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きれつ  作者: り(PN)
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 目的のアパートに向けて駐車場横の路地を曲がった途端、後ろからむんずと襟首を引っ張られた。思わずよろめく。身体のバランスが崩れ、倒れそうになった体勢を利用して首だけまわし、振り向こうとすると、

「おっと、こちらを向かないでください」

 声がかかった。

 醒めた口調だ。襟元を押さえた手の力は強い。まるで空気がそのまま人の形になり、固化したような力強さだった。

高久たかくさんですね? 塚本保険事務所、調査員の……」

「さあ」おれは答えた。なぜなら、ときどき自分でも確信がなくなるからだ。

「例の調査依頼から手を引いていただきたいのですが……」

 相手はいった。きっと、おれの返事が聞こえなかったのだろう。

 気配をまったく消して近づいた手腕には関心していた。こちらもぼおっとしていたのだが、普段は長年の経験から身体が勝手に反応してしまう。よって、場合によると、かえって厄介になることもあるので、まずは困ったことにならなくて安心していた。

 さて――

「仕事柄、いろんな調査はしている」おれは答えた。「だから全部を止めるわけにはいかない。食わなくちゃならないんでな」

 相手には見えないだろうが、前を見つめてにっこりと微笑む。可愛い顔とはいえなかったが……。駐車場先の夜露に濡れた松の木の上の開けない空に、ぼんやりと視線を移し、

「だから、どの調査だかいってもらえなけりゃ、手の引きようもない」

 頭はまだ眠っているようだった。目がはれぼったい。顔も浮腫んでいる。とても白っぽい感じ。しかし、考えることができないわけでもない。今回の相手は、おれにとって普通のトラブルメーカーなのか、それとも巡り巡った敵なのか?

「高久さん、あなたの調査方針については詳しくありませんが」相手がいった。「ヒントは差し上げましょう。約二週間前からの件です」

 右脳は共鳴しなかった。この男はおれの敵ではない。

「ありがとう、教えてくれて」おれは答える。「ということは、T区H町のF電子産業の件だな?」いってみる。

「その判断は、高久さんお任せしましょう」相手が答えた。

 特に凄みは感じなかったが、それは彼のせいではない。状況と場合によっては、かなり怖い口の利き方なのだろう。もっとも過去に数回別件で同じような脅しを受けた経験があるので、多少は慣れていたのかもしれない。それで、答える口調がぞんざいになってしまった。

「そうはいっても報告書は提出しなけりゃならん。前金を受け取っているからな」おれは答えた。「内容はどうとでもなるが、期日は迫っている。今後のおれの信用のために、守らなきゃならん約束だ」

「永久に信用の心配をしなくてよい状況になる可能性だってあるんですよ」

「そうだな」あっさりとおれは認めた。「では、報告書の写しはどうかね? もちろん手数料は頂くが、はじめての顧客だし、割安にしとくよ」

「高久さん、……食えない御仁だ」

 呆れたように相手がいった。

「そんなことはないだろう。煮れば出汁が摂れるし、ジュウジュウ焼けば肉は食えるだろう。美味くないかもしれんが……」

「そろそろ、お開きにしませんか?」

 相手は、おれとの会話に厭きたようだった。それとも、近所の住民が起き出す時間と判断したのか?

「振り返らずに、前に進んでください」相手はいった。「再会のないことを祈ってますよ」

 いって、おれを軽く前へ突き出した。わずかにつんのめる。いわれた通り、振り返らずに前に進んだ。十五秒くらい。振りかえる気はなかった。おそらく相手はもう消えているだろう。

