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潮の名を君だけが知っている ー海神ナギと神凪カノンの物語ー  作者: 宵待 桜


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第十三章 静けさに、鍵がかかる


歌の時間は決められた。


それは命令ではなく、「提案」という形をしていたが、断るという選択肢がないことをカノンはすぐに理解した。


朝と夕。

神殿の中庭。

立ち会うのは、選ばれた神官のみ。


「負担を減らすためです」


そう説明されながら、中庭へ続く回廊の扉には、いつの間にか鍵が付けられていた。


重い鉄の音が、静かな神殿にはよく響く。


カノンは、その音を聞いても何も言わなかった。


「……慣れます」


そう口にした自分の声が少し乾いていることに気づく。


神官の一人が、柔らかく微笑んだ。


「慣れる必要はありません。これは、あなたを守るための措置です」


守る。


その言葉は、最近よく使われる。


誰も嘘をついていない。

それが、余計に息苦しかった。



王子は、その決定を聞いたとき、眉をひそめた。


「立ち会いの制限まで必要ですか」


神官長は落ち着いた声で答える。


「神凪と神の関係が深まれば、影響は周囲にも及びます。王子殿下のお立場も、考慮した結果です」


政治的配慮。

それが理由だと、王子は理解していた。


「……彼女には、伝えましたか」


「ええ。本人も了承しています」


了承、という言葉が胸に引っかかる。


王子は、何も言えなくなった。



夜。


中庭は、昼とは別の場所のようだった。


灯りは最小限。

海の音が、壁を越えて届く。


カノンは、石の縁に腰を下ろした。


歌う前の時間。

誰にも聞かれない、ほんのわずかな隙間。


「……ナギ」


名を呼ぶ声は、小さい。


『ここにいる』


すぐに応じる声が、少しだけ救いだった。


「今日から時間が決まりました」


『知っている』


「立ち会いも……増えます」


『そうか』


波が、静かに揺れる。


「ねえ、ナギ」


『何だ』


「私、ちゃんと……選んでいますか?」


問いは、思っていたよりも弱かった。


『選んでいる』


即答だった。


『誰かに命じられて歌っているのではない』


「でも」


言葉が続かない。


『だが自由ではない』


ナギは、はっきりと言った。


「……はい」


それを否定できなかった。


『だからこそ』


声が、低くなる。


『私は、境を引く』


「境?」


『これ以上、踏み込まない場所を決める』


カノンは、胸がざわつくのを感じた。


「それは……離れる、ということですか」


答えは、少し遅れた。


『見ている距離を、選び直す』


それは、優しさの形をした後退だった。


「……寂しいです」


正直な言葉だった。


波が、強く岸を打つ。


『私もだ』


短い答え。


それ以上は、何も言わなかった。




翌朝。


中庭には、神官が三人いた。


歌う前に簡単な確認が行われる。


「体調は」


「問題ありません」


「意識が途切れる感覚は」


「……ありません」


一つ一つ答えるうちに自分の声が“記録されている”感覚が、はっきりしてくる。


歌が始まる。


旋律は、変わらない。

けれど、心の置きどころが違っていた。


海は応える。

以前と同じように。


だが、ナギの気配は、少しだけ遠かった。


――境が、引かれている。


それを、歌いながら理解する。


歌い終えた後、

神官の一人が静かに告げた。


「問題ありません」


それは評価だった。


カノンは、うなずく。


胸の奥で、何かが静かに閉じた音がした。


鍵の音よりも、ずっと小さく。


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