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潮の名を君だけが知っている ー海神ナギと神凪カノンの物語ー  作者: 宵待 桜


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第十五章 祈りは、形を与えられる


儀式の日は、波が低かった。


海は凪ぎすぎてもいない。

荒れてもいない。


神殿の者たちは、それを「良い兆し」と呼んだ。


白い石で敷かれた大広間には香が焚かれている。


潮の匂いを消すためではない。

人の気配を整えるためだ。


カノンは、用意された装束に身を包んでいた。


普段の衣より重い。

布は幾重にも重なり、裾が床を引く。


「……こんなに、必要ですか」


思わず漏れた声に年配の神官が穏やかに答える。


「神凪の役目は、軽いものではありません」


言葉は柔らかい。

だが、選択肢はない。


髪は結い上げられ、額に細い紐がかけられる。


視界が、少し狭くなる。


「息は、深く」


指示に従い、カノンは息を整えた。


心臓の音が、いつもよりはっきり聞こえる。





広間の中央に立たされた時

カノンは無意識に海の方角を探していた。


高い天窓の向こう。

空は淡く、雲が薄い。


「――始める」


神官長の声が響く。


祈詞が唱えられる。

意味は分からない。

音として、流れていく。


カノンは、決められた通り、歌を始めた。


声は、震えなかった。


よく知っている旋律。

幼い頃から、浜辺で口ずさんでいたもの。


ただ、今日は違う。


歌が、広間の外へ向かわない。


壁に吸われ、床に落ち、

人の視線に絡め取られる。


『……カノン』


声は、遠い。


普段より、ずっと。


「……ナギ?」


名を呼んだ瞬間、

神官の一人が眉をひそめた。


だが、歌は止められない。


『ここにいる』


声は届く。だが、輪郭がぼやけている。


カノンは胸の奥が冷えるのを感じた。


「……近く、ない」


祈詞が強まる。


音が重なり、海の気配が薄れていく。


『……線が、引かれている』


ナギの声は、いつもより低い。


『だが、まだ……』


言葉が途切れた。


一瞬、歌の調子が揺れた。


神官長が、手を上げる。


祈詞が一段、強くなる。


カノンの視界が白く滲んだ。


「……っ」


足元が、わずかにふらつく。


支えの手はない。

立つ位置は、決まっている。


『やめろ』


ナギの声が、鋭くなる。


『その歌は――』


「……大丈夫、です」


誰に言ったのか、分からない。


ナギか。神官か。それとも、自分自身か。


歌は、最後まで歌い切られた。




祈詞が終わり、

沈黙が落ちる。


「……成功だ」


誰かが、そう呟いた。


空気が、緩む。


神官たちは頷き合い、記録を取る。


「神の反応は、安定」


「波の乱れも、なし」


「問題は見られません」


その言葉を聞きながらカノンは、ただ立っていた。


呼吸が、浅い。


「……ナギ」


返事は、なかった。


いつもなら、間を置いてでも返る声。


今日はない。


「……?」


胸の奥が、じわりと痛む。


装束の重さが、急に現実味を持つ。


ようやく解放され控えの間へ下がった時、王子が待っていた。


「無事、終わったようですね」


表情は穏やかだが、目は彼女の顔色を見ていた。


「……はい」


「どうでしたか」


問われて、言葉に詰まる。


「……うまく、言えません」


王子は、それ以上聞かなかった。


「それで、十分です」



夜。


海は、変わらずそこにある。


だが、声は届かない。


カノンは、中庭に立ち、

手すりを握った。


「……ナギ」


静寂。


風だけが、衣を揺らす。


遠くで、波が砕ける音がした。


聞こえているはずなのに近くない。


境界が、形を持ち始めていた。


祈りは、神と人を結ぶ。


同時に――

離すための形にもなり得る。


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