葛藤
白羽の矢が立つ、という言葉がある。現在は多数の中から一人を特別に選ぶ。もしくは、選抜や抜擢などの意味として使用される。しかし、白羽の矢には古来、少女を人身御供として求める神がおり、神が欲しいと思った子の住む家の屋根に白羽を立てたという言い伝えがあった。即ち、犠牲者を選ぶ、いう意であった。
ついに明日、神が白羽の矢をどこかの家の屋根に打つ。どこかはわからぬ。毎年村祭りの日と決まっている。その次の晩に娘は食われる。今年はうちであるかもしれん。うちの花は7歳になった。どこの家かも構わず毎年一人は連れてゆかれるので、だんだん近頃はうちの村にも若い娘の数が少なくなってきた。娘が生まれた家でも、多少金のあるやつや、親類が他の村にいるものは逃げて行ってしまう。
卑怯者どもめ。貧乏人にはいつも逃げ場がない。金にも人にも追い詰められてばかりだ。村の連中にも俺にぎこちなく話しかけるやつが出てき始めた。俺の娘が選ばれると思っていやがる。他の家だって娘がいるじゃねぇか。どうして俺にだけそんな対応をするんだ。中には、仕方ないことだと、そういう顔ですましているやつもいる。なにがしかたねぇだ。自分に関係ないからって割り切りやがって。許しちゃおけねぇ。俺の花の代わりにお前らが食われればいいんだ。お前んとこのじじいでも差し出したらどうだい。いちいち鍬の振り方を指摘してくる村外れの田口をくってくれりゃあいいんだ。あんな奴食われてしまえ。俺が食ってやっても構わねぇ。
茂吉の胸中は怒りに満ちていた。普段はこんな男ではない。いつもへらへらとして空気を和ませるような穏やかな男であった。それゆえにすべて自分の方法が正しいと思っているような連中から逐一無用な小言を受け不満が募ることがあった。優しい友人たちは彼を見かねてごくまれに茂吉が話す愚痴を酒の肴にしていたものだった。
村は明日の祭りの準備で活気がある。一人の娘が犠牲になることも、毎年の恒例となれば、誰も気にするものはない。予定された不幸は自分に関係がなければ、何の重荷でもない。
村祭りのやぐらのそばに何やら人が集まっている。どうやら旅の坊主が来ているらしい。たまに来るが大抵布施がどうだの仏がどうだの言って数日でいなくなる。あいつらはどこへ向かっているのだろう。どこへも帰る場所がないはずなのに。問い詰めてやりたい。今日はそんな気持ちになる。人ごみの一番外側で少し話を聞くことにした。
「いやあぁ明日が村祭りとは私も運がいい。私は祭りごとが好きでしてなぁ。いや何も政治の方じゃありませんがね。あら、伝わってねぇや。そうしたらぁ、どうでしょう皆さん、私は先日見てきた立派な立派なお寺の話でも。聞きたいお方は手を挙げて。」
弁の立つ坊主らしい。村の連中は若いのをはじめとして嬉々として手を挙げている。どうやらこれが一つ目の話ではないら。もう一回伊勢の話をしてくれ、などと叫んでいるものもいる。
聞いていこうと思った。家には帰りたくない。あの子の顔を見ると、もし選ばれたらと思うと、つらくなる。
「私の先日お世話になりました寺は光前寺と言いまして、いや何もここから遠いお寺じゃございませんよ。どうだろう半日もあれば、間違いなくつきますとも、そうそこのおばあさんでもね。しかししかし、そんな近場に立派な寺があるなんて皆さんの方が幸せ者ですよ本当に。そこには三重塔もございましてまぁきれいなもんです。木々に囲まれて美しい葉の緑によくお堂の色が映えて、それはそれはうつくしいもんでしたよ、ぜひ見ていただきたいもんですな。あれをみればもうお経を千回唱えたも同じぐらいのご利益が得られるに違いなし。そこにいる若いもんたち冗談じゃないよ。行ってって帰ってくる頃にはきれいな嫁を両手に持って帰ってくるかもしれないよ。もう片手にきたなくてうるせぇのがいるって?怒んないでよ、俺が言ったんじゃないよ、奥さん。あんたの隣の亭主だよ。亭主が言ったんだよ。そんでね、それが本堂じゃないわけ、なんと立派な本堂があるんだよ。そんでそこのそばに裏山から水が流れてきてて、それのまあなんとうまいこと。冷たいんだけどねぇ。うめぇうめぇって飲んでたら、そこのお坊様が寄ってきてこれはね延命水っていうんだよ、まるで命が伸びるような心地だろう。っていうわけ。その通りだと思ったね。あれはほんとにいいよ。奥の暗い顔したお兄さん!あんたにもってきてやりたいぐらいさ。」
