第六章 潮の内側で、名が生まれる
神殿の回廊は、朝でも静かだった。
海に近い王都にあっても、ここだけは潮の匂いが薄い。
石壁に刻まれた文様が音を吸い、足音すら遠慮がちになる。
カノンは、その回廊を王子の半歩後ろで歩いていた。
「緊張していますか」
不意にかけられた声にカノンは顔を上げる。
「……少し。でも、それだけじゃありません」
王子は歩みを緩め、振り返らずに続けた。
「“わからない”という顔ですね」
図星だった。
カノンは小さく笑い、正直に答える。
「ここに来てから、知らない言葉ばかりで。神凪の役目も、神殿の決まりも……でも、皆さんは“当然”みたいに話すでしょう?」
王子はようやく足を止め、彼女を見る。
年は近い。それでも、立ち姿には王族特有の落ち着きがあった。
「当然に見えるだけです。私も、最初から理解していたわけではありません」
そう言って、王子は回廊の窓を指した。
遠くに海が見える。陽を受けて、穏やかに揺れていた。
「ルミナリアは、海神と共にある国です。神凪は、その“声”を国に繋ぐ存在。――けれど、人であることを忘れていい理由にはならない」
カノンは、その言葉に少し驚いた。
「……そう思っていない人も、いますよね」
王子は否定しなかった。
「います。だから、意見は割れています」
まるで合図のように、回廊の先から低い声が聞こえた。
「神凪は情を持ちすぎてはならない」
神官の一人が言い切る。
年配で、白い装束に身を包んだ男だった。
「まだ正式に定められていないとはいえ、既に神と通じている。ならば距離を取らせるべきだ。私情が混じれば、神の姿は乱れる」
別の神官が反論する。
「だが、彼女はまだ少女だ。急ぎすぎれば壊れる。過去の神凪の記録を忘れたのか?」
「感情に配慮した結果、神が壊れた例もある」
言葉は静かだったが空気は張り詰めていた。
カノンは、思わず拳を握る。
――神が、壊れる。
その言葉が、胸に引っかかった。
王子は一歩前に出る。
「父王は急ぐことを望んでいません。神凪は“繋ぐ者”であって、“縛る者”ではない」
神官たちは一瞬言葉を失い、やがて視線を伏せた。
議論は結論を出さないまま散っていく。
残された回廊でカノンは小さく息を吐いた。
「……私、間違ってますか?」
王子は首を振る。
「いいえ。あなたは、考えている。それが何より大切です」
そう言って、少しだけ声を落とした。
「だからこそ、あなたには知っていてほしい。神は“見ているだけ”ではいられなくなる瞬間がある。それが、国にとって祝福になるか、災いになるかは――人次第です」
カノンは、その意味を問い返せなかった。
夜。潮が満ちる音が、神殿の奥まで届く時間。
カノンは中庭の縁に座り、海を見ていた。
神殿の中では、海は額縁に収められた絵のように見える。
「……海さん、聞いてますか」
返事はないと知りながら、言葉がこぼれた。
その瞬間、波の音が変わった。
静かに、確かに、意識が触れ合う感覚。
『聞いている』
低く、深い声だった。頭の奥に直接響く。
カノンは息を止めた。
『歌わない日は、珍しい』
「……今日は、少し疲れていて」
言い訳のようになったが否定はしなかった。
『無理をしなくていい。私は、そう願うだけだ』
その言葉に、命令の色はなかった。
カノンは、少し笑った。
「あなた、不思議ですね」
『そうか』
「神様なのに、叱らない」
波が、やわらかく揺れた。
『叱る理由がない』
その言葉が、妙に胸に残った。
しばらく沈黙が続く。
気まずさはなかった。
ただ、同じものを見ている感覚。
「……海さんの名前、聞いてもいいですか」
返事は、すぐには来なかった。
海が、わずかにざわめく。
『本来、名は呼ばせない』
それでも、声は続いた。
『アオ・ナギル=レイヴァ』
長い名だった。
カノンは一度、口の中で転がし
それから言った。
「じゃあ……ナギ」
子どもが呼ぶような、短い名。
一瞬、潮が強く引いた。
『……それで呼ぶのか』
「嫌、でした?」
間があった。
『嫌ではない』
ただし、と言葉が続く。
『他では呼ぶな』
カノンはうなずいた。
「約束します。ここだけで」
海は、静かだった。
だがその奥で、確かに何かが揺れていた。
見ているだけでいられない何かが、まだ名も持たずに。




