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ヤマダヒフミ自選評論集

主体の行方


 近代は主体の解放をその主たるテーマとしていた。ではそのテーマは、現代において一体どんな帰結を持ったか。…保田與重郎は「エルテルは何故死んだか」で書いている。

 

 「かくて十九世紀は姦通にヒュマニズムの顕現を考えるような始末となつたのである。一切の悪徳を暖かく救い抱擁するーー近代小説は悪の意識の解放と、ひいて最極端なその意識の断崖に人々を追ふことを同時に遂行した。」

 

 保田の言わんとする事は、結婚と恋愛の分裂である。封建社会において結婚はあくまでも制度であり、家の繁栄、子孫の存続の為に考え出された社会的機能であった。そこには主体の情念である恋愛の要素は薄かった。だからこそ、恋愛は姦通(=不倫)として現れた。近代文学において姦通小説が多いのはその為である。

 

 近代は主体の解放を念願としていた。そこで、社会制度に縛られていた主体は、姦通のような反倫理によって主体性を現した。近代文学のテーマとして、恋愛と並んで犯罪が考えられるのもその為だろう。犯罪は、単なる犯罪ではなく、硬直した社会秩序からはみ出た個人が成したものだった。スタンダールの小説を思い浮かべれば、そのあたりの消息がわかるだろう。

 

 近代は主体に目を注いでいたが、その解放は、旧的な社会秩序との争いによって、偉大性を獲得した。なんにせよ、偉大性は葛藤の中にしか現れない。苦痛と苦悩を積極的に引き受ける所に偉大性が現れる。しかし、近代は近代を成し遂げた時、目標を喪失した。偉大性を失い、バラバラの主体が自分の利益や権利を主張する場となった。現代社会はこのような場になっている。

 

 この文章で考えてみたいのは、近代における主体の解放という物語は、現在ではどのようになっているか、という事だ。

 

 恋愛と結婚の矛盾という問題に帰ってみよう。恋愛と結婚はもはや矛盾しない、とされている。我々にとって恋愛結婚は普通の事である。それでは、過去の矛盾は果たして乗り越えられたのだろうか。…そうかもしれない。しかし、ここには何らかの陥穽が眠っているように思える。

 

 現代の恋愛小説を読むと、保田が論じた「若きウェルテルの悩み」のような偉大な作品は滅多にないと思われる。「アンナ・カレーニナ」や漱石の「こころ」、「ボヴァリー夫人」のような名作は我々の目には見えない。存在するのは、恋愛遊戯であり、これは遊戯であるから、付き合うのも付き合わないのも勝手である。結婚するのもしないのも、個人の勝手である。

 

 この社会には無数の個人がいる、と人は言う。世界は多様性に満ちている、と人は言う。だが近代文学作品内部の多様性に比べて、現代の作品内部の多様性は、私にはどうしても一様性にしか見えてこない。同じように、我々の世界は、多様な個人が存在するように見えて、実際に出会うのは似たような人ばかりである。…そういう気はしてこないだろうか?

 

 結論から言えば、現代人は金銭一元論という事なのだと思う。金銭一元論、というのは、資本主義が、主体の情念を完全に解消したという事だ。この主体をシステムに解消するのが、資本主義というマジックによって成し遂げられた。秩序と個人との分離は、システムによって止揚された。しかし、止揚された瞬間に次なる分裂が始まる。今、我々が立ち会っているのはこの分裂に他ならない。

 

 村上春樹やよしもとばななが理想郷として掲げるイメージは、システムに個人が解消された形に他ならない。戦後に、経済成長した日本にはそのような理想を可能とするような場所があるように思えた。それは、主体の情念が、社会システムの中に完全に解消されうるという幻想である。わかりやすく言うなら、不倫は、反倫理として厳しく糾弾される行為ではなくなったという事、また金銭を使った売春行為が恋愛に近づいてきたという事なのだろう。性における情熱は、金銭という一元的な現代の神と接続しつつ、社会システムに包摂される事になった。

 

 恋愛と結婚はもはや矛盾しなくなった。制度と主体は矛盾しない。それはシステムという形で一元化され、我々の神となっている。我々は、日頃のストレスを、サービスや、買い物で解消する。それを犯罪というような形で現す人間は厳しく糾弾される。犯罪や、倫理に反するものは、システムから外れた場所において情念を満足させる事に間違いがあるとされる。

 

