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異世界で、魔女と、ぷりんを作る。

作者: 水乃ろか
掲載日:2025/12/08

 金曜日の夜十二時。


 ミナトはカツカツとヒールがアスファルトを蹴る音を立てて、駅前のコンビニの自動ドアをくぐった。


 ミナトの黒縁のメガネの奥に宿る眼光はピリッと鋭く、いかにも「できる社会人」といった風情だが、その実は社会という名の巨大な洗濯機に揉まれ、疲弊の極致にあった。

 

 今日も今日とて残業。

 定時などとっくに過ぎ、皆が浮かれる金曜の夜も、ミナトにとってただの週末前夜に過ぎない。

 

 齢二十八歳。OLとして勤務するミナトは自分が何を成し遂げたいのか、どこへ向かっているのかも分からない。

 目標やビジョンもなく、女として組織で生き抜くために、ただ毎日を組織の歯車として奮闘し、そして削れていく。


 この時間、スーパーはとっくに営業を終えているため、ミナトの生活を支えるのはコンビエンスストアだけだった。

 そこで適当なコンビニ弁当を手に取り、次に彼女が向かうのはデザートコーナーだ。


 これは一週間の激務を生き抜いた自分自身への、ささやかな、しかし絶対的に必要なご褒美だった。


 ミナトが手に取ったのは――『贅沢なめらかカスタードぷりん』。


 これはミナトの定番だ。一口で全てを忘れさせてくれる、濃厚な甘さを欲していた。

 レジで会計を済ませ、重くなったコンビニ袋を下げて、ミナトは店を出た。


 コンビニの自動ドアを出た、その瞬間。


 世界が突然、悲鳴を上げて、歪んだ。


 視界がぐにゃりと崩れ、色が分離する。

 

 そして、足元の硬いアスファルトの感触はふかふかと柔らかい苔に変わり、街灯は発光する巨大なキノコに変わっていた。

 辺りを見渡すと、さきほどまであったコンビニやマンションの姿も無く、ミナトの周りに存在するのは、ただひたすら深い森だけだった。


「え……は?」


 ミナトはメガネの位置を指でクイっと上げた。

 状況を理解しようとする理性が、脳内で警鐘を鳴らし続けた。


 これは、錯覚、幻覚、過労? 疲労などによる幻覚でなければ、一体何だというのか。


 しかし、混乱するミナトの前に、ふわりと宙を滑るようにして、一人の女性が現れた。


 女性は手にランタンを持ち、そして彼女が乗っているのはホウキだった。

 その女性の黒く長い髪が、月の光を浴びて輝いていた。


 その姿は、絵本の中の『魔女』そのものだった。だが、シワだらけの老婆ではない。

 むしろ、ミナトと同じくらいの年齢に見える、はつらつとした表情の女性だった。


 魔女はホウキの上から、優雅な仕草で微笑んで言った。


「おやおや、久しぶりの迷子だね」

 

 微笑んではいるが、その笑顔が逆にミナトの警戒心を強めた。

 ミナトは社会で培った冷静さを振り絞り、理路整然と魔女に問うた。


「あの、ここはどこなんでしょうか? それに、あなたはどなたでしょうか? 私はさきほどまでコンビニに居たはずなのですが」


 魔女はクスクスと笑っていた。


「こんな場所ではなんだから、とりあえず、家へおいで」


 魔女が軽く手を振ると、ミナトの身体が宙にふわりと浮かんだ。

 抵抗しようとする間もなく、身体が誘導されるようにして、森の奥まで運ばれていってしまった。


 連れてこられたのは、一本の巨木だった。

 その巨木の前には、異様な光景が広がっていた。


 巨木の前には、巨大な金属の扉が鎮座している。

 

