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潮の名を君だけが知っている ー海神ナギと神凪カノンの物語ー  作者: 宵待 桜


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第十一章 歌は、境を測る


朝の鐘が鳴るより早く、神殿は動き始めていた。


カノンは自室の窓辺で、その気配を感じていた。


足音。囁き声。布擦れの音。


すべてが、いつもより慎重で、しかし隠す気のない動きだった。


今日だ。


理由はわからない。

誰にも告げられていない。

それでも、身体の奥が先に知っていた。


扉が、静かに叩かれる。


「カノン様」


年配の神官だった。

声に硬さはないが、距離がある。


「朝の祈礼に、お立ち会い願います。歌は……必要ありません」


必要ありません、という言葉が、逆に重く残る。


「わかりました」


カノンは簡単に身支度を整え、神官の後に続いた。



祈礼の間は、思っていたより小さかった。


高い天井も、海を望む窓もない。


あるのは円形の床と、中央に刻まれた古い紋。


「ここは……」


「神凪が“まだ人である”うちに立つ場所です」


神官の声は淡々としていた。


「歌わず、祈りだけを捧げる。神と人の距離を、確かめるための場」


距離、という言葉に、胸がわずかに痛む。


神官たちは円を囲むように立ち、合図もなく祈りを始めた。


言葉は低く、一定の調子で続く。


海神の名。

ルミナリアの歴史。

神凪が“繋いできた”記録。


カノンは中央に立ち、ただ聞いていた。


聞いているだけのはずなのに、意識が少しずつ深く沈んでいく。


――来ないで。


誰にともなく、心の中で思った。


しかし。


『……ここか』


聞き慣れた声が、祈りの隙間に差し込む。


カノンは、息を詰めた。


『呼ばれてはいない』


「……ええ」


声に出さず、応える。


『だが、歌がない分、境が薄い』


確かにそうだった。


祈りは神を遠ざけるためのものなのに、今日は逆だった。


ナギの気配が、静かに近い。


神官の一人が、わずかに眉を動かした。


「……海が、騒いでいる」


別の神官が続ける。


「歌っていないのに……」


ざわめきが生まれかける。


カノンは、思わず一歩踏み出した。


「大丈夫です」


自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


「歌いません。今日は」


神官たちは様子をうかがい、祈りを続ける。


ナギの声が、低くなる。


『無理をしている』


「していません」


心の中で即答だった。


「これは……私が立つ場所です」


祈りが終わるころ、空気は張りつめたままだった。


誰も倒れなかった。

神も、壊れなかった。


だが。


「記録に残しましょう」


年配の神官が言った。


「歌わずとも、神の反応が明確に現れた。これは……前例が少ない」


成功でも、失敗でもない。

だが、“例外”として刻まれた。




夜。


中庭に出ると、潮の匂いが濃かった。


「……来てしまいましたね」


『ああ』


短い返事。


『本来、踏み込むべきではなかった』


「後悔していますか」


間があった。


『後悔と、警戒は違う』


その言葉に、少し笑ってしまう。


「神様でも、そんな言い方をするんですね」


『神だからこそだ』


波が、低く唸る。


『歌わなかったのは、なぜだ』


カノンは、しばらく考えた。


「歌ったら……戻れない気がしたから」


『それでも、いずれは』


「ええ」


否定しなかった。


「だから今日は、境を確かめたかった」


ナギの気配が、ほんの少し揺れる。


『愚かだな』


「そうかもしれません」


それでも、と続ける。


「でも……愚かでも、人でいたかった」


沈黙。


それは拒絶ではなかった。


『……次に歌うとき』


ナギが、初めて先を示す。


『私は、聞くだけでは済まない』


カノンは、目を閉じた。


「それでも、呼びます」


名を。


境を越えないように。

越えてしまうことを知りながら。


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