第一章 歌はまだ名を持たない
海のそばにあるその村は地図にはほとんど載らない。
白い砂浜と、低い石造りの家々。
潮の香りは常に空気に混じり、風が吹けば洗濯物が一斉に揺れた。
セイレ=リラ。
それが、この村の名だ。
カノンは、浜辺に腰を下ろし、裸足で波に足を浸していた。
冷たい。
けれど、嫌ではない。
波が引くたびに砂がさらわれ、足が少し沈む。
それを何度か繰り返しているうちに、胸の奥が落ち着いていく。
カノンは、息を吸った。
そして――歌った。
特別な歌ではない。
村の誰もが知っているわけでもない。
ただ、彼女が小さい頃から、自然に口ずさんでいた旋律だ。
意味のある歌詞はない。
言葉は曖昧で、音は波に溶けていく。
それでも、歌っているときだけ、
世界が少しだけ、やさしくなる気がした。
「また歌ってるのか?」
背後から声がして、カノンは振り返った。
「うん」
父のサリュートだった。
漁を終えた帰りらしく、肩には網がかかっている。
「好きだねえ、本当に」
呆れたような笑い方をしながらも声は穏やかだ。
「歌うとね、落ち着くの」
「そうか」
それ以上、何も言わない。
サリュートは娘が歌うのを止めたことが一度もなかった。
家に戻ると、母のカリダが夕餉の支度をしていた。
「浜に行ってたのね」
「うん」
「寒くならなかった?」
「大丈夫」
カリダは一瞬、何か言いたげにカノンを見たが、すぐに微笑んだ。
「じゃあ、手を洗って」
食卓を囲む、いつもの夜。
魚の煮込みと、固いパン。
変わらない日常。
「ねえ、お母さん」
食後、ふとカノンは尋ねた。
「神凪って、本当にいるの?」
その言葉に部屋の空気がわずかに揺れた。
サリュートは手を止め、カリダは一瞬だけ、瞬きを忘れた。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「この前、王都から来た行商の人が言ってたの。神様とお話しできる人がいるって」
子どもの好奇心だ。
それだけのはずだった。
「絵本のお話よ」
カリダはすぐにそう答えた。
「昔の人が神様を近くに感じたくて作ったお話」
「じゃあ、いないんだ」
「ええ」
少しだけ、強い口調だった。
カノンはそれ以上、聞かなかった。
夜。
寝台に横になり、目を閉じても、すぐには眠れなかった。
耳を澄ますと、波の音が聞こえる。
昼よりも、ずっと深く、低い。
(今日の歌……変だったかな)
そう思った理由は、自分でもよくわからない。
ただ、歌っている間、
誰かに“聞かれている”気がしたのだ。
でも、それは気のせいだ。
ここは、海辺の小さな村。
神話は遠く、神様は物語の中にしかいない。
カノンはそう信じて、目を閉じた。
海の底で、まだ名を呼ばれない神が静かにその歌を記憶しているとも知らずに。
※本作は静かな心情描写を中心とした物語です。
物語のテンポや結末については、ご理解の上でお読みいただけますと幸いです。




