第七章 波は、境界を越えない
王都の朝は、静かに始まった。
海に囲まれたルミナリアでは夜明けはいつも潮の気配とともにある。
だが神殿の中庭に差し込む光は、海の色を帯びていない。
ただ白く、均一で感情を含まない光だった。
カノンはその中庭を掃いていた。
神凪候補として神殿に迎えられてから朝の役目は決まっている。
祈りでも歌でもない、こうした雑務だ。
「……慣れましたか」
背後から声をかけられ、カノンは振り返った。
王子だった。
いつものように簡素な装いだが、立ち姿には自然と人の視線を集めるものがある。
彼は、神殿という場に少しだけ距離を置いて立つ人だった。
「まだ、全部は」
カノンは正直に答えた。
「でも、少しずつ。ここでは“そうするものだ”ということが多くて……考えるより、体が先に覚えてしまいます」
王子は小さく頷く。
「それは、悪いことではありません。ただ――考えることを、やめないでください」
その言葉に、カノンは箒を止めた。
「やめてしまう人が多いのですか?」
「ええ」
王子は中庭の端、神殿の壁を見た。そこには過去の神凪たちの名が刻まれている。
多くは、説明も記されていない。
「役目に耐えるために。耐えることが正しいと信じるために」
カノンは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。ただ、胸の奥に小さな重さが残った。
⸻
その日の昼、神殿では非公式の会合が開かれていた。
神官たちは円卓を囲み、低い声で言葉を交わしている。カノンはその場に呼ばれていないが、扉の向こうから、かすかに声が漏れ聞こえた。
「神凪候補としての自覚が薄すぎる」
「自覚を植え付けるには、まだ早い」
「いや、すでに神と通じている以上――」
言葉は途中で途切れ、扉が閉じられた。
カノンは立ち止まり、手を握りしめる。
“通じている”。
それは事実だった。否定できない。
だが、それが何を意味するのか、彼女自身がまだ分かっていない。
夜。
カノンは中庭に出て、いつもの場所に腰を下ろした。石の縁は昼の熱を失い、ひんやりとしている。
海を見上げると、月が低く浮かんでいた。
「……今日、来てますか」
声は小さく、誰に聞かせるでもない。
少し間があって、潮の音が変わる。
『ここにいる』
低く、静かな声。
カノンは息をついた。
「今日は、神殿が騒がしくて」
『感じている』
それだけで、理由を聞こうとはしない。
「……ねえ、ナギ」
名を呼ぶとき、まだ少しだけためらいがあった。それでも、もう口が覚えてしまっている。
『何だ』
「神様って、いつも正しいんですか?」
返事は、すぐには来なかった。
波が、月の光を砕く。
『正しさを持つのは人だ』
「じゃあ……間違うことは?」
『ある』
短い答えだった。
カノンは、その言葉を反芻する。
「間違ったら、どうなるんですか」
『……代償を払う』
それは避けられない事実のように語られた。
カノンは唇を噛む。
「それでも見ているだけでいられるんですか」
今度は沈黙が長かった。
海が、わずかに高くうねる。
『それが、神だ』
淡々とした声だった。
だが、その奥に、ほんのわずかな揺らぎがあった。
カノンは、それ以上問いかけなかった。
問いを重ねれば、境界を越えてしまう気がしたからだ。
⸻
深夜、王子は書斎で一人、古い記録を読み返していた。
神凪と神の関係。
過去に起きた逸脱。
そして、記されなかった結末。
彼は静かに本を閉じ、窓の外を見る。
海は、今日も変わらずそこにある。
「……まだ、波は越えていない」
それは祈りにも似た、独り言だった。
だが、境界というものは――
いつも、越えられる瞬間よりも先に、歪みを生む。




