第十九章 沈黙が言葉になるとき
制限が敷かれてから、数日が過ぎた。
神殿は以前よりも静かだった。
それは平穏ではなく緊張が均等に張りつめた静けさだった。
カノンは朝の祈祷を終えたあとも中庭に残っていた。
声を使わない時間が、増えた。
歌わない。
呼ばない。
問いかけない。
代わりに、ただ在る。
それが神凪として正しいのだと神官たちは言う。
けれど――
海は、以前よりも荒れていた。
王子は、回廊の影から彼女を見つけ、近づいてきた。
「……眠れていませんね」
言われて、初めて気づく。
「……はい」
正直に答えると王子はそれ以上追及しなかった。
「制限が始まってから海の変動が増えています」
「……」
「神官たちは“偶然”だと言いますが」
王子は、低く息を吐いた。
「私は、そうは思えない」
カノンは噴水の水面を見つめたまま言った。
「神様は……耐えているだけです」
王子は、わずかに眉を寄せた。
「それが、神の姿だと思いますか?」
答えられなかった。
思うかどうかではない。
知ってしまっている。
耐えるという選択が、
どれほど神を削るかを。
夜。
定められた時間。
波は荒れていたが、声は来た。
『……今日は、何も話さなくていい』
それが最初の言葉だった。
「……それでも聞いています」
『それで十分だ』
沈黙が落ちる。
だが、不思議と重くはない。
言葉を交わさない代わりに、感情が、輪郭を持って伝わってくる。
疲労。
苛立ち。
そして――抑え込まれた衝動。
カノンは、そっと息を吸った。
「……歌っても、いいですか」
返事はなかった。
だが、拒絶もなかった。
だから、歌った。
声を張らない。
意味を持たせない。
ただ、幼い頃に浜辺で口ずさんでいた旋律。
母が教えてくれた、名前のない歌。
波が、次第に落ち着いていく。
『……それは』
声が、かすれる。
『君の、歌だ』
「はい」
『……好きだ』
言葉は短かった。
だが、そこに迷いはなかった。
カノンの胸が痛む。
「……言ってはいけない言葉ですよね」
『ああ』
即答だった。
『だが、止められなかった』
その瞬間、海が大きくうねった。
神殿の柱が、低く鳴る。
遠くで、鐘が一つ鳴った。
異変。
神官たちが動き出す気配。
『……制限が、意味を失い始めている』
ナギの声は、静かだった。
「それは……」
『私が、人に近づいている』
言い切りだった。
『君のせいではない』
「……でも」
『私の選択だ』
その一言が、決定的だった。
神が、自分で選んだ。
それは、神であることを少しずつ手放している証でもある。
翌朝。
神官たちは、緊急の会合を開いた。
「海神の力が、揺らいでいる」
「対話制限が機能していない」
「神凪を、隔離すべきだ」
その言葉に、王子が立ち上がる。
「隔離すれば、神は安定すると?」
「感情の供給を断てば、回復する可能性はある」
「“供給”?」
王子の声が、低くなる。
「彼女は、人だ」
神官は、視線を逸らした。
「だからこそ、切り離す」
同じ頃。
カノンは、神殿の奥でひとり膝を抱えていた。
海が遠い。
声が来ない。
定められた時間を過ぎても。
胸が不安で満ちる。
「……ナギ」
禁を破ると知りながら名を呼んだ。
返事はなかった。
代わりに。
海鳴りが神殿を揺らした。
それは怒りではない。
――苦しみだった。
神は、耐えることを選び続けている。
人は、守るために切り離そうとする。
その間に立つ神凪だけが、どちらも失わせない道を探していた。
だが、境界はもう保てないほどに薄くなっていた。