旅の僧は茂吉を指さして言った。村の者は誰が指さされたもんかと笑いながら振り返って、ぞっとして笑うのをやめて目をそらした。暗い顔をしていて当たり前なことを村の者はみんな知っているのだ。あんなに盛り上がっていた人だかりもしんとなって、みんなどこかへ歩いて行った。旅の僧だけがぽかんとして、化かされたように首をかしげながら茂吉を見ていた。
そんな顔もしているだろうさ。茂吉はそう思った。とぼとぼと家へ歩いてゆく茂吉にあの僧が駆け寄ってきた。
「もう少し稼げるかと思ったが、どうやら何かしでかしちまったらしい。お兄さん。あんた何か事情があるんだろ。村の全員が知っているようだが、いったい何があるんだい。」
「こんなところでは話したくない。どこで話しても仕方ないことだが。あんたみたいな人がいると、うちもにぎやかになるかもしれない。うちへ寄っていくかい。どうせ宿なんかないんだろ。」
「それはありがたい。ぜひ。」
僧は名を一実坊弁存と言うそうだ。茂吉の家に着き、事情を聞いた茂吉の妻が少し早い夕食を弁存のために作った。妻は祭りの日が近づくにつれ、食が細くなっており、家には米が余っていた。その分を弁存に回したので、山盛りとなった茶碗を食らいつくした弁存は満腹になった。夕食の後に、彼はこの家に染み付いた絶望の理由を真摯に聞いた。その姿が追い込まれていた茂吉と妻の心を少し和らげた。余計な口をはさむことなく、茂吉のしぼりだした声でおこなわれた説明を聞き終わった僧は胸を裂くような悲しみを彼らに伝えたのち、その後に声を荒らげて叫び始めた。
「神がそんなことをするはずがない!荒ぶる神とはいえそんな悪行は聞いたことがない!これは間違いなくも神の名をかたる化け物の仕業であるに違いない!この村を襲う化け物から必ずやあなた方の娘さんを救ってみせましょう。この一食の御恩返しでございます。しばしお待ちを化け物の首を取ってあなた方にお見せします。」
そう叫んで茂吉と妻の手を強く握って僧は家を飛び出していった。二人顔を見合わせて、とんだ詐欺師に会ったものだなと笑いあった。この家に久々に笑い声が響いた瞬間であった。
長い昼寝から目覚めた娘の花にご飯を食べさせて、茂吉は花と遊んでいた。まるで別れを知らぬ娘はいつもと変わらぬ様子で遊んでいた。いつもと違い全力で遊んでくれる父と遊んで疲れてしまったのか、日が落ちるとすぐ寝てしまった。茂吉と妻も眠りにつくことにした。川の字で寝た。
布団の中で茂吉は当然眠れずにいた。今宵、化物がもし我が家の娘を選んだら、もう俺はこの子に会うことはできないのだ。明日の夜には村の神社に置いて、一人減ったうちに帰ってこなければならない。神社に連れてゆくときに、この子がもし起きていて、俺を引き止めたらどうしよう。俺はまっすぐ家に帰れるだろうか。そんなことはできそうもない。俺にはもう娘を救うことはできないのだ。もう何もできないのだ。
退けることのできない不安が茂吉を襲い続け、もはやどれほどの月日がたっただろうか。娘が生まれたあの日から。それとも、妻の大きくなってゆく腹を見ていた時か。少しずづ大きくなってゆくその不安は茂吉を追い込んでいった。善人の柔らかな笑顔を、峭刻とした、にらみつけるような眼光を常にぎらぎらさせている不幸な人間にしてしまうほどに。そして、ある時に彼のなかの中に現れ、本来彼の心を満たしていたはずの、残されたわずかばかりの良心が決壊し、胸の奥に封じ込めていた、残虐な想像性が、この瞬間に結実した。
茂吉は起き上がった。口を開けて眠る丸い顔の娘の頭を撫でて、口を閉じさせようと唇を優しくつまんだ。娘はすぐに口を開けた。閉まらぬと知っていたけれど、この安心した寝顔を見て茂吉は微笑んだ。奥に寝ている妻のほうの方を見て、小さく、いってくる、と呟いて、決心した様子で茂吉は家を出た。
神社にはこれまで村祭りの日の夜に刺された白羽の矢が奉納されている。化物の矢を神聖視しているわけではないが、焼くわけにも捨てるわけにもいかず、矢は神社に置いてある。茂吉はそれを盗んで、他の娘のいる家に突き刺すつもりである。つまり、化物の仕業に見せかけて他の娘を犠牲にするのである。
茂吉は暗闇の中を神社に向けて足音を立てぬように歩いていた。焦りに背を押されて速足になっていた。俺は今から殺人を犯すのだ。覚悟とも恐怖ともいえない何かが彼を神社に向かわせ、また時には引き返させようとした。殺すのだ。俺は自分で選んで人の命を奪うのだ。自分の心に言い聞かせるようにして、彼は頭の中でその言葉を繰り返していた。暗い夜道であった。