 森の中に場違いな扉が、ポツンと立っている。


 だが、魔女はその扉を見向きもせずに巨木の方へ向かった。

 そして、その巨木には、窓や戸、煙突が見える。


 魔女が振り返り、ミナトに言った。


「私の名前はエルデだ」


 魔女はそう言うと、巨木の戸を開けて中へ入ってしまった。

 ミナトがポカンとしていると、魔女――エルデが再び戸を開けて、ミナトへ言った。


「どうした、さっさと入れ」


 エルデに促され、ミナトは警戒しながらも、半ば諦めて巨木の戸をくぐった。


 中は木の中と思えないほど広く、そして綺麗に整理されていた。

 アンティークのような家具が並び、暖炉には火がくべられて、壁一面に本棚が収められていた。

 清潔で、温かく、ミナトの殺伐としたワンルームマンションとは対極にある空間だった。


 エルデは暖炉の前の椅子に座り、ミナトに向き直った。


「ようこそ、オヴァドの森へ。迷子さん。そこに座ってくれ。ここの説明をしよう」

 

 エルデと名乗った魔女は、ミナトの質問である、この場所について説明した。

 

 この世界には、この森しか無い事。この世界は、時間が止まった世界であり、季節は永遠に春だという事。

 そして、ここは『永遠に停滞した世界』であるという事。


「そして、私はこの世界を長年、一人で生きている。死ぬ事も無い、永遠の時を強いられている哀れな魔女さ」


 その非現実的な言葉の数々に、ミナトは理解できないでいた。


「なにこれ、もしかして……夢?」


 その言葉に、エルデはニヤリと笑い、答えた。


「……ああ、覚めない夢さ」


 エルデのその皮肉的な響きを含む言葉に、ミナトは思った事があった。


 夢ならば、覚ます方法があるはずだ、と。


 ミナトはエルデに、即座に尋ねた。


「どうやったら、ここから帰れるの?」

「帰る方法……か?」


 その質問に、エルデは視線を逸らした。


 エルデは迷い人が、元の世界に帰る方法を知っていた。

 

 この巨木の前に鎮座する巨大な扉、『帰還の扉』が開く、唯一の方法を。


 それは……『この世界の唯一の住人であるエルデが、迷い人を心から愛すること』。

 

 だが、エルデは過去に、迷い人を誰も愛せなかった。誰も帰せなかった。

 そして、帰れないと知った迷い人たちは、絶望し、泣き、叫び、狂い果てた末に、この世界に溶けていった。


「残念だが、私も見つけられていない。帰る方法が分かるまで、ここで暮らすといい」と、エルデは嘘をついた。


 その時、『ぐうう』という音がなった。ミナトの腹の音だった。

 ミナトは日付が変わるまで、夕飯も食べずにいた事を思い出した。


 そして、手にしたコンビニ袋。そこにあった弁当は、すでに無くなっていた。

 どうやら、こちらの世界に来る時か、魔女に連れてこられた時に失くしたようだった。


 魔女がミナトの腹の音を聞くと、調理台へと向かい、木の実を煮詰めたスープをミナトに差し出した。


「腹が減ってるなら食べるといい。毒など入っていない。だけど、ひとつだけ忠告しておく。こちらの世界の食べ物を口にし過ぎると、少しずつ『人間』の定義から外れていく。完全に染まると、私のようになるからな」

「え……? はぁ、ありがとうございます」

 

 その言葉を聞きつつも、ミナトはスープを一口飲んだ。空腹と疲労は、理性を遥かに凌駕していた。

 スープを飲み干すと、傍らにあるコンビニ袋を思い出した。


「あ、そうだ」


 ミナトはコンビニ袋の中にあった、ぷりんを取り出した。

 ぷりんのふたを、ミナトが開けた、その時。


「そ、それはなんだ!?」


 エルデが、まるで子どもの様に目を輝かせていた。


 ミナトは、その表情に苦笑しながらも、スプーンでエルザに分け与えた。


 エルデは興味深く、ぷりんを見つめて、それを口に入れた。


「……っ!?」

 