 おれはジャケットの胸ポケットに手を入れると携帯を取り出し、そのまま大股で歩きながら、馴染みの番号にかけた。呼び出し音が続く。しばらくして繋がった。

櫻庭おうばか?」

「その呼び方は止めてくれっていってるだろう」

 鮮明だが、眠たそうな声が聞こえた。

「大馬鹿に聞こえるだろう。それに……なんと、五時前じゃないか! フニャァ」

「猫なら起きてるよ」おれは答えた。「腹が空いてればな」

 ここの櫻庭も櫻庭のようだった。もっとも違っていても、比較できなきゃ判断のしようがない。

「朝っぱらから脅しがあった。面倒だから、いまのところ逆らう気はないが、相手だけは確認したい」

「仕事の数を増やして安全を計ったら?」

「いまでも忙しい。ピーピーだよ」

「金遣いが荒いとも思えんし、女に貢いでんのかね、どうでもいいが……特徴は?」

「大きな男だった」

「見てないんだな。関連は?」

「F電子産業」

「コンピューター系だよ、あそこは。後は医療器械と家電と無線」

「知ってる」

「何を探ってたんだ」

「携帯でいえる話題じゃない」

「で、脅された?」

「よくわからん。今回は会計鑑査の下請けみたいな仕事だからな。別部署の人間から頼まれた。隠密で。まだまだ、はじまったばかりだ。止めるにしても中途半端すぎる」

「で、それから?」

「強そうだったなあ。たぶん、本当に強いんだろう」

「他は?」

「不明」

「あんたなあ……」

「任せたよ」

 文句をいわれる前に携帯を切った。

 欠伸をする。一日がはじまったばかりなのに、すっかり疲れ果ててしまった。相手に捕まる前に遣りかけていた仕事に戻ろうとし、急に気が変わる。定番の浮気調査でアパートは目前、目視確認は簡単だろうが、しばらく駐車場をうろつくことにした。理由はない。強いていえば、向こうから仕事がやってくるかもしれない、と思っただけだ。

 竣工されたのが旧いのだろう、駐車場の舗装は悪かった。一部コンクリートが剥げ欠け、土が覗いている。

 蟻がいた。蠢いている。泥を跳ね上げた白い家庭用セダンの脇。右後部のドア付近。しゃがみ込んで蟻を見つめる。

 アパートに来た理由が脳裡に流れた。

 調査対象の男は四十代後半、女は四十代前半。歳は三歳離れている。二人は若い頃、三十代前半に、恋人同士だった。別れた理由は、男に他の恋人がいたからだ。女にもいたらしいが確認できない。それが再会。男の大学のクラス会の帰りに出会ったようだ。女は、男の結婚後三年して自分も初婚、現在は一人の子持ちだが、まだ同じ場所(実家)に住んでいたので、憶えていたのか思い出したのか、クラス会が開かれたのが偶偶その場所の近くのデパートだったのが引き金となり、散開後、帰るでもなくデパート内をうろつき中に女と遭遇。八階だった。女はUKミュージシャンのCDを買いに来ていたらしい。調べて見ると、実際には買っていなのだが……。以後半年経ち、二人は関係を持つようになる。その間の事情はよくわからない。依頼主は男の妻。気になったので探りを入れると、この妻は現在浮気中で、そのため男の素行も気になったとみえる。男は妻の浮気に気づいていない。妻は場合によっては別れるつもりで、そのときの理由と慰謝料目当てに調査を依頼したら、ドンピシャ、当ったというわけだ。

 おれが事実を報告すればの話だが……。

 二人の間に子供はいない。

 まわりが、多少明るくなってきた。

 犬の吼え声が聞える。散歩だろう。犬好きは早起きだ。

 人の気配がする。

 昨晩、依頼主の妻はクラス旅行に出かけた。実際の相手までは調べていない。三日の予定。それで男は女のアパートに出かけて、泊まる。アパート内で、男は特にこれといった行動を取っていない。一緒に夕食を食べ、テレビを見、寝ただけだ。おそらくセックスもしていないだろう。安らいでいたのかもしれないが……。

 目の前を小さなゴムボールが撥ねて通った。

 右脳が共鳴する。

 ぼんやりと考えが移動する。依頼対象を考えていたのではない。考えの対象を浮気調査に逸らされていたのだ、と。

 男は技術系の小企業に勤めていた。仕事は嫌いではないが、最近は同じような苦情にうんざりしている。違うユーザからの似たような苦情だ。やる気も失せている。新しいことがしたいと考える。新研究の企画書はすでに提出したが、予算の関係か、市場を読み切れないのか、経営陣に判断力がないのか、半年経っても案件は中に浮いたままだ。擦り切れて行く。そんな感じにずっと囚われて毎日を過ごす。新味がない。愉しくない。生きている気がしない。酒の席で、別部署の友人と話してみたが、しかしそれは年齢的には至極当然の応答らしい、と諭される。誰でもそうなのだ。その年齢になれば必ず。大衆皆の疲れ。気になったのでネットでも調べる。症状としては軽い鬱らしい。年齢と仕事内容および能力に対する不安。それが原因。そういえば、知り合いの中規模会社で鬱で辞めた人間は、今年は二人もいたらしい。昨年は一人。その前はいなかった。いや、実際にはいたのかもしれないが、時代が鬱を認めなかったのだ。