神社がもはや眼前に見えて、茂吉は恐ろしくなってきた。今なら引き返せると一体何度思ったことだろうか。しかし、ここで引けば、自分の娘が死んでしまうかもしれない。自分のところの娘が選ばれるわけではないと気休めを友人が言ってくれた。そんなことは当然わかっている。しかし、もし、あの矢が我が家の屋根に刺さっていたら、その想像が茂吉の頭を離れることはなかった。もうやるしかない。これしか俺にはない。諦めが彼に覚悟を決めさせた。茂吉は神社に入り、社の扉を開けた。
神社の奥に丁寧に立てかけられた白羽の矢を見て、彼は一番新しい去年の矢を掴み、社の扉を静かに閉めて走り出した。矢を指す家はもう決まっている。村祭りの夜は誰も家から出ない。出るやつもいるかもしれないが、もはや気にはしていられない。屋根に矢を指すときに必ず音は出る。茂吉は音を隠すことなく、大胆に走り出した。白羽の矢を手にした時点でもはや言い逃れはできない。もう引くことはできない。覚悟を決めるしかない。諦めに背を押されたはずの彼が覚悟を胸にまっすぐに走っていた。
家の裏に梯子の立てかけてある家に着いた茂吉は、屋根に立てかけた梯子を上り歯を食いしばりながら、矢を握った。やるしかない、やるしかないんだ。俺を許すな。俺を許さないでくれ。俺が悪いんだ。自分に言い訳と諦めを言い聞かせ、茂吉は屋根に矢を刺した。茂吉は家に帰った。
家に帰ると妻が娘を抱きしめて寝ていた。茂吉は自分の布団の上に座り、妻の手を強く握った。茂吉は起きていなければならない。もし、化物が我が家に現れた場合、白羽の矢が二本あることになってしまう。そうなれば、どちらかの娘が、といよりもどちらの娘も生贄にさせられることだろう。朝日を待って、我が家の白羽の矢を抜かば隠さねばならない。茂吉は家の戸をにらみつけ朝日を待った。妻が手を握り返していることにも気づかずに。
朝日が部屋に差し込んできたころに、誰かが戸を激しくたたく音がする。茂吉は目覚めた。気絶してしまったように、彼は座ったまま眠ってしまったのであった。ぞっとして、彼は家を飛び出た。友人が涙を流しながら、よかったなお前本当によかったな、と言っている。この友人は特にうちの娘のことを気にかけてくれていた。こいつも自分のように気が触れてしまったのかと思った。茂吉の腕を引き、友人は村の大通りへ茂吉を引っ張っていった。大賑わいの大通りの中心にはまだぽたぽたと血の滴る化物の首を携えた弁存と犬がいた。
夕方茂吉の家を飛び出した弁存は、村の者に化物の話を聞きまわっていた。化物の足音を聞いたことがあるという村民の家の裏に夜になると潜み、化物の出現を待っていた。夜が更けた頃、人ならざる者の足音がして、弁存は物陰から素早く化物の方を見た。巨大な猿のようであった。ただ、その化物が何かを言っている。耳を澄まして、その言葉に耳を傾けた。
「早太郎には知られるな。早太郎には知られるな。」
弁存は早太郎という名に聞き覚えがあった。先日訪れた光前寺の犬の名であった。そのことが頭によぎった途端に、弁存は光前寺へと駆けだした。老婆の足でも半日で着く距離の光前寺は弁存にかかれば三時間ほどで着いた。光前寺の僧たちは弁存の尋常でない様子とその話に気圧されて、早太郎の力を貸してほしいという願いをすぐに承諾した。犬であれど、化物の恐れる犬だだけあって、弁存が首に縄をつける前に、何かを感じたのか、早太郎は既に寺の門のそばに立っていた。
早太郎とともに弁存は村に走った。村に着いた時には既に化物の姿はなく、茂吉は機を逃したと思った。すると、早太郎が弁存を導くように山へ歩き出した。疲れを一切見せぬ早太郎は早々に山の洞窟にあった化物の住処にたどり着いた。早太郎は中に飛び込んでいき、数十分の後に、血の滴る茶色の毛を朝日に輝かせながら、ゆらゆらと出てきた。弁存はおそれおののきながらも早太郎の頭を撫でで、洞窟の中にいた化物の首を取って村へ戻ってきたのであった。
力の抜けた茂吉は、はは、と笑って、その場にゆっくりと座り込んだ。茂吉は振り返って、自分の家の方を見た。娘を抱いた妻が困惑した顔で家の前で立っている。朝日に照らされてできた矢の影が妻の顔を隠しながら。