 とろけるような甘さが、エルデの舌を、そして心を直撃した。

 数百年ぶりに、エルデの表情が少女のようになり崩れた。


 エルデがぷりんをぱくぱくと食べていると、次に興味を示したのは、その容器だった。

 エルデは目を輝かせて、容器を舐める様に見つめていた。

 

「これは……この世界に無い物質ね。貴女の世界の座標を強く記憶しているようだわ」

「プラスチックの容器、が?」

 

 その言葉に、なにやら魔女っぽい事を言っているなと、ミナトは感じた。

 そして、食べ終わると、エルデがミナトへ言った。

 

「しかし、このぷりんとやらは美味いな! なあ、これを、なんとか作れないか?」

 

 エルデの瞳は、純粋な探究心と熱意に満ちていた。

 

 ミナトも、この世界で何をすればいいかも分からないし、魔女の世話になることもあり、それを了承した。


 そこから、二人の奇妙な共同生活と、ぷりん作りが始まった。

 




 そして、巨木の家に甘く焦げた匂いが漂い始めて、数日が経った。


 ミナトとエルデは、ぷりん作りに没頭していた。

 二人が味わった『贅沢なめらかカスタードぷりん』の再現しようと試みる日々だ。


 材料は、ニワトリの卵に似た幻獣の卵。ハチミツの様な甘さを持つ、妖精が集めた魔力の蜜など、オヴァドの森にある素材で代用した。


 ぷりん作りに、ミナトは残業漬けの日々で培った『効率』や『精度』の癖が抜けなかった。


「もう一度、計量しましょう。火加減は弱火で。ここは理論的に考えて……」


 その顔つきはプロジェクトの締切を前にしたプロジェクトマネージャーのそれだった。

 額にしわを寄せ、黒縁のメガネをクイっと何度も持ちあげていた。


 一方のエルデは、全くの逆だった。


「ふむ、工程が多すぎるわね。こんな時は魔法で……!」


 ぷりん作りに、ミナトは仕事の癖で計量や温度管理にこだわり、エルデは魔法で工程を短縮しようとしては……二人は失敗を続けた。


 失敗したぷりんの山を前に、エルデはしょんぼりとうなだれ、ミナトは眉間の皺をさらに深くしてメガネがずれていた。


 エルデはミナトの表情を見て、唐突に吹き出した。

 エルデは笑いながら、ミナトの傾いたメガネを指でそっと押し上げた。


「笑って、ミナト。甘いものを作るなら、甘い顔をしたらいいんじゃないかな」


 エルデの屈託のない笑顔に、ミナトの張り詰めていた緊張が一気に緩む。


 失敗したぷりんや、甘すぎるスープのようなぷりんを、二人で笑いながら食べる日々。


 ミナトの日常には、笑い声などなかった。殺伐としたオフィスで、誰かを出し抜くか、上司に媚びるか。そんなギスギスした感情ばかりが日常を占めていた。

 だが、この森での日々は、失敗と笑いに満ちていた。失敗したぷりんの残骸と、エルデの無邪気さ。


 それは、ミナトの棘だらけだった心を、少しずつ、確実に溶かしていった。


 そんな日々の中で、ミナトは自分の身体に、奇妙な変化を感じ始めていた。

 ある日の午後、ミナトはふとメガネを外した。

 裸眼で周りを見て見ると、驚くほど焦点が合い、はっきりと見えたのだ。


「あれ? メガネの度が合わなくなってる?」


 近視が改善されたというより、まるで眼の機能そのものが高まったようだった。

 さらに顕著な変化は、小さな傷の治り方だ。熱した鍋に一瞬触れてできた火傷が、瞬く間に皮膚の表面から消えていく。

 

