第二十四章 神であることの代価
神殿に静かな噂が広がり始めていた。
声を失った神凪。
それでも生きている。
それでも、神は沈黙を保っている。
――本当に、これで正しいのか。
問いは誰の口からもはっきりとは発せられなかったが、回廊の陰や祈祷室の片隅で確かに囁かれていた。
神官会議は、夜明け前に開かれた。
海が荒れる前触れのように空気は張りつめている。
「封声印は、予定より早すぎた」
若い神官が、耐えきれずに言った。
「彼女はまだ――」
「感情に寄り添いすぎた結果だ」
遮ったのは、年長の神官だった。
「神凪は“器”であって、人ではない。その役目を忘れた瞬間、神も人も壊れる」
「だが、その“器”が壊れかけているのは誰の責任だ」
別の声が続く。
議論は、同じ場所を回り続けた。
守るために縛るのか。
縛った結果、何を失っているのか。
答えは、どこにもなかった。
王子は、席の端で沈黙を守っていた。
王としての言葉を持たない立場。
だが、神凪を“人として”見てきた一人。
「一つ、確認したい」
ようやく口を開く。
「彼女は、自分の選択で封声印を受け入れたのですか」
神官たちは、言葉を詰まらせた。
「……形式上は」
「“理解した上で”とは言えません」
王子は、目を閉じる。
それで十分だった。
⸻
その頃、カノンは神殿の奥にいた。
療養と称された隔離。
外界との接触を減らすための静寂。
彼女は、石窓のそばに立ち、
遠くの海を見ていた。
歌えない。
話せない。
それでも、胸の奥には、波のような感情が残っている。
――ナギは、今どうしているだろう。
それを思うだけで、胸が軋んだ。
『……ここにいる』
唐突に、声が届く。
以前より、ずっと近い。
カノンは、はっとして振り返る。
誰もいない。
それでも、確かに感じる。
――境界が、薄くなっている。
『近づくな、と言われるほど……近づいてしまう』
ナギの声は、低く、苦しげだった。
『私は、神だ。だが今は、それが枷になっている』
カノンは、唇を噛む。
声があれば、止めただろう。
神であることを、思い出させただろう。
だが、声はない。
代わりに、彼女は一歩、海に近づいた。
その瞬間、神殿の外で風が強まった。
潮が逆巻き、遠くで雷鳴が響く。
神官の誰かが叫ぶ。
「神威が……揺れている!」
それは、禁忌の兆しだった。
神が、自身の役割から逸れ始めている証。
『……カノン』
名が呼ばれる。
はっきりとした感情を伴って。
『私は、選ばねばならない』
海が、うねる。
『神であり続けるか。それとも――』
言葉は、そこで止まった。
カノンは、首を振る。
声がなくとも、その仕草だけで十分だった。
――選ばせない。
それが、彼女の答えだった。
遠くで、鐘が鳴る。
神殿全体に、警告の音が響き渡る。
神と人の距離が限界を超えようとしている。
誰かが犠牲にならなければ世界は保てない。
その事実を、神も、人も、
ようやく同時に理解し始めていた。




