④
一九八九年七月
新宿じゃなくて吉祥寺だった。ノックアウトとは雰囲気が違う箱で、居心地が悪かった。何というか、お洒落な感じと所謂ライブハウス臭さみたいなものが融合しているような、でもそれが中途半端なかんじがして、俺は胸糞が悪くなってきていた。
「ひさしぶり」
缶ビールを片手にKが近付いてきた。なんだかさっぱりとした表情をしていた。
「なん?ここ」
俺は不満げに聞いてみた。Kも分かったみたいで、視線を落した。
「ベースの奴がここがいいって言い張って。前のバンドでも出てたみたいで」
「お前たちがどんなんか知らんけど、モンゲじゃここは無いわな」
「お前、ちょっと驚くかもな。ベースの奴が色々知ってて、俺なんかの知らないジャンルのバンドとか教えてもらってる」
「そうなん、ライブ楽しみやわ」
それからTとも少し喋って、もう本当に俺は違うんだなと思い知らされた。今夜の出演バンドは三組で、Kたちのtwo hips、鮫島ゴン十郎、スパイラルジェットという組み合わせだ。two hipsは初ライブだからかトップで出る。
ゆっくりと店内が暗転していくと、それに反比例するように流れていた音楽のヴォリュームが上がっていく。聞いたこともないアジアンな曲だ。打楽器を主とする民族音楽が突然ピタリと止み、Tのカウントからライブは始まった。なんだこれは、というのが俺の第一印象だった。Tは変拍子を刻み、そこへベースが絡む。Kはまさかのカッティングギターを弾いている。問題はそこからで、ヴォーカルが入った。
「パイ」
ヴォーカルがステージへ現れて最初に発した言葉だった。パイってなんだ?それからもヴォーカリストは頻りにパイパイと言いさくった。パイは、パパパイとかパーイ、パッパパイ、パイパパーイッパなどと形を変えながら、リズミカルに、情緒的に、平坦に、虚ろに歌われたけど、全く訳が分からなかった。その曲が終わると、ヴォーカリストは神妙な面持ちで次の言葉を発した。
「アッポ」
それをきっかけとしてベースとギターが変な音階でユニゾンし始めた。そこへドラムが入ってきたけど、どこが頭か分からない感じで曲は進んでいく。なんだこれは?俺は理解できなかった。その変な演奏もステージの上では熱を帯びてきて、絶頂かと思われたその時に演奏はピタリと止まった。間髪入れずにヴォーカルが絶叫した。
「アーッポオオオオオオ」
そしてまた変な曲が再開した。
「アッポ、アッポ、アパポポポ、アッポ、ヒュイ」
TとKは、こんな事がやりたかったのだろうか。ステージ上をアッポアッポ言いながら動き回るヴォーカリストはチンパンジーみたいだ。
「ヒュイ、アッポ、アパパポポポ、ヒュイ、アーッポオオオオオオ」
俺は最前列でこれを見ていた。ちょっと振り返ってみると客の入りはまあまあで、こんな訳が分からないライブでも体を動かしてノッている者も居た。腕を組んだまま突っ立っている奴の口元が動いている。多分「アッポ」と言っている。俺は一旦ドリンクバーへ行きバーボンソーダを頼んだ。そして泥酔した。
two hipsのライブが終わったみたいで、客電が点き店内は明るくなっていた。ドリンクバーも賑わっている。俺はバーボンソーダと共に床へへたり込みつつ壁に凭れ掛かっていた。
「よう、大丈夫か?」
ライブを終えたKがビールを片手にして目の前に居た。
「アレなん?」
掠れた声で聞いてみた。
「聞いたことないやろ?そういうのを作ってるだわ」
「訳わからんわ。演奏は、まぁ良しとしても、あのヴォーカルはなんや?」
そう言い終わってから思いついた。
「まさかやけど、最初の曲ってパイとか言うとったけど、次の曲ではアッポ。二曲合わせてパイナップルって事?」
Kが変な顔をしている。
「まさかやよな。そがんこつはなかな」
「お前、わかったのんか。ファンクとプログレッシブロックのミックスなんよ。あれはパイって曲とアップルって曲で続けたからパイナップル」
「マジか」
「で、アップルから始めるとアップルパイってなる寸法」
Kが言い終わると、また店内がゆっくりと暗転し始めた。俺は、こんなハコから早く出たかったからtwo hipsを見終わったら帰るつもりだったけど、バーボンソーダが効いていて歩けそうになく、そのまま次の鮫島ゴン十郎を見る羽目となった。
漫画みたいに稲妻が脳天から身体を貫いた。なんだこれ。two hipsとは全く違うなんだこれだった。鮫島ゴン十郎は使い込んだドブロギターを手にステージへ現れた。着古した黒いスーツ、中に着ている黒いシャツは胸まではだけている。革靴も相当履きこんでいて、坊主頭で眼光鋭く、まるで喧嘩腰だ。ステージ上のパイプ椅子へドカッと腰を下ろし、そして鮫島ゴン十郎のライブが始った。
