表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

図書館には声がない

作者: アンカラ
掲載日:2026/01/24

 

 祖父母の家の洗面所は、少しだけ天井が低い。

 背が伸び始めた僕には、なんとなく窮屈に感じられる空間だった。


 

 母がいなくなってから、もう何年も経つ。交通事故だった、と聞かされたのはずっと後のことだ。

 まだ幼かった僕にとって、母はある日突然帰ってこなくなった人でしかなかった。    

 父親についての記憶は、最初からほとんどない。僕の周りの人たちは、一度も悪くは言わなかったが、名前を口にするようなこともなかった。


 それから僕は、祖父母に引き取られた。

 二人は優しかった。少し過剰なくらいに。何をしても怒鳴られるということはなく、テストの点が悪くても、学校で多少問題を起こしても、「そういう時期だから」と流した。その態度が、僕にはかえって息苦しかった。


 中学一年生になって、僕は反抗期というものに突入したらしい。保健の教科書にはそう書いてあった。自分でも、理由もなく苛立つことが増えたと思う。祖父がテレビの音量を上げたとき、祖母が同じ話を何度か繰り返すとき、胸の奥に苛立ちが溜まっていく。

 

 けれど、祖父母は日に日に小さくなっていく。前よりも背中が丸まり、歩く速度が遅くなり、声も弱弱しくなった。

 僕に両親がいないことを、二人は一度も不幸だと言わなかった。ただ、当たり前のように僕を受け入れ、育ててくれた。



 八つ当たりなんて、できるはずもなかった。



 その代わり、僕は家の外に出る。

 

 近所には、野良猫が多い。過疎化が進むこの辺りは、空き地や古い家屋が点在していて、猫たちはその隙間を縫うように生きていた。

 僕は放課後になると、決まってそのあたりを歩き回って、猫たちに声をかける。ごくたまに、餌をやることもあった。

 特に、親のいない子猫を見ると、胸の奥がチクリと痛む。彼らは人に媚びることも、助けを求めることもなく、ただ必死に生き延びようとしている。痩せた背中、警戒心の強い目。彼らのその姿が、どうしても他人事には思えなかった。


 

 

 

 ある日、見慣れない猫を見つけた。灰色の毛並みで、右耳が少し欠けている。呼び止めると、一瞬こちらを振り返り、それから茂みの奥へと逃げ込んだ。


 「待てよ」


 思わず追いかけてしまったのが、始まりだった。

 

 茂みを抜けると、そこには建物があった。猫の姿はない、見失ってしまった。仕方ないので、建物に目を向ける。


 区の公民館ほどの大きさで、どっしりした構えをしている。外壁はツタに覆われており、長い間使われていなかったことが一目でわかった。正面には木製の両開きの扉。その上に、これまた木製の看板が掲げられている。しかし、その看板もツタで一部が隠れており、はっきりとは読めない。

 「図書館」という三文字だけは確認できた。


 市立図書館は、数年前に新しく建て替えられた。

 白を基調にした、やけに立派な建物だ。何やらこの市出身の有名な建築家が設計したらしい。建築家の名前は忘れてしまったが、祖父が新聞を見てそう言っていたのを何となく覚えている。

 それに合わせて、書架と分館の整理も行われたという話も聞いた。


 たぶん、この古めかしい建物は廃止された分館か何かだろう、と勝手に納得した。


 そう思うと、急にこの建物が現実的なものに見えてきた。長らく使われていない、取り残された場所。少し不気味だが、同時にひどく惹かれる。


 

 好奇心が勝った。



 木のドアは、きぃ、と小さな音を立てて、思ったよりも軽く開いた。


 もしかしてまだ使われているのか? と思ったが、どっちにしろ市民である自分は入っても問題はないはずだ。

 

