第二十三章 届かない声、それでも呼ばれる名
声を失った朝は、驚くほど静かだった。
世界が急に変わったわけではない。
鳥は鳴き、潮は満ち、神殿の鐘も時を告げる。
けれど、カノンにとっては音の向こう側に一枚の薄い膜が張られたようだった。
話しかけられれば聞こえる。
問いかけの意味も、感情も、すべて理解できる。
ただ、返す術がない。
カノンは、その事実を淡々と受け入れていた。
⸻
神官の一人が、慎重に言葉を選ぶ。
「……痛みは?」
カノンは首を振る。
「めまいは?」
一瞬、迷ってから、うなずく。
正直だった。
神官は、帳面に記す。
「命の消耗は、緩やかです。今のところは」
“今のところは”。
その言葉が、誰の耳にも重く残った。
⸻
王子は、彼女を中庭へと連れ出した。
神殿の中庭は、海がよく見える。
白い石畳の向こうに、青が広がる。
「……ここなら、少しは楽でしょう」
カノンは、外の空気を胸いっぱいに吸い込み、
小さく微笑んだ。
王子は、その表情を見て、視線を逸らす。
「あなたは……強すぎます」
言葉は、独白に近かった。
「声を奪われてなお、立っていられるなんて」
カノンは、首を振る。
違う。強いのではない。
選んだだけ。
それを伝えられないことが、少しだけ、苦しかった。
その夜。海は異様なほど静かだった。
風もなく、波も立たない。
まるで世界が、呼吸を止めているように。
カノンは、聖所の縁に座っていた。
声は出せない。
歌も、祈りも、できない。
それでも、彼女はそこにいた。
“聞く者”として。
『……聞こえているか』
ナギの声が、微かに届く。
以前のように、鮮明ではない。
遠く、深く、揺らいでいる。
カノンは、そっと目を閉じた。
うなずく。
『……答えなくていい』
それは、配慮だった。
『君が声を失った瞬間、私は理解した』
言葉が、途切れる。
神の声が、感情に引きずられている。
『これは、私のためだ』
カノンの胸が、きゅっと締めつけられる。
――違う。
あなたのためでもあるけれど、
国のためで、民のためで、
そして……私自身のためでもある。
だが、その想いは、海に溶けるだけだった。
『私は、神だ』
ナギの声が、低くなる。
『神は、見守る存在だ。介入してはならない』
波が、わずかに揺れた。
『……だが』
言葉が、続かない。
沈黙。
それは、神が自分自身と対峙する時間だった。
カノンは、そっと胸元に手を置く。
そこには、封声印の名残が、淡く光っている。
声を失う代わりに、
神を縛り、
世界を保つ。
それが、神凪の役目。
――そう、教えられてきた。
けれど今、彼女は思う。
もし、神が“見ているだけではいられない”のなら。
もし、その境界が揺らいでいるのなら。
自分の選択は、正しかったのだろうか。
答えは、出ない。
『……カノン』
名を呼ばれる。
以前より、確かに弱い声。
それでも、はっきりと。
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、海を見る。
そこには、姿はない。
けれど、確かに――“いる”。
カノンは、小さく息を吐き、唇を動かした。
声にはならない。
それでも、その形は、はっきりしていた。
――ナギ。
海が、わずかに震えた。
その瞬間、ナギは悟る。
声を奪われても、距離を引き裂かれても、
彼女はまだ自分を“呼んでいる”のだと。
神は、拳を握る。
それは神としてしてはいけない仕草だった。




