①
俺は弱っちいから、いつも直ぐに転がされて、そして高確率で土俵の硬いところに頭を打ちつけていた。少し大きめの箱に入った車のプラモデルを手にすることは一度もなくて、参加賞と書いてある学習ノートを小脇に挟んで泣きながら家へと帰っていた。床屋の角を曲がり狭い路地へと入る。街灯が上から俺を照らしながら笑って冷やかしてくる。
「今年も負けたとかぁ?弱かね」
無視して歩くと自分の影がビヨーンと伸びる。段々とそれが縮まってきて次の街灯のとこまで行くと消える。木原のおばちゃんちを過ぎるとブロック塀が連なっていて、そのブロック塀の上に月がちょこんと腰を下ろしていた。月は何も言わない。ただこの時期の月は何だか偉そうな顔をしている。
毎年、十五夜に諏訪神社の秋祭りがあって、夜は子ども会の相撲大会が行われる。一年生から三年生までいつも最初の取り組みで土俵の上に叩きつけられていた。
またあの人に怒られる。
一九九九年晩秋
俺は異国の地で空を見上げていて、三十歳になっていた。秋晴れの空は、東京にある井の頭公園から見上げる空と似ていた。ニューヨークシティマラソンというイベントが行われていて、日本では有名な往年の歌手が参加しているという事みたいだけど、全く興味は無かった。俺はセントラルパークのベンチに腰掛け頭を悩ませていた。
ギタリストがリフを刻みだし、ドラマーがそれに乗った。俺は小刻みに焦らしながら裏をとって入っていった。裏をとったつもりだったけどヴォーカルが入る前に演奏は止まった。完璧に裏のリズムを捕らえていた筈の俺のベースは、どうやら的外れだったらしい。違う曲を試してみても同じことだった。彼らは汚い言葉を口にして首を左右に振っている。言葉のヴォリュームこそ小さいけど、それは俺に突き刺さった。ミクスチャーをやりたいのなら、そのルーツであるファンクが分からないのは致命的だと思ったけど、俺は「OK」と呟きベースギターを背負ったままスタジオを出た。
ベンチに立てかけたベースの横には大きめのボストンバッグが横たわっている。ボストンバッグの中には、少しばかりの衣類や生活用品と、今ここアメリカで人気の日本のテレビゲーム マーケットモンスター通称マケモンのグッズも詰まっている。ゲームオタクの大橋に、絶対役に立つからと、日本のマケモングッズは需要が高いからと、金に困ったら売ればいいからと、そんな事を力説されたから仕方なく持って来たけど、そもそも俺はゲームに疎いし、これがどのくらいの価値があるのかも分からない。マケモンのコインやカード類は結構な重さで、移動する度にかなりのストレスを伴う。大体こんなモノを何処で売り捌けばいいものかも全く見当がつかなかった。そんな事よりも、バンドをやっていくという事に見切りをつけないといけない事が分かってしまって、それが俺にのしかかっていた。
あの人の顔が目に浮かぶ。
あの人は恐怖の対象だった。何もない単なる日常だったとしても、車のエンジン音が聞こえると急に、何か悪い事をしてしまっていないか、宿題は終わらせたか、夕飯のおかずを残さなかったか、母ちゃんのいう事を聞いていたか、そんなことを、キューンと痛くなるおなかを感じながら考えた。床屋の角を曲がって細い路地へと入ってくる車は俺んちくらいしかなかった。木原のおばちゃんちを過ぎるとブロック塀に反響してエンジン音が更に深みを増す。おなかの中が暴れだし収集がつかなくなった辺りでエンジン音が止まり、玄関の開く音がする。すると、さっきまでのが噓みたいにおなかはケロッと治る。
「おかえりなさい」
そう発すると、なぜだか身体が小刻みに震え始める。あの人の表情は怒った感じでもなく、かと言って機嫌が良いというわけでもなく普通に、普通というのも何だか変な表現なのだけども、それがかえってなんかあるんじゃないか?と勘ぐらせる。
「風呂には入ったとか?」
そう聞こえてから、しまったと気付いた。さっきまでテレビのアニメに夢中で、台所から母ちゃんが何か言ってた事を聞き流していた。
「だんだん父ちゃんが帰って来らすけん、先に風呂に入っときなっせ」
その言葉を記憶の変なとこから思い出した。それから焦って、あの人の機嫌を損なう前に風呂場へ直行しないといけなかった。急に立ち上がって狭い居間を走ったものだから、座布団に足をとられて滑って転んでしまった。手をついてしまったところは運悪く、あの人の夕飯が並び始めていた低いテーブルの上で、煮物の小鉢をひっくり返してしまった。痛いとか、熱いとか、そんな余裕は無く、鼻の奥が締め付けられていく。
「なんばしょっとか」
あの人の怒りと共に、俺は身体ごと飛ばされて柱に背中を打ちつけた。母ちゃんが雑巾を持って来て、こぼれた煮物を拭き取りながら場をおさめるように言った。
「はよ風呂に入りなっせ」