 おれはもうダメかもしれない。

 とりあえずの救いは星子だが、彼女とも長く続くわけがない。

 わかっているのだ。もともと性格が合わなくて別れたのだから……。

 たまたま、あのとき佳苗と付き合っていて、結果的に彼女と結婚したが、そうでなくても、いずれ星子とは別れただろう。そういう定めと決まっているのだ。いまはまだ懐かしさの感情の方が勝っているが、やがてそのうち口喧嘩がはじまり、きつい沈黙が訪れて……。

 自分がだんだんと調査対象に変わっていくのを感じた。

 右脳が危険信号を発している。

 小さなボールはポーンと撥ねた。

 はっと正気づく。

 背後に人影があった。まだ遠い。近づく。ボールが撥ねる。近づく。ボールが撥ねる。近づく。対象の直上でボールが爆ぜる。

 すっと対象に入り込んでいく。

 憑依パゼスト

 すぐさま、おれは攻撃体勢に入った。おれの右脳、正確には右脳プラス付加活性物質エマネーターとの共同組織癒着体eatもきりきりと緊張する。瞬時に、身体に活力が漲る。カテコールアミンの按配も上上だ。筋肉の張りも適格!

 先にシュッと敵のパンチがおれを掠めた。素早くジャンプして振返り、敵の顔を確認する。知らない老人だった。道の向こうに犬がいたので飼主かもしれない。だが情けはかけられない。いま、老人の筋力は通常の百倍以上になっている。殴られれば吹っ飛び、首を絞められれば骨が折れる。攻撃をかわしながらよく見てみると、日頃から鍛錬している引き締まった体型をしていた。ここで戦わなくとも、いずれおれの前に立ちはだかる人間なのだ。そんな気がした。

 二発殴られ、頬が傷ついた。そこで腕を掴むと前へ投げた。車を越えて地面に落下。衝撃は若干土で吸収されたろうが、背骨に罅くらい入っているかもしれない。

 地面に激突した瞬間にボールが離れた。

 ポーンと上に飛んでいく。

 ジャケットの内ポケットからエネルギー収束銃を取り出し、すばやく狙う。が、照準を合わせるまもなく、ボールは空中に消えた。

 ふっと、空気に溶け込んだのだ。

 老人に近づき脈を取ると生きていた。気は失っている。そろそろ住民が起き出すだろう。気づいた者が騒ぎ出す前に、何らかの手を打たねばならない。数台並んだ車を見やり、アパートからも車道からも見つけにくい場所を探して老人を移動させる。結局、複数の車に囲まれた位置になった。当然か? 札入れを取り出し中身を調べる。名前はわからなかったが、束田道真、という名刺が出てきた。だが、この老人のものではないだろう。W軽機械、経理部長の名刺だったからだ。

 人は見かけによらないともいうが……。

 軽く腕を捻って老人を起こそうとしたが、簡単には目覚めないようなので、その場に捨て置くことにした。骨や内臓の打撲はあるが、外傷は少なかったので、住民に見せても大丈夫だろう。札入れはどうしようかと考えたが、結局返すことにした。モノ取りでないとすると、警察はどう判断するだろう?

 もっともそれは、警察がおれに行きついたときの心配だが……。

 歩道の向こうにいた犬に挨拶すると、おれはその場を去ることにした。犬は老人の連れではなかった。戦いに集中して気づかなかったが、誰かが見ていたのかもしれない。犬の飼主? 犬を残して、交番に駆け込むため……。

 犬は愛想よさそうにおれに寄ってきたが、おれは下がらせ、そして記憶を消した。

 これで、次に偶然おれに出会っても、匂いから吼えつかれることはないはずだ。

 これはeatの力だ。eatは、ある程度想いを放射できるのだ。

 そういういい方をしても良いのならば……。


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