 エルデは、ミナトの指先の変化を心配そうに見つめていた。

 エルデが忠告した、「こちらの世界の食べ物に染まる」ことによる変化が始まっているのだ。


 だが、ミナトはそれを笑い飛ばした。


「頑丈になって残業に耐えられるなら好都合よ。もう、あっちの世界の疲労になんて負けないわ」


 ミナトの言葉を聞いて、エルデは胸の奥で複雑な痛みを覚えた。

 ミナトが変わっていく。

 心も身体も。この世界に馴染み、いずれ自分と同じ『人間』の定義から外れてしまう。


 それは、ミナトを永遠にこの停滞の場所に留めることを意味していた。


 その日の夜。

 

 狭いベッドに、二人は身を寄せ合って眠っていた。

 ミナトは、ぽつりと独り言のように漏らした。


「私は、あっちの世界で何になりたかったんだろうなぁ」


 ただ目の前のタスクをこなし、出世を目指し、目標を持てと怒られていた。

 だが、その目標の先に何があるのか、一度も想像したことはなかった。


 エルデは、ミナトの問いに真剣に答えた。


「ミナトなら、何にでもなれるんじゃない?」

「……ふふ、そうかな?」


 ミナトは、久々に心の底から笑った。その横顔は、初めて会った時のピリついたミナトとは別人のように穏やかだった。


 その笑顔を見た瞬間、エルデは決意した。

 

 ――私が貴女を好きになれば、帰還の扉は開く。


「そうだよ。それに、ここにいつまでも居られるのも迷惑だしね。そろそろ帰る方法を探してもらわないと」

 

 それは、ミナトを帰すために『ミナトを好きになる努力』を始めるための嘘だった。


 それから、数日が過ぎた夜。

 

 エルデは、ミナトが持ってきた『贅沢なめらかカスタードぷりん』の空のプラスチック容器を手に取った。


「これに、私の魔力を込めた『森の種』を入れておきましょう」


 エルデはそう言って、淡く緑色に光る小さな種を、容器の底に一つ入れた。


「いつか、貴女が帰る時、道に迷わないための道しるべとなるわ」


 それは、ミナトへの愛が完成した時、彼女が元の座標へまっすぐ戻れるようにするための、魔女の密かな願いが込められたお守りだった。



 

 そうして、オヴァドの森での共同生活にもすっかり慣れた頃。

 巨木の家のキッチンからは、失敗の焦げた匂いではなく、甘く芳醇な香りが満ちていた。


 そしてついに二人は、記憶の中の味を遥かに超える『最高のぷりん』を完成させた。

 二人で試行錯誤を重ねた効率的な手順と魔法による繊細な火加減。

 その全てが融合した結晶だった。


 暖かく柔らかな陽光が差し込む巨木のバルコニー。

 そこで完成を祝うかのように二人は向かい合わせに座り、まだ少し温かい黄金色のぷりんを、そっとスプーンで掬い上げた。


 「……美味しい!」


 先に口にしたミナトの唇から、小さな吐息と共に喜びの言葉が漏れた。

 その顔には、一週間分の激務に疲弊し、コンビニのぷりんだけが拠り所だった頃の硬い顔つきは、もうどこにも見当たらない。

 ただただ満たされた、やわらかい少女のような微笑みだけがあった。

 

 その無垢な笑顔を見た瞬間、エルデの胸に、温かく、そして激しい感情の奔流が押し寄せた。


 これは、「彼女を帰すために好きになる努力」で芽生えた感情などではなかった。

 もう、どうしようもないほど、この異世界の迷い人――ミナトという存在そのものに、エルデは惹かれてしまっている。

 長い孤独の中で凍てついていた心が、今、溶けていく熱を確かに感じた。

 

