第十六章 海は、遠くなる
翌朝、カノンは早くに目を覚ました。
神殿の部屋は静かで、潮の匂いも薄い。
昨夜は眠れたはずなのに、身体の奥に疲れが残っている。
起き上がろうとして、ふと気づいた。
――波の音が、しない。
正確には、聞こえてはいる。
けれど、いつものように胸の奥に染み込んでこない。
「……変、なのかな」
自分に言い聞かせるように呟く。
儀式の翌日は、体調が揺らぐことがある。
神官からも、そう説明されていた。
着替えを済ませ、回廊へ出る。
朝の光が差し込み、石床に淡い影を落としていた。
いつもなら、この時間に声がある。
『おはよう』
短い、けれど確かな存在感。
今日は――ない。
カノンは立ち止まり、深く息を吸った。
「……聞こえて、いますか」
問いかけても、海は沈黙したままだ。
朝の祈りの後、王子が声をかけてきた。
「顔色が良くありませんね」
「……少し、疲れているだけです」
嘘ではない。
けれど、それだけでもなかった。
王子は、彼女の返答を受け止めたまま続ける。
「儀式の後は神との距離が一時的に変わることがあります」
「……距離」
「ええ。近づく場合もあれば、遠ざかる場合も」
カノンの指先が、わずかに強張った。
「遠ざかるのは……悪いこと、ですか」
王子はすぐには答えなかった。
少し考え言葉を選ぶ。
「国にとっては、必ずしも悪ではありません」
その言い方に、カノンは気づく。
「……私にとっては?」
王子は、正直だった。
「痛みを伴うことは、あります」
それ以上は言わなかった。
昼前、神殿の中庭に出る。
海が見える場所だ。
陽を受けた水面は、昨日と変わらず輝いている。
なのに――
「……遠い」
思わず、そう呟いた。
距離ではない。
物理的には、何も変わっていない。
それでも、確かに“隔てられている”。
「ナギ……」
名を呼ぶ。
返事は、ない。
胸の奥が、少しずつ冷えていく。
自分が何かを失ったのだと、まだはっきり理解する前の曖昧な痛み。
「……私、何か、間違えたのかな」
誰にともなく零れた言葉は風にさらわれて消えた。
夕刻、神官たちの会話が回廊に漏れていた。
「儀式は成功だった」
「神の干渉も抑えられている」
「これで、神凪としての安定は保たれるだろう」
カノンは足を止める。
「……抑えられている」
その言葉が、胸に刺さった。
抑える。
縛る。
整える。
それは、誰のためなのか。
――国のため。
――民のため。
そうだと分かっている。
それでも。
夜。
カノンは、再び中庭に立っていた。
空には星が出ている。
潮は満ち、波は穏やかだ。
「……ナギ」
声は、震えていなかった。
返事がなくても呼ばずにはいられなかった。
長い沈黙。
そして――
『……ここだ』
かすれた声。
遠い。けれど、確かに聞こえた。
カノンは、息を詰める。
「……やっと」
『近づけない』
その言葉は、重かった。
『線が、濃くなった』
「……ごめんなさい」
反射的に、そう言っていた。
理由は、分からない。
けれど、謝りたかった。
『謝るな』
ナギの声は、苦しげだった。
『君が選んだわけじゃない』
沈黙が、再び落ちる。
「……でも」
言葉を探す。
「……離れていくの、嫌です」
正直な気持ちだった。
『……』
返事はなかった。
だが、海が、わずかに揺れた。
『見ているだけでは、いられなくなる』
以前、王子が言った言葉が脳裏をよぎる。
今度は別の意味で。
境界はまだ完全ではない。
だが、確かに形を持ち始めている。
そしてそれは、神と人、どちらか一方だけの意思では越えられないものだった。




