第二十一章 選ぶのは、神ではなく
夜明け前の聖所は冷えていた。
内殿の奥、誰の祈りも届かない場所。
石床に座るカノンの指先は
わずかに震えていた。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に――はっきりしていた。
逃げ場がないのではない。
自分が、どこに立っているのかを、もう理解してしまっただけだ。
「神凪は、繋ぐ者」
小さく言葉にする。
それは、教えられてきた役目だった。
声を届け、祈りを整え、神と国を結ぶ存在。
けれど。
「繋ぐ、だけじゃ足りない」
切り離されたままでは、
どちらかが壊れる。
その兆しを、彼女は誰よりも早く感じていた。
⸻
遠い海で、ナギは耐えていた。
意識を保ち、姿を崩さぬよう、力を抑える。
『……呼ぶな』
自分に言い聞かせるような声。
呼べば、応えてしまう。
応えれば、距離は縮まる。
縮まれば――もう、戻れない。
それでも、意識は自然と、ひとりの少女へ向かう。
名を呼ばれたときの、あの響き。
『……ナギ』
短く、柔らかく、境界を越える音。
神が、忘れようとしても忘れられない。
⸻
王子は、父王のもとにいた。
「神殿の判断は理解できます」
王子は正面から言った。
「ですが、このままでは神も神凪も失います」
国王は、長い沈黙ののち、口を開いた。
「……神を選べば、神凪が壊れる」
「神凪を守れば、神が壊れる」
王子は、一歩も引かなかった。
「なら、第三の道を探すべきです」
「あるのか」
「あります。ただし、それは“国にとって最善”とは限りません」
国王は、王子を見つめた。
その目は、厳しく、そして深かった。
「それでも言うか」
「はい」
王子は、迷わず答えた。
「この国は、神と人が共に在ることで続いてきました。どちらかを犠牲にする道は、ルミナリアの歴史ではありません」
国王は、ゆっくりとうなずいた。
「……神凪に、選ばせる気だな」
「はい」
「酷な役目だ」
「承知しています」
それでも、王子は視線を逸らさなかった。
⸻
その頃、カノンは、内殿の聖具庫にいた。
白い布に包まれた古い装束。
神凪が、正式に儀を行う際に身にまとうもの。
その中に、一つだけ、触れてはいけないとされるものがあった。
――封声印。
神の声と、人の声、その“交わりすぎ”を封じる印。
本来は、神を守るためのもの。
同時に、神凪の命を削る。
カノンは、静かに手を伸ばした。
「……ナギ」
声は、届かない。
それでも、言葉は必要だった。
「あなたが、神でいられるなら」
指が、印に触れる。
冷たい。
けれど、迷いはなかった。
その瞬間。
海が、凪いだ。
荒れていた波が、一斉に静まる。
神官たちが、顔を上げる。
「……鎮まった?」
だが、それは安定ではない。
力が、強制的に“縛られた”兆しだった。
『……何をした』
ナギの声が、初めて、明確に届いた。
痛みを含んだ、低い響き。
カノンは、息を吸った。
「ごめんなさい」
『やめろ』
「やめません」
その声は、はっきりしていた。
「あなたが壊れるくらいなら」
『君が――』
言葉が、途中で途切れる。
神の力が、印に絡め取られていく。
『……カノン』
名を呼ばれた。
初めて、正式に。
ぼんやりでも、微かにでもない
はっきりと名を呼ぶ声が聞こえた。
カノンは、微笑んだ。
「……聞こえました」
その声は、もう震えていなかった。
⸻
王子は、内殿へ急いでいた。
異変は、誰の目にも明らかだった。
これは、選択だ。
神ではなく、国でもなく、一人が下した選択。




