第四章 声は、選ばれる
神殿の使者が村を訪れたのは朝霧がまだ消えきらない時間だった。
白を基調とした外套に、淡い青の刺繍。
その意匠は、ルミナリア王都の大神殿に属する者の証だった。
村人たちは距離を取り、ひそひそと声を潜める。
神殿の者が来る理由は、ひとつしかない。
「……カノン」
カリダは娘の名を呼び静かに手を取った。
その手は、わずかに震えている。
「お母さん?」
「大丈夫。まだ、何も決まったわけじゃない」
そう言いながらもカリダは分かっていた。
“何も決まっていない”という段階は、もう終わっている。
使者の先頭に立つ男は、初老の神官だった。
柔らかな口調。
だが、その瞳には揺るぎがない。
「この村に、歌声を持つ娘がいると聞き及びました」
村長が一歩前に出る。
「歌は、海沿いの村では珍しくありません」
「ええ。承知しております」
神官は微笑んだまま、言葉を続けた。
「しかし――“呼ばれる歌”は、別です」
その瞬間カリダの指が強くカノンの手を握った。
カノンは、まだ理解していない。
ただ、空気が変わったことだけは感じ取っていた。
「一度、王都へお越しいただければ」
「……拒否は?」
サリュートの声は低く、静かだった。
神官は否定も肯定もしない。
「選ばれるかどうかは、海が決めます」
それが、答えだった。
その夜。
カノンは浜辺に立っていた。
歌うつもりはなかった。
だが、どうしても海を見ずにはいられなかった。
波は穏やかで、月の光を映している。
「来ないで、言われた気がしたけど…」
小さく呟いた、そのとき。
『来たんだな』
今度は、はっきりとした声だった。
驚いて振り返る。
誰もいない。
けれど、確かに聞こえた。
「……誰?」
『君が呼んだ』
「私は呼んでないよ」
即座に返すと、少し困ったような気配が返ってくる。
「歌ってないよ?」
『歌ってない。それでも来た』
波が、ゆっくりと寄せる。
月光の揺らぎの中で、海の表面が、かすかに人の輪郭を帯びた。
はっきりとは見えない。
けれど、そこに「誰か」がいる。
そして、確かに会話ができている。
「……あなた、海?」
カノンの問いに、短い沈黙。
『そう呼ぶ人もいる』
それは肯定とも否定ともつかない答えだった。
『でも……君は、俺の名を呼んでいない』
「あなたの名を知らないから」
その返答に、海の気配が少し揺れる。
『知らない方が、いい』
その言葉は、はっきりしていた。
カノンは眉を寄せる。
「でも、話してるよ」
『……話してしまっている』
それは、後悔を含んだ声だった。
「ねえ」
カノンは、月を見たまま言う。
「私、何か悪いことした?」
『いいや』
即答だった。
『君は、何もしていない』
だからこそ――と、続けたかった言葉を海神は飲み込む。
沈黙が落ちる。
だが、先ほどまでの静けさとは違った。
二人の間に、確かな“距離”が生まれている。
「……また、来る?」
カノンの問いは、無邪気だった。
だがその問いに答えない。
答えられなかった。
『……来ない方が、いい』
そう言い残し、気配は波に溶けていった。
カノンはしばらく立ち尽くし、やがて浜を離れる。
その背を見送るように、
海は小さく、波を打った。
――選ばれた声は、もう戻らない。
それが、神殿の知る理。
そして、神が最も恐れている未来だった。