俺は泣きながら風呂場へと行った。
夕食を食べながら、あの人は真剣にテレビの野球中継を観ている。
一九八八年五月
十九歳。俺はこいつと新宿でライブハウスのステージに立っていた。
こいつはKという奴で高校で知り合いつるむようになった。最初は訳の分からない事ばかり口にしていて、宇宙人が喋っているんじゃないかと思う程にKの言動は理解出来なかった。パンクという言葉や雰囲気は何となく分かっていたものの、ちゃんとパンクに向き合えたのはKのおかげで間違いない。こいつのおかげなのか、こいつのせいで変なものに首を突っ込む羽目になったのかは微妙なとこだ。そんなKと高校を卒業し上京した。表面上は就職なのだけど、俺たちはバンドをやるのが目的だった。
上京したての一九八七年四月に始めてスタジオへ入った。神奈川を走るJR横浜線橋本駅前の楽器店に併設されたスタジオだった。俺は元々ギタリストだし、でもKもギターを買った。こんなところに知り合いもなく、俺たちは二人でやるしかなかった。曲を作った方がギターとヴォーカルを担当して残った方が、やったこともないドラムをやる。はっきり言って滅茶苦茶だったけど楽しかったし、何かが始まった気がした。
何度目かのスタジオで俺はドラムセットに座っていて、その時思い付いたリズムを無意識に叩き始めた。するとKはギターをそこいらに立てかけたままマイクスタンドへと近付いて行った。それからスイッチが入ったみたいに絶叫し始めた。
「ゲロゲロゲロゲロ吐いちまえ!ゲロゲロゲロゲロ吐いちまえ!」
ドラムを叩きながら俺は訳が分からなかった。ドラムを続ける。Kも続ける。
「青垂れた顔のオッサンも、便所で唸るオバサンも、ちょっと飲み過ぎたアンチャンも、人目を気にせずにゲロゲロゲー」
グイグイとリズムに乗るK。
「吐けば天国、吐かなきゃ地獄、吐けば人類皆兄弟!」
なんだかポップなメロディーに支離滅裂な詞、ドラムは一応リズムをキープしていた。
「吐き出せ、吐き出せゲロゲロゲー!吐き出せ、吐き出せゲロゲロゲー!」
俺は曲を締めた。なんじゃこりゃと思ったけど、不思議と変な手ごたえもあって、その後にも影響した。
知り合ったバンドのライブに誘われて、俺たちは新宿のライブハウスへ来ていた。訳のわららない前のバンドの演奏が終わり、知り合いのバンドがセッティングを始めていた。Kが俺を見ている。そして俺は、それがそういう事なんだなと理解した。俺たちはステージへと上がっていた。ドラムのセッティングをしていたそのドラマーは、そのバンドの中でもひと際温厚な性格の人だった。
「まぁまぁまぁまぁ」
俺はそんな事を言いながらドラムセットへ近付いた。バスドラの正面に座り込んでチューニングしていた彼を目で制した感じでドラムセットの椅子に座った。その人は、俺がドラムセットに座った事を変に感じたのか立ち上がろうとしたけど、そのタイミングで俺は躊躇せずに思いきりバスドラを踏んだ。彼がその音に後退りしたのを確認してからカウントを刻むと、Kは勢い良くセンターのマイクに駆け寄った。
知り合いのバンドというのは、去年末に偶々一緒にライブをやった時に仲良くなったバンドで、俺たちよりも少し年上の人たちだった。今の風潮と音楽性、メッセージ性が上手いこと合致していて、この日の動員はこのバンドだけで百人近くあった。その調子でこれから先、もっと人気が出るのかもしれないけど、如何せんルックスがパッとしなかったし、彼らが奏でる楽曲には年齢的な事もあって少々無理があるようにも見える。それに比べKはルックスが良かったし、若さもあった。曲調はそのバンドとは違っていて出鱈目だったけど、俺たちはそのバンドの客たちにも馴染んでいた。
「ゲロゲロゲロゲロ吐いちまえ」
そうKが歌うと、客席から合いの手のような絶妙なタイミングで「おー」と返ってくる。そんな感じで、俺らがあの日、橋本駅前のスタジオで作ったというか、偶然出来た〔恐怖のゲロ〕という曲は直ぐにそんな事になっていた。ドラムとヴォーカルだけの、こんなへんてこな曲がこんなに盛り上がっていいのかと、しかもここは自分たちのライブではなくて、知り合いのバンドのセッティング中のステージ上なのだ。知り合いのバンドは俺らに怒っているわけでもなく、観客と一緒に騒いでいる。調子に乗った俺が次の曲に入ろうとした時にライブハウス内に罵声が響いた。
「何やってんだ、お前ら」
音響のスタッフがサウンドチェック用のマイクを握りしめて此方を睨んでいた。
知り合いのバンドは、それなりに盛り上がった。勢いもあった。俺とKはライブ中何度か目が合い笑顔だった。ライブ後は店の人に捕まってしまいこっぴどく怒られたけど、オーディションを受けろとも勧められた。
あの人だって笑う。
