に回し、力を込めて素早く螺子を巻いた。
視界が明滅するような不快感がカルチェを襲った。
螺子を回すときは、素早く回さなければならない。
螺子を回す瞬間には、一瞬とはいえ螺子が静止し、自分が死んでしまう時間が存在する。
それに対する圧倒的な恐怖と不快感は、決して拭うことが出来ない。
それでもカルチェは思う。
たった一瞬の恐怖より、永遠の死のほうが遥かに恐ろしい、と。
生まれ変わるなんて、夢物語だ。
所詮、生まれ変わった後の自分は、今の自分ではない。
それは死と同じことだ。
自分が自分でなくなってしまうことに、カルチェは耐えることなどできない。
例え一瞬の死を多く積み重ねようとも、永続的な死を遠ざけるほうが、よほどいい。
だから、カルチェは螺子を巻く。
過剰なまでに、螺子を巻く。
止まらないように。
錆付かないように。
死なないように。
螺子を巻く。
螺子を巻き忘れるなど、カルチェの感覚からすれば、よほどありえないことなのだった。
回し終えた螺子巻を外し、カルチェは大きく息を吐いた。
これで、またしばらく生きられる。
カルチェは上着を羽織りなおし、椅子の上で蹲った。
テーブルに置かれた小瓶を、両手で包み込むようにして持って、祝賀会が開催される前にされるであろう再放送を、じっと待った。