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廣世とおれは、この世界では、まずフランスの片田舎に飛ばされた。
半年後に、日本に戻った(行ったというべきか?)。
国籍などは、最初に彼がフランスで入院中、おれが揃えた。この時代のコンピューセキュリティーは、eatの敵ではなかったのだ。
東アジア数国にしか存在しない、戸籍の捏造には苦労したが……。
いろいろあって、廣世はその才覚を発揮し、F電子産業に就職した。
おれは、保険事務所に住みついた。
そのおれの記憶で半年前に所長の塚田が急死した。事務の女の子を除けば、もともと二人で仕事をこなしていた。だから面倒なので、事務所の名前は変えなかった。事務員も更新していない。
廣世はその後、社内結婚した。遠くから見ているおれにも、結婚相手はよくできた女だとわかった。
おれは、いまでも一人身だが、行きつけのクラブのホステスとときどき遊ぶ。ときどき混乱して、おかしなことを口走るようだが、彼女は気にしない。気にしているとわかるときもあるが、口には出さないし、態度も変えない。
そういえば、かつてこんなことがあったような気もする。
ふいに世界が割れるような思いに囚われたのだ。
女とことの最中に……。
すると、その思いと連動するかのように、女の顔がおれの目の前でめまぐるしく変化した。
身体も同様に脈動している。
柔らかい、硬い、大きい、小さい。
艶かしい、冷淡、スリム、ふうわり……。
そのとき挿入していたら、そのまま射ってしまいそうな動きだった。
嘔吐しそうな、極端に不安定な精神状態とは一切関わりなく。
止めてくれ!
そして女の顔は元に戻った。
元に戻ったと思わされているだけかもしれなかったが、そう思いたかった。
おれはベッドから起き上がると、台所に行き、心ゆくまでゲエゲエと吐いた。
後は、なるようになった。
踏み切りの音が聞こえてきた。
さて、これからどうしたものか?
跡をつけてくる者もいなかったので、一度事務所に戻ることにし、おれは駅で始発を待った。
事務所に帰ると客が来ていた。
まだ七時にもなっていないのに、ご苦労なことだ。
事務員の高瀬累子もまだ出勤していない。来るのは早いが、それでも七時半頃だ。
「悪いとは思いましたが、中で待たせていただきましたよ」
ソファに座った二人のうち、偉そうな方がいった。恰幅がよい。だがそれは、まだ大半が筋肉のようだった。服は渋いグレーのダブル。内ポケットに何が入っているのか見当もつかない。
「仕事の依頼ですか? 先に連絡を入れてくださればよかったのに」
「連絡がとれなかったんだ」
連れの若い男が、口を尖らせていった。針金みたいな体躯をしている。青いスーツと黒いサングラスが決まっていた。髭もあたってある。彼も強いのかもしれない。
「昨日からずっと電話し続けておる」恰幅のよい方が繋いだ。
「ずっと出かけていたんです」おれは答えた。
客たちの前をまわって所長用のデスクまで歩き、その端に乗っている電動ポットのスイッチを入れる。ポットの水は、夜、帰りがけに、高瀬累子が換えていく。自分が出社したときスイッチが入っていなければ、当然のように水を取り替えて沸かす。
「事務所に連絡をくださいましたか?」
「事務員の女は居所を知らないといった。携帯番号を教えろといったら、機種が変わって、番号も変わったと応えた。一応、前の番号は教えてくれたがね。しかし、かけても繋がらなかった。仕方がないので、直接ここに来た。明日になれば帰ってくるだろう、と事務員がいったからだ」
「それはどうも、失礼しました」
「客商売だろう、あんたんとこも? 潰れるよ」
「相済みません」
「では、用件に入らせてもらう」
恰幅のよい男は、部下の青色針金に持たせたスーツケースを机に載せた。
そこで、おれはやっと腰をおろした。化粧机を挟んで客たちの対面に座る。スーツケースが開けられ、ファイルが引っ張り出された。さらにその中から一葉の写真が……。
「この男を捜して欲しい」
おれは、あっと叫んで、ついで、はっと息を飲み込んだりはしなかった。写真の男は廣世だった。
「誰です?」
