第十章 歌わないという選択
神殿の朝は、音が少ない。
鐘も鳴らず、祈りの声も抑えられている。
海の気配さえ、石の奥に押し込められているようだった。
カノンは、神殿の裏庭にいた。
ここは公式の場ではなく神官の目も届きにくい。
「ここにいると思いました」
背後から、王子の声がした。
振り返ると、外套を羽織った彼が立っている。公の場より、少しだけ表情が柔らい。
「……皆さんに見つかったら、怒られますよ」
「構いません。私は王子ですから」
冗談めかした口調だったが、すぐに真剣な色に戻る。
「昨夜の制限について、どう思いましたか」
カノンはしばらく黙り、それから答えた。
「守られている、とは思います。でも」
「歌えないことが、苦しい…と」
言い当てられ、カノンは小さくうなずいた。
王子は腰掛けられる低い石に座り、彼女にも促す。
「カノン。あなたには選択肢があります」
「……選択肢?」
「歌わない、という選択です」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
「それは……神凪にならない、ということですか?」
王子は首を横に振る。
「違います。神凪になる前に、“人としての時間”を選ぶ、ということです」
風が庭を抜ける。
「神殿は、歌を求めます。神官は神との距離を測ろうとする」
王子は正面を見据えたまま続ける。
「ですが、私は知っています。歌は、命令で生まれるものではない」
カノンは、胸に手を当てた。
「……私が歌わなければ、ナギは」
言いかけて、言葉を飲み込む。
王子は視線を向けた。
「海神のことですね」
否定しなかった。
「神は、神です。人が一つ選択をしたからといって、すぐに消えたりはしない」
だが、と声を落とす。
「近づきすぎれば、互いを傷つける」
カノンは目を伏せた。
「王子は……私に、どうしてほしいんですか?」
王子は即答しなかった。
「壊れないでほしい」
それだけだった。
「神凪としても、人としても」
⸻
夜。
歌を控えるよう言われてから、初めて迎える夜だった。
カノンは部屋の窓を開け、潮の匂いを吸い込む。
声を出さずに、旋律だけを思い浮かべる。
それでも、海は反応した。
『……聞こえている』
ナギの声は、わずかに遠い。
「歌ってないのに」
『お前が、歌わないことを選んだ』
その言葉に、胸が締め付けられる。
「……それで、どうですか」
『静かだ』
良いとも悪いとも言わない。
カノンは、問いを変えた。
「神様は……歌われなくても、平気なんですか」
沈黙。
長く、深い間。
『慣れている』
その一言に、長い時間が滲んでいた。
カノンは、唇を噛む。
「……私は、慣れたくありません」
その瞬間、波が強く打ち寄せる音がした。
『だから、人は危うい』
責める声ではない。
理解しているからこその言葉。
「ナギ」
名を呼ぶと、海が揺れる。
『呼ぶな、と言ったはずだ』
「ここだけです」
少し、間があった。
『……そうだな』
その妥協に、胸が痛む。
「私、歌わないことも選べます。でも」
続ける。
「それであなたが、遠くなるなら……」
言葉は、そこで途切れた。
『選ぶのは、お前だ』
ナギの声は、揺れていた。
『だが、近づくほど、戻れなくなる』
境界は、まだ完全には引かれていない。
だが、越えれば戻れないことだけは、二人とも理解し始めていた。