 一息吐いて、中へと入る。


 中は、少し埃っぽい匂いがした。吹き抜けになっていて、一階から二階までを見渡せる。壁一面が本棚で、入口からまっすぐ進んだ突き当りに二階へと上がる階段がのびている。二階にも同じように本棚が並び、壁に沿ってぐるりと一周廊下が張り巡らされていた。


 机や椅子は、置いていなかった。


 だいぶ古いデザインのように思える。

 まるでファンタジーの世界に出てくる図書館みたいだ。


 とりあえず階段を昇って二階に上がり、廊下を一周して一階へと戻ってきた。特におかしな点はない。


 次は、本棚の本がどんなものか、少し見てみることにした。

 本棚はぎっちりと本が詰まっているという感じではなく、多少の空白が目立つ。やっぱり、もう使われていない分館かなんかだろうと思う。だとしたら、だいぶ無責任だ。


 入口近く、右側の本棚をざっと見てみるが、伝記なのか、作家の全集なのか、知らない人名がタイトルの本が並んでいるばかりだった。


 もしかしたら有名人なのかもしれないが、僕はあまり人の名前を覚えるのは得意ではない。

 

 もともと人見知り気味だったが、祖父母宅への引っ越しに伴い、急な転校をした。新しい学校には上手く馴染めず、仲良く話すような友だちもいない。だから、たぶん僕の「人の名前を覚える機能」は退化してしまったのだと思う。

 

 新学年になってクラス替えが行われたら、話しかけてくれる優しいクラスメイトもいる。けど、二度目に話しかけてくれるとき、そいつの名前は、思い出せない。だから、適当な相槌と愛想笑いでごまかす。

 そんなコミュニケーションが長続きするはずもなく、しばらくしたら、やっぱり一人なのだ。


 そんなわけで、並んだ知らない本たちにはたいして興味を持てない。

 ただ、順番に名前を見るともなしに見る。


 つまらないし、帰ろうか、と思ったときだった。


 視線が、ある一点で止まった。




 そこにあったのは、母の名前だった。




 数少ない、見慣れたはずの、その文字列。祖母が仏壇に向かって呟くときの音。

 それが目の前にあった。

 同姓同名だろうか、

 いや、母の名前はかなり珍しい。

 



 息が詰まる。



 なぜ、ここに。



 本を引き抜く。

 表紙にも、背表紙にも、確かに母の名前が書かれている。

 震える手でページをめくった。



 それは、年表だった。


 右から左に進むにつれて、情報が新しくなっている。

 

 1ページ目には「誕生」の一語と、赤ん坊の写真が載っていた。そこから2ページ目に映るまでには、様々な「初めて」が書かれている。初めての抱っこ、初めての食事、初めてのお風呂…。たくさんの項目と、写真が添えられている。

 

 3ページ目に移ると、最初に「1歳」と書かれ、ろうそくが一本立ったケーキを前に、目を輝かせている子どもが写っていた。どうやら見開き1ページで1年らしい。


 そこから、1ページ、また1ページと読み進めていった。どんどんと時間が過ぎていく。13歳だろうページには、ひっかき傷だらけで笑う少女と、猫の写真があった。

 どうやら猫を飼い始めたらしい。


 高校、社会人と年表は進んでいく。

 読み進めるうちに、知らない子供だった母が、だんだんと、記憶の中の面影を帯びてくる。


 43ページ目に、とうとうそれは現れた。



 「出産」

 


 母と一緒にそこに写っていたのは、紛れもなく僕だった。

 


 すぐ近くに「離婚」とあるのは何だか微妙な気分だが、僕を腕に抱いた母は、満面の笑みを浮かべている。


 さらに読み進める。

 そして、最後のページ。



 「交通事故で死亡。享年27歳」




 そこで、この本は終わっていた。





 もしかしたら、という思いはあった。


 祖父母の話は嘘で、実はまだ母は生きているのではないか、


 そう信じたい気持ちはゼロじゃなかった。

 二人を疑うわけではなかったが、僕はこの本を開き、読み進めたとき、

 少しだけ、期待したのだ。


 さっきまで本へと向けていた視線が、足元へと落ちた。


 戻して帰ろう、そう思い、本を閉じた瞬間、後ろで声がした。






 

