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潮の名を君だけが知っている ー海神ナギと神凪カノンの物語ー  作者: 宵待 桜


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第五章 王都は、歌を待つ


王都ルミナリアは、海に抱かれた都だった。


白い石で組まれた街路は、潮の香りを含んだ風を受け、朝の光をやわらかく跳ね返している。


港から伸びる運河は街の奥まで続き、船と人と声が絶え間なく行き交っていた。


カノンは、馬車の窓からその光景を見つめていた。


「……大きい」


思わず零れた声に隣に座るカリダが小さく微笑む。


「初めて来たとき、私もそう言ったわ」


馬車が止まったのは、王城ではなく大神殿の前だった。


「カノン、いってらっしゃい」


「…行ってきます」


海を臨む高台に建つ神殿は、白と青の層で形作られ、中央の塔はまるで海へ向けた祈りの指のように空を指している。


「こちらへ」


神官に導かれ、長い回廊を進む。


足音が吸い込まれるように消える床。

壁には、古い壁画が描かれていた。


波。船。歌う人々。


そして――白い衣をまとった“ひとりの少女”。


「……あの子」


カノンが立ち止まると神官は振り返った。


「歴代の神凪です」


「私……じゃないですよね」


「ええ。あなたではありません」


だが、続く言葉はなかった。


広間に通されると、数名の神官が待っていた。


中央に立つのは、先日村に来た初老の神官。


その左右に、年若い者と、厳しい目をした壮年の者が並ぶ。


「神凪候補、カノン」


名を呼ばれ、胸が跳ねる。


「本日は正式な“確認”の儀を行います」


「……確認?」


「あなたが“選ばれているかどうか”を」


カノンは唇を噛んだ。


選ばれる。


それは、望んでいない言葉だった。


儀式は、簡素だった。


大理石の台座。


その上に置かれた、青い器。


「この水に、声を落としてください」


「声……?」


「歌でも、言葉でも構いません」


一瞬、海の記憶がよぎる。


――来ない方が、いい。


そう言った声。


けれど、ここでは歌わないわけにはいかない。


カノンは小さく息を吸い、短い旋律を紡いだ。


子どもの頃から、何度も歌った旋律。


すると、水面が揺れた。


波紋が、円ではなく、螺旋を描く。


神官たちの間に、ざわめきが走る。


「……間違いない」


「これは」


「海が、応えている」


カノンは理解できない。


ただ、水の奥から、確かに“見られている”感覚だけがあった。


そのとき。


「失礼します」


広間の扉が開き、若い男が入ってきた。


整えられた濃紺の外套。

王家の紋章。


彼は神官たちに一礼しカノンに視線を向ける。


「初めまして。ルミナリア王国の王子レオニスです」


年は、カノンより少し上だろう。

十代後半の青年


穏やかな声。

だが、覚悟の色が滲んでいる。


「神凪候補の確認が行われていると聞きました」


神官が一歩前に出る。


「これは神殿の――」


「国の未来にも関わることです」


王子は遮らず、静かに言った。


その視線は、カノンから逸れない。


「……怖いですか?」


唐突な問いだった。


カノンは正直に答える。


「……わからないです」


それを聞いて王子は少しだけ笑った。


「それなら、まだ大丈夫です」


「え?」


「怖いと分かってしまったら人は壊れます」


その言葉に神官たちは沈黙する。


王子は続けた。


「彼女は、まだ“歌う人”です」


「ですが――」


「神凪になる前に人として扱ってください」


その言葉は誰に向けたものか分からなかった。


王子は最後にカノンへ向き直る。


「無理はしなくていい。でも逃げ場は用意します」


その約束は、まだ形を持たない。


だが、確かに差し出された“手”だった。




その夜。


王都の宿舎の一室。


カノンは、窓から海を見ていた。


「……来ない方が、いいって言ったけど」


小さく呟く。


返事はない。


けれど、波が一度だけ、強く岸を打った。


それが、答えだった。


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