あの人は恐怖の存在であったものの、ずっとそうではなかった。釣りが好きで、いつも同行を求められた。俺は釣りにはあんまり興味がなかったけど、断るとまた機嫌が悪くなるのが分かっていたから付き合った。釣り場へ行きしな軽い渋滞にあった。ようやく少しずつ車が進み始め、たまたま横に郵便配達のバイクが並走する形になった。あの人は、何か思いついたような悪い顔をして笑顔を浮かべていた。
「窓ばあけろ」
突然あの人は俺にそう言った。俺は必死になってウィンドウを下げるハンドルを回す。あの人は助手席へ身体を乗り出してバイクに話しかける。
「おい、おいて」
郵便配達の人が車内を覗く。あの人は、もっともな口調で更に大声を出す。
「おい、タイヤが回っとるぞ」
それを聞いた郵便配達の人はビックリしてバイクを止める。走っていればタイヤは回る。そんな当たり前のことを恰も異常事態のように叫ばれ、それに気付くのに人はどれくらいの時間が掛かるのだろう。
「がっはっはははは」
あの人は満足したみたいで、後方に止まってしまったバイクを見て笑い出す。
「タイヤが回っとるだけたい。がははは」
俺は何だかこの人と共犯者になった感じがして、郵便配達の人に悪い事をした気持ちになった。それでも、あの人の機嫌が良い事は何物にも変えることが出来ない貴重な機会だった。
「あいつらな、曲がった杉ぞ」
車を運転しながらあの人は言った。何のことだかさっぱり分からなかった。しばらく行くと前方にジョギングしている人が視界に入ってきた。それは中年の男女二人で、あの人は例のごとく窓を開けろと俺に言う。車はジョギングしている二人の横につけた。あの人の顔は嬉しそうだ。
「おい、曲がった杉、大変やのう。なぁ、なぁて」
あの人は御機嫌だ。曲がった杉ってなんだ?俺は頭をフル回転しても全く分からなかった。あの人は得意気だった。
「曲がった杉は柱にゃならんやろが、ああいう奴らも走らにゃならんけん」
そう言ってまた高笑いをしていた。それから暫くは、新聞配達、マラソン、逃げる犯人、レーサー、サッカー選手、お魚咥えた野良猫などのがテレビなんかで出てくる度に、あの人は{曲がり杉}と普通に言っていた。俺たち家族はそれを聞くたびに愛想笑いでしのいでいた。
曲がった杉を想像してみても、いまいちピンとこなかった。
一九八八年夏
事態が変わってきていた。相変わらず俺とKは出鱈目だった。ひとりがノイジーなギターをかき鳴らしながら絶叫すると、もう一人はステックでドタバタとドラムを叩きつける。そしてそれは曲によってギター、ヴォーカルとドラムが入れ替わったりする。そんな奇天烈なライブパフォーマンスにスカスカの客しか居ないライブハウス内は引き気味だったのだけど、何故か〔恐怖のゲロ〕スタイルの曲、つまり俺がドラムを叩きKがヴォーカルだけをつとめるという前代未聞の編成は何かがあるみたいで、先の〔恐怖のゲロ〕をはじめ〔銅像〕〔つるつるの薬〕〔ミスターハイレグマン〕などの曲は盛り上がりをみせていた。
Kが手にした雑誌で俺を突きながら興奮気味だった。その雑誌はインディーズと呼ばれているバンドたちも取り扱うマイナーな雑誌だったのだけど、当のアマチュアバンド達にとっては注目の雑誌だった。その雑誌の記事の中に自主制作盤を販売するレコード店の売り上げチャートも掲載されていて、都内の代表的な三店のものが載っていた。
「ちょい、見れって、これ」
Kが開いているページには、ガールズ、三番街、カミヤマというレコード店の売り上げチャートが示されていた。三店舗とも初登場四位にモンゲモンゲの、つまり俺たちのバンドのシングル盤が入っていた。あの駅前の楽器店にあるスタジオで、そこに備え付けられているカセットデッキにマイクを突っ込んで録音したリハーサル音源を、二人でなけなしの金を出し合って制作したアナログレコードだった。A面に〔サルぼぼクラッシャー〕〔銅像}B面に〔鶴は千円、亀はわいで万年〕〔恐怖のゲロ〕を収録した三十三回転のやつで、手書きのジャケットをコンビニエンスストアのコピー機で親の仇の如くコピーしまくって完成させた自主制作盤だ。そしてそれは、信じられない事に、次の号ではそれぞれの店舗でなんと一位を獲得していた。
「ウホ、ウホホホ、ホホホホホホ」
俺はそんな感じの声を無意識に出していた。
「ウホホホ、ホッホウホホ、ホッホ」
俺につられたのかKもそんな事を発した。
「スターやんけ、イケるなコレ、レッツゴーひろみやん」
俺たちはマジでそう思った。頭の中で豪邸が建てられ、ソファに座る俺の両隣にはアイドル歌手みたいな女の子が居て、前のテーブルには肉や魚介料理が並び、高級ワインがグラスに揺れている。ちょっと手を伸ばすと右の女の子の胸に触れ「もう、エッチ」なんていう可愛い声がする。はっきり言って天国だ。極楽だ。スター街道まっしぐらだ。有頂天とはこの事だ。
つづく