第十二章 声は、国に預けられる
王城からの使者が神殿に到着したのは正午を少し回った頃だった。
銀糸で縁取られた外套。
王家の印章。
それだけで神官たちの背筋は自然と伸びる。
「陛下より、神凪カノン様にお伝えがございます」
形式ばった声だったが威圧はなかった。
カノンは控えの間で、その言葉を聞いた。
不思議と、動揺はなかった。
――来た。
理由も、内容も、完全にはわからない。
それでも、避けられないものが近づいている感覚だけは確かだった。
王子が同席することになったのは
神殿側の配慮だった。
「急な話だ。驚かせてすまない」
歩きながら、王子はそう言った。
「いえ……」
驚いていない、と言うのは嘘になる。
だが、拒みたいとも思わなかった。
謁見の間は、海に面していた。
窓の向こうで、白い帆船がゆっくりと進んでいる。
王は、玉座に座っていた。
噂に聞く通りの人物だった。
穏やかな眼差し。
だが、感情を測らせない静けさがある。
「近くへ」
その声に、カノンは一歩進んだ。
王は、すぐに本題に入った。
「神殿より報告を受けた。歌わずとも海神が応じたそうだな」
「……はい」
「前例は少ない」
王は事実だけを述べる。
「だが、悪い兆候とは限らない。むしろ神との結びつきが深い証とも言える」
神官たちが、わずかに息を詰める。
王は続けた。
「問題は、いつ、どこで、どのように歌わせるかだ」
その言葉で、空気が変わった。
――歌わせる。
王子が一歩前に出る。
「父上。それは、彼女自身の意思を――」
「無論、尊重する」
王は即座に答えた。
「だが、国は備えねばならぬ。海神が応じる以上、歌は“私事”ではない」
カノンは、王を見つめた。
恐ろしい言葉のはずだった。
けれど、そこに冷酷さはなかった。
「カノン」
王が、彼女の名を呼ぶ。
「そなたに、今すぐ何かを強いるつもりはない。だが――いずれ、国として“正式な場”を設けたい」
正式な場。
それは、儀式を意味していた。
「それまでに心を整える時間は与える。神殿も、王城も、支える」
王子が、静かに頷く。
「……私も」
その声は低かったが、確かだった。
「あなたを支えます」
カノンは、深く息を吸った。
「……わかりました」
言葉が、自然に出た。
「まだ、怖いです。でも……逃げるつもりはありません」
王は、わずかに目を細めた。
「よい答えだ」
謁見は、それで終わった。
神殿へ戻る道すがら、王子は何も言わなかった。
代わりに、神殿の門をくぐる直前で、ぽつりと呟く。
「“預けられる”というのは、重い」
カノンは、うなずく。
「はい。でも……」
言葉を探す。
「一人で背負うより、まだ……」
「…そうですね」
王子は、それ以上言わなかった。
⸻
夜。
海は、いつもより荒れていた。
『……聞いた』
ナギの声は、沈んでいた。
「ええ」
隠す理由はなかった。
『国が、歌を求め始めたな』
「まだ、すぐではありません」
『時間の問題だ』
否定できなかった。
しばらく、波音だけが続く。
『……私は、止めるべきだ』
低く、重い声。
カノンは、首を振る。
「いいえ」
即答だった。
「これは、私が選んだことです」
『だが、それは――』
「私が、神凪だから、ではありません」
その言葉に、自分でも驚いた。
「この国で生きてきた人間だから、です」
沈黙。
『……ならば』
ナギの声が、少しだけ遠ざかる。
『私は、境を守る』
カノンは、胸が締めつけられるのを感じた。
「守る、とは?」
答えは、すぐには返ってこなかった。
『歌が始まるまでだ』
それは、約束であり、期限だった。
歌が、まだ置かれていない夜。
だがもう、
歌は――個人のものではなかった。