ドブロギターが唸る。ソウルフルで力強く、ハスキーな鮫島ゴン十郎の声は、一発でこの空間を支配した。此処に居る者達の視線は全てが鮫島ゴン十郎へと向けられている。曲が終わっても身動きできない。そして次の曲が始まる。鮫島ゴン十郎はゴリゴリのブルースマンだった。俺は完全にコレだと思った。酔いがぶっ飛んだ。いや、そういう感覚なのだけど酔ってはいた。他の客達も熱を帯びはじめ、足を踏み鳴らしたり歓声をあげたりしていた。
「サンキュー」
短い挨拶をして鮫島ゴン十郎はステージ袖へと消えていった。拍手と歓声が暫く続いた。客電が点いて、そこで隣にKがいた事を思い出した。
「凄ぇな」
俺たちは、どちらから出たのか、それとも同時に言ったのか分からない言葉を発していた。
「お前はそこで、なんばしよっとか?」あの人の声が聞こえる。
それは突然発表された。
「次の日曜日に球磨に行くけん」
金曜日の夜に珍しく家族みんなで夕食を囲んでいる時に、あの人が告げた。俺と弟は顔を見合わせた。「クマ?」「熊やろ?」そんな事を言い合ったけど、あんまりごちゃごちゃ言うとあの人の機嫌が悪くなると思い、この話はここまでとした。
日曜日、走り出した車が町中を抜けた辺りで、あの人が口を開いた。
「今度、球磨で店ば始めるけん。今、店ば造りよるけん、その工事の進み具合の確認と、球磨がどがんとこかお前たちに見せんなんけん今日行くとぞ」
あの人は続けた。
「引っ越すけん、学校も転校せんばやけん」
引っ越しという言葉には、なんか魅力を感じたけど、転校という事には嫌な感じがした。車は一号橋を越えて天草をあとにした。ウトウトしていたというか寝ていたみたいで、目を覚ますと車は川沿いの道を走っていた。大きな川で、球磨川というらしい。
「起きたとか?もう球磨に入っとるぞ」
あの人がそう言う横で、母ちゃんはぐったりとしていた。母ちゃんは乗り物酔いが酷くて、遠出する車の中ではいつもこんな感じだけど、この川沿いの道は曲がりくねっていて、車には強い弟も元気がないように見えた。
道は、ようやく穏やかになったけど、今度は何の変化も無いだらんとしたものへと成った。田んぼと畑が広がり、梨園の看板が目に入るくらいだ。車は免田という町に入った。暫く走ると町中に建設中の建物があって、そこの敷地内にあの人は車を停めた。
「ここぞ}
あの人はそう言って車から降りた。ちょっと疲れていたけど俺たち三人も続いた。建物は、この町には無い立派なショッピングセンターだった。建設中ではあったものの、大まかな工事は終わっているみたいで、俺たちはあの人のあとについて行った。一階のフロアの一角にその店はあった。店では、一輪車で砂やセメントを運んでいる人が居て、左官工事の最中だった。
「ここたい」
あの人が教えてくれた。弟は何か知らんけどつかつかと工事中の店に入って行って、工事をしている職人さんたちに向かって「ごくろう」なんて言っていた。あの人は工事関係者と打ち合わせをしていて、その間ずっと、弟はあの人の傍を離れなかった。
隣町のアリランという店名の焼き肉屋で昼飯を食べた。というのも、引っ越し先の家が隣町との堺近くにあって、昼飯のあとにその家の大家さんに挨拶に行くことになっていた。アリランから車で直ぐのところに大家さん宅はあった。人の良さそうなお爺ちゃんが出てきて、隣に建っている家に案内してくれた。家の中を見ているうちに、俺は心細くなってきた。この家に住む事は最早決定事項で、今日の朝まで居た天草の家から引っ越して来なければならない事を寂しく思った。そしてようやく、夜に母ちゃんとあの人が何を話していたのかが分かった気がした。
あの人は今の会社から独立して、この町で商売を始める。
楽屋へいくと、さっきまで熱い演奏をしていた鮫島ゴン十郎が居た。煙草を咥え、手元にはビールがあった。
「凄かった、もう凄かった」
興奮気味で俺は言った。鮫島ゴン十郎はビールをごくりとやってから俺を見た。
「そう、そりゃ良かった」
「次は、次はいつ?」
「次ってのは決めないんだわ。今に集中したいから、やり切ってからまた考える。まぁどっかの路上で偶にやってるよ」
俺は自分が恥ずかしくなっていた。モンゲモンゲの時に何度か、やっつけ仕事みたいなライブをやった事を思い出した。
「路上、どの辺で?」
「ここいらの時もあるし、新宿とか池袋、蒲田でやった事もあるな。そん時の気分だから」
俺は、ようやく何か目標みたなものが見えてきたような、やりたいことが分かったような、そんな気がしてきた。鮫島ゴン十郎へ次の質問を投げかけようとした時に、突然大きな音に遮られた。どうやらトリのバンドのライブが始ったみたいで俺は仕方なく鮫島ゴン十郎へ軽く手を挙げてから楽屋を出た。
