表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮の名を君だけが知っている ー海神ナギと神凪カノンの物語ー  作者: 宵待 桜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/30

第八章 歌は、誰のために在るのか


朝の神殿は、音が少ない。


鐘も鳴らさず、祈りの声も抑えられている。ここでは、静けさそのものが秩序だった。


カノンは小さな控室で、与えられた装束に袖を通していた。


まだ正式な神凪のものではない。だが、布は柔らかく、白に近い淡色で、歌う者の動きを妨げないように仕立てられている。


「……歌のため、ですよね」


誰にともなく呟く。


鏡に映る自分は、村で浜辺に立っていた頃とは違って見えた。髪は整えられ、首元には簡素な護符が下げられている。


その護符を、カノンはそっと指でなぞった。



神殿の小礼拝堂。


神官が数名、半円状に並び、中央に空間が設けられていた。王子も後方に控えている。


「本日は、神凪候補としての“声の確認”を行います」


年配の神官が告げる。


「祈りではありません。ただ、歌ってください。あなた自身の歌を」


カノンは一歩、前に出た。


足元の石が冷たい。


天井は高く、音がよく響く造りになっている。


歌うこと自体は、怖くない。


怖いのは、その意味が変わってしまうことだった。


カノンは息を吸い、ゆっくりと歌い始める。


村で歌っていた旋律。

母が口ずさんでいた、名もない歌。


最初は震えた声も、次第に落ち着いていく。


音は礼拝堂に満ち、壁を伝い、天井で返った。


その瞬間だった。


潮の気配が、ここにはないはずなのに――

確かに、海の重さが空間に滲んだ。


神官の一人が、わずかに眉をひそめる。


王子は気づいた。


カノン自身も歌いながら違和感を覚えていた。


誰かに届いている。


礼拝堂の奥、視線の届かない場所で。


歌い終えたとき、しばし沈黙が落ちた。


「……以上です」


神官は淡々と告げる。


「今日はここまで。下がってください」


だが、別の神官が言葉を継いだ。


「一つだけ確認を。この歌は、誰に向けたものですか?」


カノンは言葉に詰まった。


村で歌っていたときは誰のためでもなかった。


ただ、歌いたかっただけだ。


けれど今は――。


「……わかりません」


正直な答えだった。


礼拝堂の空気が、わずかに張りつめる。


「神凪としては不適切な答えです」


「だが、虚偽ではない」


王子が静かに口を挟んだ。


神官たちは視線を交わし、結論を先送りにする。


カノンは深く一礼し、静かに場を後にした。



夜。


カノンは中庭に出て、歌わずに座っていた。


『今日、歌ったな』


ナギの声が、いつもより近く感じられた。


「……勝手に、届いてしまいました」


『意図していない歌は、最も強く届く』


それが慰めなのか、事実なのか、カノンには判断がつかない。


「ナギ。歌っているとき、あなた……」


『見ていた』


言い切りだった。


カノンは目を伏せる。


「それって、良いことなんですか?」


少し間が空く。


『良いとも、悪いとも言えない』


「じゃあ、やめた方がいい?」


その問いに、すぐ答えは返らなかった。


海が、深く呼吸するようにうねる。


『……やめる必要はない』


だが、と声が続く。


『歌は、お前のものだ』


その言葉に胸の奥が温かくなり、同時に不安が芽生える。


「本当に?」


『奪うことは、できない』


それは誓いのようでもあった。


カノンは小さく頷く。


「じゃあ……まだ、歌います」


その夜、歌はなかった。


けれど沈黙の中で、確かに二人は繋がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