 しかし、至高のぷりんを味わったミナトの口から出た言葉は、エルデの予感とは裏腹のものだった。


「……私、もう帰りたくないかも」


 元の世界に戻れば、待っているのは、ただすり減るだけの日々。

 だが、ここには穏やかな日常と、無邪気に笑うエルデがいる。


 ミナトは身を乗り出しエルデの手をそっと握り、真剣な瞳で言った。


「ずっとここに居てもいいかな? こんなに毎日が充実して、幸せを感じられるなら、いっそ一生、ここでお菓子作り職人として雇ってくれない?」


 エルデはそれを冗談だと思って、クスクスと笑った。


「いいわよ。私は永遠に死なないけど、永遠にお菓子作りに付き合ってくれる?」


 ミナトは黒縁のメガネを指でクイっと上げ、いつもの「できる社会人」の顔つきで、しかし心の底からの言葉を紡いだ。


「ええ、ぜひ留まりたいわ。これで……契約成立ね」


 ミナトはそう言うと、最高の、屈託のない笑顔を見せた。


 その瞬間、エルデの胸は張り裂けそうになった。

 ミナトの心の底からの願いと、その無防備な笑顔が、エルデのミナトへの愛しさが限界を超え、とめどなく溢れ出したのだ。


 ――その瞬間、空間が震えた。


 皮肉にも、ミナトが「この世界に留まりたい」と願ったその瞬間に、エルデの彼女への愛が『完成』し、帰還の扉が反応し始めたのだ。


 エルデは悟った。


 自分がミナトを心から愛してしまったからこそ、彼女をこの「時間が止まった牢獄」に閉じ込めてはいけない、と。


「……やっぱり、だめだよ、ミナト。貴女は……帰るの」


 エルデは涙をこらえ、ミナトの温かい手を振り払うことなく、むしろ強く握り返した。


「貴女には生きている証がある。進むべき場所がある。ここは、終わった人たちの場所だから」


 互いの想いが通じ合った瞬間、森の空に眩い光が閃き、轟音と共に、次元の狭間から光が溢れ出す。


 ついに、帰還の扉が開き始めた。


 ミナトはその光景と、エルデの悲痛な表情を見て、状況を察した。


「嫌だ! エルデ! 私はここにいる!」


 ……扉が開いている時間は短い。

 

 ミナトは抵抗するが、エルデは淡く緑色に光る『森の種』が入ったプラスチックのプリン容器を、ミナトのポケットにねじ込んだ。

 そして、魔力を込めた風を起こし、ミナトの身体を帰還の扉へと押しやる。


「行って! ……ミナトと作ったぷりん、美味しかった。ミナトのこと……愛してる」

「エルデ!!」


 絶叫するミナトを、光の渦が容赦なく飲み込んだ。


 最後に一度だけ、二人の目が合った。


 泣きじゃくるミナトと、精一杯の笑顔を作った魔女。


 帰還の扉は無情にも閉じ、光は消滅した。


 ……


 …………


 ………………


 気が付けば、ミナトは蛍光灯が眩しいコンビニエンスストアの自動ドアの前に立っていた。


 スマホを確認すると、画面には金曜日の午後十二時の文字。

 ミナトがオヴァドの森へ旅立つ直前の時間だった。

 

 手にはレジ袋。

 その中には弁当と、『贅沢なめらかカスタードぷりん』が入っていた。


 ……夢だったのか?


 だが、ミナトの胸に、その疑問は一瞬たりとも留まらなかった。

 それは、甘く、温かく、そして激しく、ミナトの全存在を定義し直すほどの確かな日々だった。

 

 エルデとともに試行錯誤を重ねたぷりんの味。

 巨木の家で笑い合った、殺伐とは無縁の日常。


 そして、最後に突きつけられた、残酷な現実。


「私の、進むべき場所? そんなの……誰が決めたのよ」


 ミナトは自嘲するように唇を歪ませ、いつもの癖で黒縁のメガネをクイッと指で持ち上げた。

 同時に、スーツのポケットの中に、異様な固さの違和感を感じた。


 ポケットの中に手を突っ込み、その小さな異物を取り出した。

 これは、エルデが別れの瞬間に、ミナトの制止を振り切ってねじ込んだものだ。


 それは、見慣れたプラスチック製のぷりんの空容器。

 そして、その中には淡い緑色の光を放つ、小さな種が入っていた。


 ミナトは思い出した。

 エルデは、このぷりんの容器を「貴女の世界の座標」と言っていた。


 ならば、この種は、エルデの世界の座標ではないか。


 そして、エルデとの間に成立していたはずの『契約』。


『留まりたいわ。これで……契約成立ね』


 それはミナトの心の底からの願いだった。

 