フロアには結構な人数の観客がいて身体を揺らしていた。そのバンドの音はチャラチャラと聞こえた。鮫島ゴン十郎の後だから余計にそう感じたのかもしれないけど、そんな事はどうでも良かった。俺は店を出て楽器屋を目指した。閉店寸前の楽器屋に入ると店員があからさまに嫌な顔をして目を逸らした。アコースティックギターが陳列されているところで暫く物色するも、持ち金で買えるようなものは何ひとつなくそのまま楽器屋を出た。背中にあの店員の舌打ちを感じた。
久しぶりに楽器を手にしていた。中古だけどモーリスのアコースティックギターを手に入れた。フレディキング、ハウリンウルフ、ジョンリーフッカーなんかのレコードをかけながら雰囲気だけはブルースマンだった。のだけど、いざ曲を作ろうとしても、今まで自分がやっていた事と全然違っていて戸惑うばかりで混乱した。それでも、あの鮫島ゴン十郎のライブを思い出して自分を奮い立たせた。とりあえずモンゲモンゲの曲をアコースティックスタイルにアレンジするかとにした。
代々木公園は割と近かったから、そこにした。アパートの部屋の中でアコースティックギターを弾くわけにもいかず、かと言ってスタジオは金がかかる。近所の公園だとなんか違う。だからそういうことをしていても普通な感じの場所として代々木公園にした。そうやって練習を始めてはみたものの思った以上にハードルは高かった。ギターを弾くにも、歌うために声を出すにも公園という屋外で、様々な人が様々な目的があってそこに居合わせる。誰も俺の事なんか気にしていないと頭では分かっているものの躊躇しまくる小さな自分がいる。こんなんで路上ライブもへったくれも無い。
「ああああ」
大声をだすと気持ちが楽になった。それからは少しずつギターを弾きながら声をだし、曲を調えていった。そうやって練習を重ねていると、段々と形になってきた。そうなるとライブをやりたいと自然に思えて、遂に路上でのライブを決心し場所を考えてみた。
駅の改札を出ると、そこは世界的にも有名なスクランブル交差点があった。ひとりでの初ライブは渋谷のハチ公前でやることにした。実際にハチ公前につくと、ヘタレな思いが湧いてきた。まだ今なら只の〔ギターを背負った男〕で済む。ギターケースのジッパーを下ろすと、近くで待ち合わせをしていた人の視線がギターに集まる。何か嫌な予感がしたのか何人かが俺から距離をとるように移動する。軽くチューニングをしてからストラップをくぐりギターを構えた。思いっきりAのコードを鳴らすと数人が後退る。思ったよりも音が小さい。喧騒の中ではこんなものなのだなと改めて確認した。そしてAのスリーコードでライブを始める。
「渋谷の皆さんこんにちはイエーイ♪今から暫く歌をうたわせてもらうぜ♪聞かせたい素晴らしい曲がいっぱいあるのさ♪」
〔渋谷ライフ〕というタイトルのこの曲は、渋谷という地名を変えるだけでどの場所でも使えると、そう思って作った。
急に歌い始めたものだから半径五メートルくらいには人が居なくなった。遠目にこちらを見る人、速足に通り過ぎる人、立ち止まって興味を示す人、構わず宗教の勧誘を続ける人、色々な人が俺を中心に大きな輪を作った。いい感じだ。
「オオイエイ♪ヒューマントラブル♪ナァナァーナァナァナァ♪」
モンゲモンゲでやっていた〔砂糖と塩〕を歌い終えると拍手が起こった。次の曲〔ドッグ〕のサビにいく手前で、駅の方から拡声器の声がした。
「通行の邪魔になるから止めなさーい」
渋谷駅ハチ公前出口の脇には交番がある。止めろと言われても、もう曲は始まっていて、それを途中で止めるわけにはいかない。
「矢鱈と吠えられ煩いガンガン♪疑似餌には食いつかない♪ドッグフードは食いたくないからな♪」
なんとタイムリーな歌詞なんだろうと歌いながら思った。もう一度拡声器の声がして、人だかりは更に増えた感じになった。
「ワンワンワン♪」
最後の歌詞を歌い切ったところで、三人の警察官がこっちに向かって来るのが分かった。
「はい、立ち止まらないで、はいはい」
一人の警官は観衆たちを追い払っている。俺は二人の警察官と向き合っていた。見ていた人達の中からヤジが飛ぶ。
「ケイサツ帰れ」「そうだそうだ」「カエレ、カエレ」
二人の警察官は、通行の邪魔になるからとか、周りの人たちを巻き込むなとか言ってライブを止めるようにと警告した。俺はちょっと悔しかったけど、こういうのも含めて路上ライブなんだなと思い、ギターをケースへと仕舞った。それから大声で見てくれていた人達に礼を言った。
「どうもありがとねーまた」
ギターを背負ってスクランブル交差点を渡る俺は達成感が溢れていた。
つづく