 「一体、どうやって入った」


 

 慌てて振り向いた。

 そこには、もうすぐ夏だというのに真っ黒のコートを着た男が立っていた。

 顔は見えない。黒い靄のようなもので覆われている。


 「ここは本来、人間が入っていい場所ではない」


 平坦な声だった。怒るようでも、咎めるようでもない。無機質で静かな声。

 だが、今の僕には、それが何よりも恐ろしく感じた。


 「気づいたら、ここにいました」


 とりあえず、返事をしてみる。


 「どうして中にまで入ってきた。引き返すこともできたはずだ」


 「それは……」


 正論だ。

 何も言い返せず、言葉に詰まる。

 

 というかそんなに入れたくないなら鍵でもかけといてほしい、と思ったが、さすがに口には出せない。


 「本まで読まれた以上、帰すわけにはいかない」


 そう告げた瞬間、男の姿は煙のように消えた。


 


 僕は大急ぎで入口から外へ出た。


 

 だがおかしい。入ってきたはずの道が見当たらない。

 さらに茂み全体には鋭い棘が生え、段々と空の色が暗くなっていく。


 どうしよう、と途方に暮れたそのとき、






 ニャーン





 まるで場にそぐわないのんきな鳴き声が聞こえてきた。

 灰色の毛並みに欠けた右耳。

 間違いない、

 あの時の猫だ。



 猫はこちらをちらりと見ると、さっきまではなかったはずの茂みの穴へと入っていく。



 僕は、必死になって猫の後を追った。



 走って、走って、走って




 気づけば、僕はもといた道に飛び出していた。


 


 


 夕日が、街を赤く染めている。


 猫は、こちらを見て座っている。


 ニャーと、また一声鳴く。


 近づいてみたが、とくに逃げ出す様子はない。

 僕は、その猫を抱き上げた。






 家に帰ると、心配そうな顔の祖母が出てきた。


 「どこ行ってたの?」


 僕は答えず、腕の中の猫を差し出す。


 「この猫、飼ってもいい?」


 祖母は驚き、あら、とつぶやいて、笑った。


 「お母さんと一緒ね」


 祖母はそう言って、母の話を始める。


 「あの子も同じくらいの年のときに、野良猫を拾ってきたのよ」


 そこから祖母は珍しく饒舌に母の思い出について語り始めた。


 その内容は、さっき読んだものとそっくり一致する。

 

 やっぱりそうなんだ、と思いながら僕はなぜだか急に泣きそうになった。

 その様子を勘違いしたのか、祖母があわてて話を止める。


 「ごめんなさい」


 謝ってきたけど、僕はそんなこと気にしてなかった。


 「もっと聞かせて」


 そう言うと、祖母は少し驚き、にっこりと笑った。


 「いくらでも」


 


 その夜、僕は、祖母からたくさん母親の話を聞いた。

 初めて抱っこしたときのこと、バースデーケーキにろうそくをさすと大喜びしていたこと。

 

 その内容はやはり本で見たものと一致する。だが、それでも違った。


 内容は同じでも、その語りには大きく差がある。


 あの本は、ただ情報を記していただけだった。

 どこか無機質で平坦な雰囲気をまとっていた、黒コートの男のように。


 だけど祖母の話はもっと、温かさをもってしみ込んでくる。

 

 聞いているだけで、不思議と安心していた。


 気づけば、足元に猫が丸まっており、ぽかぽかと温かい。


 

 いつのまにか、僕はぐっすりと眠りに落ちていた。






 



 それに気づいた祖母が、ブランケットを彼にかけ、優しく頭を撫でた。

 そんな二人を見て、猫がまたニャーと一声鳴いた。



 世話が焼ける、そう言っているようだった。


よければ、評価・感想よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