 契約は破棄などされていない。

 これでは、一方的に解雇されただけだ。


「……労働基準法違反だわ、エルデ」


 ミナトは、その種の光を握りしめ、コンビニの自動ドアのセンサーに、強く突き出した。


「開け! 私はまだ、二人で作った最高のぷりんの味を、忘れていない!」


 ミナトの怒りと決意が込められた声。


 世界が悲鳴を上げた。


 コンビニのガラス窓はひび割れ、アスファルトの地面は波打ち、空間がぐにゃりと歪んでいった。


 ◇◆◆◇◆◇ ◆ ◇◆◇◆◆◇


 ミナトが元の世界へ帰された後のオヴァドの森には、静寂が戻っていた。


 巨木の家。


 二人分で淹れたはずの紅茶が、湯気ひとつ立たないまま冷たくなっている。

 

 エルデは部屋の隅に座り込み、二人で食べたテーブルに残された空のぷりん容器を、焦点の合わない瞳で見つめていた。


 耐えきれず、顔を覆い、その場に崩れ落ちる。


 慟哭が始まる。


「う……うああああっ……」


 愛を知ってしまったからこそ、その喪失は数百年分の孤独を一瞬で濃縮した毒のように、エルデの魂を焼いた。


 ミナトがいない、この終わりのない停滞の日々は、愛を知る前の孤独とは比べ物にならない、真の「永遠の地獄」に感じられた。


 巨木の壁に打ち付けられるようにして、エルデの悲痛な叫びが森の木々を震わせた。


 もう二度と会えない。


 ミナトは「生」の世界へ戻り、自分は「不変」の世界に残る。


 それが、最愛のミナトのために下した、正しい決断だった。

 そう言い聞かせても、涙は止まらない。永遠に。


 その時だった。


 乾いた木材が悲鳴を上げるような音と共に、玄関の扉が勢いよく開いた。


 エルデは顔を上げた。

 幻聴だと思った。


 ――そんなはずがない。


 そこには息を切らしたミナトが立っていた。

 黒縁のメガネは歪み、皺だらけで土埃にまみれたスーツ。


 息を吸うことすら忘れて、喉がかすかに鳴る。

 

 ミナトが確かにそこにいる。


「……え? どうして……扉は、もう……」


 エルデが愕然とする中、ミナトは大股で歩み寄り、座り込むエルデを力一杯抱きしめた。


 温かい。

 数百年という時を経て、今初めて、エルデの魂が本当に求めていた確かな体温。


 そして、愛おしい命の音――心臓の鼓動が、はっきりと聞こえた。


「エルデ、私、戻ってきた」

 

 ミナトはエルデの肩に顔を埋めながら、震える声でそう言った。


「あっちに戻った瞬間、すぐにまたドアを開けたの。エルデが残した座標を鍵にして。そしたら、また繋がった」

「そ、そんな……駄目だよ、ミナト。貴女には、貴女の世界が……」


 エルデの悲痛な言葉に、ミナトは顔を上げ、涙目のまま、かつてのピリっとした強気な瞳でエルデを見据えた。


「私の人生は……私が決めるわ」


 ミナトはそう宣言し、そして、心からの柔らかい笑顔を見せた。

 そして、ミナトはエルデに力強く言った。


「……夢はね、いつまでも覚めないの」


 それは、かつてエルデがこの世界に抱いた皮肉を打ち破り、これからの二人を永遠に縛る、幸福な契約の言葉だった。


 エルデの目から、また違う種類の涙が止めどなく溢れる。


 二人は抱き合い、いつまでも笑い合った。


 窓の外、季節が変わらないはずの森に、変化が訪れていた。


 二人の足元から広がるように、初夏の花が一斉に咲き始めていた。

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