第八章 歌は、誰のために在るのか
朝の神殿は、音が少ない。
鐘も鳴らさず、祈りの声も抑えられている。ここでは、静けさそのものが秩序だった。
カノンは小さな控室で、与えられた装束に袖を通していた。
まだ正式な神凪のものではない。だが、布は柔らかく、白に近い淡色で、歌う者の動きを妨げないように仕立てられている。
「……歌のため、ですよね」
誰にともなく呟く。
鏡に映る自分は、村で浜辺に立っていた頃とは違って見えた。髪は整えられ、首元には簡素な護符が下げられている。
その護符を、カノンはそっと指でなぞった。
⸻
神殿の小礼拝堂。
神官が数名、半円状に並び、中央に空間が設けられていた。王子も後方に控えている。
「本日は、神凪候補としての“声の確認”を行います」
年配の神官が告げる。
「祈りではありません。ただ、歌ってください。あなた自身の歌を」
カノンは一歩、前に出た。
足元の石が冷たい。
天井は高く、音がよく響く造りになっている。
歌うこと自体は、怖くない。
怖いのは、その意味が変わってしまうことだった。
カノンは息を吸い、ゆっくりと歌い始める。
村で歌っていた旋律。
母が口ずさんでいた、名もない歌。
最初は震えた声も、次第に落ち着いていく。
音は礼拝堂に満ち、壁を伝い、天井で返った。
その瞬間だった。
潮の気配が、ここにはないはずなのに――
確かに、海の重さが空間に滲んだ。
神官の一人が、わずかに眉をひそめる。
王子は気づいた。
カノン自身も歌いながら違和感を覚えていた。
誰かに届いている。
礼拝堂の奥、視線の届かない場所で。
歌い終えたとき、しばし沈黙が落ちた。
「……以上です」
神官は淡々と告げる。
「今日はここまで。下がってください」
だが、別の神官が言葉を継いだ。
「一つだけ確認を。この歌は、誰に向けたものですか?」
カノンは言葉に詰まった。
村で歌っていたときは誰のためでもなかった。
ただ、歌いたかっただけだ。
けれど今は――。
「……わかりません」
正直な答えだった。
礼拝堂の空気が、わずかに張りつめる。
「神凪としては不適切な答えです」
「だが、虚偽ではない」
王子が静かに口を挟んだ。
神官たちは視線を交わし、結論を先送りにする。
カノンは深く一礼し、静かに場を後にした。
⸻
夜。
カノンは中庭に出て、歌わずに座っていた。
『今日、歌ったな』
ナギの声が、いつもより近く感じられた。
「……勝手に、届いてしまいました」
『意図していない歌は、最も強く届く』
それが慰めなのか、事実なのか、カノンには判断がつかない。
「ナギ。歌っているとき、あなた……」
『見ていた』
言い切りだった。
カノンは目を伏せる。
「それって、良いことなんですか?」
少し間が空く。
『良いとも、悪いとも言えない』
「じゃあ、やめた方がいい?」
その問いに、すぐ答えは返らなかった。
海が、深く呼吸するようにうねる。
『……やめる必要はない』
だが、と声が続く。
『歌は、お前のものだ』
その言葉に胸の奥が温かくなり、同時に不安が芽生える。
「本当に?」
『奪うことは、できない』
それは誓いのようでもあった。
カノンは小さく頷く。
「じゃあ……まだ、歌います」
その夜、歌はなかった。
けれど沈黙の中で、確かに二人は繋がっていた。




