第二章 潮の匂いを、母は知っている
朝の光は、海から届く。
セイレ=リラの朝はいつもそうだった。
水平線の向こうで生まれた淡い金色が村の屋根を撫で石畳に落ちる。
カノンは目を覚まし寝台から起き上がった。
夢は見なかった。
けれど、胸の奥が少しだけ重い。
昨夜の歌の余韻が、まだ身体に残っているような感覚だった。
台所では、母のカリダがすでに動いていた。
「おはよう、カノン」
「おはよう」
いつもと変わらない声。
だが、カリダは娘の顔を見ると、ほんのわずかに安堵したような息をついた。
その仕草を、カノンは見逃さなかった。
「……なに?」
「いいえ。なんでもないわ」
そう言って微笑むが、その笑みはどこか硬い。
朝食を終え、サリュートが漁に出たあと。
家の中には、母と娘だけが残った。
「今日は浜に行くの?」
「うん。貝を拾ってくる」
「……ひとりで?」
「いつもひとりだよ」
カリダは少し考え込むように視線を落としたあと、静かに言った。
「昼までには戻ってきて」
「どうして?」
「風が変わりやすいから」
それは理由として少しだけ弱かった。
けれどカノンは頷いた。
浜辺へ向かう途中、村の外れで、見慣れない人物を見かけた。
濃紺の外套。
潮に慣れていない靴。
「…王都の人だ」
セイレ=リラに来るのは、年に数度あるかないか。
行商か、役人か、そのどちらか。
その男は家々を見渡すように歩き、時折何かを書き留めていた。
(なんだろう……)
気にはなったが、声をかける勇気はない。
浜に着くとカノンはいつものように砂の上に座った。
歌おうとして、ふとためらう。
昨夜の感覚が思い出される。
聞かれていた。
そんなはずはない。
ここには、誰もいない。
カノンは小さく息を吸い、声を落とした。
歌は、昨日よりも静かだった。
すると、波の音が、わずかに変わった。
寄せて、返す、その間が――
ほんの一瞬、長くなった気がした。
カノンは歌を止め立ち上がる。
「気のせいだよね」
答える声は、ない。
昼前、家に戻るとカリダが玄関先に立っていた。
「早かったのね」
「うん。なんとなく」
カリダは娘の手を取り、強く握った。
「……何か、変わったことはなかった?」
その問いは、あまりにも切実でカノンは一瞬、言葉に詰まった。
「……変わったこと?」
「浜で誰かに会ったとか。声をかけられたとか」
「ないよ」
そう答えると、カリダは深く息を吐いた。
「そう……」
その日の午後、家に来客があった。
先ほど見かけた、あの外套の男だった。
「神殿の者です」
そう名乗り、男は頭を下げた。
神殿。
その言葉を聞いた瞬間
カリダの背筋が、わずかに強張った。
「この村に、“歌の好きな子ども”がいると聞きました」
男の視線が、カノンに向けられる。
「……昔話ですよ」
カリダはすぐに遮るように言った。
「この村では、歌う子は珍しくありません」
「そうですか」
男はそれ以上、踏み込まなかった。
だが、去り際に、こう言い残した。
「王都では潮の兆しが騒がれています。どうか、ご用心を」
扉が閉まったあと。
カリダはその場に立ち尽くし、やがて静かに膝をついた。
「お母さん?」
呼びかけるとカリダは顔を上げ無理に笑った。
「大丈夫よ」
だが、その目には、はっきりとした恐れが宿っていた。
カノンは、知らなかった。
海が――すでに歌を手放す気がないことを。