至極当然の質問だ。
「知っていると思うが、ここからでも車で一時間程のW市T区にF電子産業の研究所がある」
「はい」
「そこのソフトウェア研究員だ」
おれはしげしげと写真を見つめた。わりと最近の写真だろう。まるで結婚したてのような、幸福そうな男の表情で写っている。廣世が結婚したのは、約一年前だ。
「この人がいなくなったんですね」おれは訪ねた。「横領とか、そんなんですか?」
「刑事事件なら警察の方が優秀だよ」恰幅が答える。「いなくなった。単にそれだけだ。誘拐されたのかもしれんが、脅迫状はまだ届かない。いなくなってから、すでに一週間経つ」
「ということは、死んでいるかもしれませんね」おれが答えた。
すると――
死、という言葉を聞いて、青色の針金スーツが露骨に嫌な顔をした。きっと、人前では簡単にいってはならないNGワードだったのだろう。
「家出人の捜索願いは出したんでしょうね」
「それは、家族の方から出ている。もっとも身寄りは妻だけだが……」
「家出人の捜索だって、警察の方が優秀でしょう」
「彼らにやる気があればそうだろう。だがこの件では、真面目に採り受けている感じはしなかった。死体でも出れば真剣に背後調査をするかもしれんが、それでは遅いのだ」
「死んではいないという確信がおありですね」
「そんなのもはない。ただの勘だ。しかしわたしの勘は、これまで外れたことが少ない」
「どうしてこちらに?」
「高久という調査員に興味を持ったからだ」
「それは?」
「自分の方がよく知っとるだろう」
そのとき、右脳がほんの微かだけ共鳴した……ような気がした。気のせいだったかもしれないが……。
「まあ、いいだろう。こんなにお喋りになったのは久しぶりだ。きみはわたしに似ているのかもしれん」
「恐縮です」
「業界では、きみはそこそこ有名人だ。やり手の調査員として評価されはじめた。商売をはじめてから二年だから、悪くない評価だ」恰幅が思い出すように首を捻った「電子機器を騙すのが得意らしいな。知り合いの経理の男がぼやいとったよ。なんだあいつは、と。ま、秘密を明かせとはいわんがね。そして、人探しも上手い。さらにいえば、速くて安い」
「牛丼ですか?」
「誉めてるんだよ」
「恐縮です」
「手段は問わない。だが、危ない真似はするな。するときには、前以ってわたしに連絡しろ。ここが連絡先だ」
恰幅のよい男は名詞を渡した。社名はなく、伊達貴彦、とだけ記されていた。あとは連絡番号のみ。
「F電子産業の方には話をつけた。わたしの名前をいえば、大抵のことは大目に見てくれるだろう」
「まだ引き受けるとはいっていませんよ」
瞬間、青色針金が身を堅くする。だが、それに気を止めるでもなく、
「そんなことはないさ。きみは引き受ける」
大した自信だった。
「それも自由意志で。そうでなければ、こんな唐突な依頼は引き受けんだろう。別の興味でもあれば別だが…… だから朝っぱらから、出向いて来たのだ」
「誠にもって恐縮です」
「で、どうなのだ。引き受けてくれんのかね?」
「あなたと廣世さんとの関係は?」
「見つけ出したら教えてやろう。成功報酬というのではどうだ」
「わかりました。お引き受けいたしましょう」
そのとき、ちょうど湯が沸いた。
インスタントですが、と断って、コーヒーを入れた。三人分。本当は二人分にしたかったが……。
「当座の経費は、そこに置いておく」
いって、伊達はやけに膨らんだ封筒を机の端に乗せた。
「残りはカード決済にしてくれ。いろいろと煩い者がおってな……」
青色針金がしぶしぶといった風情で、おれにカードを渡す。
「成功時には、きみの上のランクの報酬を払おう」
おれの目を見ながら、ゆっくりと伊達がいった。ついで、急に時間が惜しくなったとでもいうように、
「用件は済んだ。失礼しよう」
ソファから立ち上がると、事務所を去ろうとした。
「あ、ちょっと待ってください」おれは訪ねた。「捜索の期限はいつまでなんです?」
「早ければ早いほどよい」伊達は答えた。「だが、一月経っても見つからないようなら、諦める」
「どういうことです?」
「他の担当者を捜す、ということだよ」
それだけいうと、伊達たち二人は事務所を去った。