第十四章 名もない線は、引き直される
神殿の会議室は、窓が少なかった。
外の海は見えない。
その代わり壁一面に古い記録板が並んでいる。
過去の神凪。
過去の儀式。
過去の失敗。
「歌の反応は安定しています」
若い神官が報告する。
「むしろ、管理を始めてからの方が波は穏やかだ」
別の神官が頷いた。
「やはり、距離を置かせる判断は正しかった」
神官長は、腕を組んだまま黙っていた。
「……だが」
静かに口を開いたのは白髪の神官だった。
「“穏やか”という言葉を、我々は都合よく使いすぎてはいないか」
空気が、少し張り詰める。
「神は、人の祈りによって形を保つ。神凪が“ただの器”になれば、神の在り方も歪む」
「だが、過去には――」
「壊れた神凪も、壊れた神もいた」
言葉は淡々としていたが、その場にいる全員が記録板の中身を思い出していた。
神官長が、ようやく口を開く。
「感情を完全に断つつもりはない。だが、近づきすぎれば、境は曖昧になる」
「境を引き直しているつもりで、我々が神と人の間に立ってしまっているのでは?」
問いに、答えは返らなかった。
⸻
王子は、その会議の内容を後から聞いた。
報告書は整っている。
言葉も丁寧だ。
だが、行間が重い。
「……カノンには?」
側近の問いに、王子は首を振る。
「知らせない方がいい、という判断だろう」
それが、正しいかどうかは分からない。
王子は、回廊を歩きながら考える。
彼女は、何も知らずに歌っている。
知らないことが、守りになるとは限らない。
中庭の前で、足を止めた。
鍵は、今日も閉まっている。
⸻
その夜。
カノンは歌い終えた後も中庭を離れなかった。
神官たちは既に戻っている。
許された、短い自由の時間。
「……ナギ」
声は以前よりも小さい。
『聞いている』
距離を取っても、応える声は変わらない。
「ねえ、歌っている時、あなたは……楽ですか?」
問いは少し勇気が要った。
『楽ではない』
即答だった。
『だが、苦しいとも違う』
「……じゃあ、何ですか」
海が、ゆっくりとうねる。
『保たれている』
その言葉に、カノンは眉をひそめた。
「それ、私が“保っている”ってことですか」
『そうだ』
否定しなかった。
「……それって、怖くないですか」
今度は、返事が遅れた。
『怖い』
正直な声だった。
『だから、私は線を引いた』
「私から、離れる線」
『壊さないための線だ』
カノンは、膝の上で手を握りしめる。
「私、歌うのをやめたいとは思ってません」
『知っている』
「でも、一緒に考えてほしいです」
波が、静かに広がる。
『それは』
一瞬、言葉が途切れた。
『神として許されることではない』
「……神として、ですか」
その言葉が、胸に残る。
『だが』
低く、確かな声。
『私は、神である前に見ている』
それ以上は、踏み込まなかった。
カノンは、ゆっくり息を吐いた。
「それで、十分です」
翌日。
新しい決定が下された。
「神凪の歌は、月に一度、正式な儀として記録する」
儀式の準備が始まる。
装束の調整。
立ち位置。
祈詞。
カノンは、それを黙って聞いていた。
「……儀式、ですか」
「はい。あなたと神を、正しく結ぶために」
正しく、という言葉が、少し重い。
その夜、カノンは海を見ながら思った。
――正しさは、誰のものだろう。
そして、ナギは思っていた。
――線を引くだけでは、足りない。
名もない境界が、少しずつ書き換えられている。




