第二六章 母の祈りと神凪の選択
神殿の外れ、小さな祈祷室にカリダはいた。
カノンと別れからずっと。
華やかな神殿とは違い、ここは石と木だけの簡素な場所だ。
かつて彼女が「不要」とされた場所でもある。
過去、カリダは神凪候補でありなら役目を果たせなかった。
不要とされ、悲しみのあまり祈祷室から逃げ、今の夫と出会い、カノンが産まれた。
カノンが歌うことが好きな子に育っていくにつれ、運命から逃れられないと思いつつも神凪の真実を伝えられなかった
胸に手を当てる。
鼓動は、驚くほど静かだった。
(……やっぱり、来たのね)
神が越境した瞬間、カリダは確信していた。
娘が神凪として選ばれた時から、いつかこの日が来ることを。
声にはならない祈りが、胸に満ちる。
――カノン。
――あなたは、あなたのままでいて。
神凪の血を引く者は、神に「近づける」。
だが、それは対話ではない。
感じるだけ。
触れるだけ。
それでも今、カリダにはわかっていた。
海神は、壊れかけている。
そして娘は、それを止めようとしている。
(……母として、していいことじゃない)
それでも。
カリダは、床に膝をついた。
額を石に預け、声にならない祈りを、深く、深く沈める。
――どうか、神よ。
――娘を奪うなら、せめて“選ばせて”。
その祈りは、言葉にならず、
それでも確かに、海へ届いた。
⸻
神殿の中庭は、もはや聖域ではなかった。
海神の威が満ち、神官たちは距離を取ることしかできない。
カノンは、ナギの前に立っていた。
神としての姿。
だが、その輪郭は人に近すぎる。
『……戻らなければならない』
ナギの声は、苦しげだった。
『私は、越えすぎた』
カノンは、首を横に振る。
ゆっくりと、一歩、近づく。
王子が息を呑む。
「カノン……!」
だが、止める言葉はなかった。
彼女は、知っている。
神が壊れる瞬間を。
神が人になり、世界から零れ落ちる瞬間を。
カノンは、胸に手を当てた。
神凪の装束が、微かに光を帯びる。
――縛るための衣。
――守るための儀。
だが、彼女はその意味を変える。
(縛るのは、神じゃない)
(“神でい続けられない想い”を、だ)
ナギの瞳が揺れる。
『……何を、するつもりだ』
カノンは、初めて、はっきりと微笑んだ。
「ナギ」
その名を呼んだ瞬間、海が――静まった。
「あなたは、神様です。だから……人を、愛してはいけない」
ナギが、否定しかける。
だが、彼女は続けた。
「でも愛してしまった。それは間違いじゃない」
一歩、さらに近づく。
「だから――私が、終わらせます」
神官の一人が叫ぶ。
「やめろ! 神凪が命を差し出すなど――」
王子が、低く言った。
「止めるな」
それは、震えた声だった。
「これは……彼女の選択だ」
カノンは、そっと、ナギに触れた。
神の輪郭が、崩れかける。
『やめろ……!それでは、君が――』
「いいんです」
彼女の声は、穏やかだった。
「私が歌ってきた理由があなたに届いたなら、それで十分です」
神凪の儀式が、反転する。
神を縛るための力が神を“神として留める”ために使われる。
代価は――
命。
海が、泣くように鳴った。