 主体の情念は、絶えず資本主義が発展していくにつれその中で解消されうる。そこで我々は真の満足を得られる。ここに我々の宗教がある。宗教、という言葉を使いたくないほどに肉体に刻み込まれた信念体系がある。

 

 例えば、誰かを殴りたいという衝動を抱えた人間がいるとすれば、彼の衝動を満足させる店やサービスが現れる。そこで解消される事が推奨される。どうしても痴漢してみたいという衝動の持ち主には、そのような性的サービスの店が現れる。そうして犯罪にまで至らない。資本主義のシステムは主体の情念を消化してしまう。

 

 だが、疑問に思うのは、このように解消された主体とは果たして本当に主体なのか、という事だ。贅沢な話かもしれないが、かつて旧制度と戦っていた主体の情念、それがやがて罰せられる運命と知りながら刹那的な恋愛感情に自らを掛けていた時、むしろそこには生命がなかったろうか。悲しい生命の宿命が、その主体にはっきりと感じられなかっただろうか?

 

 こうした事は、私の手に負える事ではないかもしれない。…近代文学は悪徳をも、人間性の一部として認めて描き出した。それは、秩序からはみ出るものだったが、そのはみ出た部分はやがて未来を構成するものだった。今は、未来が現実になっている。ここで、我々の抱いている主体はかつてと同じ主体なのか、疑問に思うべきだろう、と私は思う。

 

 私は、現代の主体は主体性から疎外されていると思う。現代の恋愛小説が、遊戯的、趣味的な印象を残すのはその為であろう。それらは全て、システムに包摂されている為に、個の真剣性はどこまで行っても現れない。もちろん、それぞれの個は真剣に生きているのだろうが、その真剣さは一体いかなる形で現れるのだろうか。新作ゲームやスポーツの試合、好きなアーティストのライブが「生きがい」の我々の生を描くのは、本当に「文学」なのか。もっと真剣に考える必要があるだろう。

 

 …さて、今、主体の情念は現代においてはシステムに流し込まれると力説した。それでは、システムの外側に情念が移行する場合はどうなるのだろうか? これは、かつての近代文学が立っていた場所と同じ問いを発する事になるはずだ。

 

 答えとしては現在では「無」という事になるだろう。それは存在しないものとして抹消される。我々は心の奥にこういう声を飼っている。「我々はシステムの中で情念を解消させ、それ以上については我慢している。それなのにどうして我慢できない者がいるのか? けしからん!」 これが我々の声である。この声の問題点は、システムそのものを疑う声も、システムに反した声として抹消されるという事にある。

 

 資本主義のシステムを我々は絶対視している。もう少し丁寧に言えば、それを疑う声も絶えず市場に組み込まれる事によって、その声自体が「無かったもの」になるのだ。我々の世界は無名の生を許さない。無名の、ただ生きている生には何の意味もない。一人で、自分の信念を抱いて生きている者はこの世界においては無だ。我々はかつての人々が神の手に抱かれてはじめて存在可能だったように、全体的なシステムの一部に組み入れられる事によってはじめてその存在を許される。

 

 システムを疑う声、その体系の外に別の体系を作ろうとする人間は反逆者として告発される。無視され、徹底的に疎外され、存在を消される。そうでなければ、システムの中に組み入れられる。組み入れられた瞬間、彼は彼の主張した声を奪われるのを感じるだろう。

 

 実際、私は私の目から見て、優れていると思われるある人物がシステムから締め出されるのを目撃した。一方で、実力のない人間がその道において「プロ」であるのを盾に、その人物を上から目線で貶めているのを目撃した。この場合、この社会において正しいのは、「プロ」の方である。というのは、彼はシステムに認められた人間だからだ。一方で、私が優れていると思っている人物は、システムとは違う価値体系を彼の中に抱いていた。それ故に彼は世界から放逐される羽目になった。この人物は、その世界(業界)においてはなかった事になっている。

 

 …さて、この混乱した文章をまとめてみる事にしよう。私が思うのは、現在においては主体は存在していないという事だ。それは存在する事を許されていない。逆に言えば、世界には主体に似たものが氾濫し、溢れかえっている。誰も彼もが自分をシステムに認めさせようとしている。その欲望それ自体が絶えずシステムを強化していく。だが、この世界に反抗しようという者はその名を奪われる。かつてのようにわかりやすい抵抗は許されない。抵抗するものはシステムに組み入れられるか、存在しない者にされるかのどっちかなのだ。

 

 先に上げた例のように、仮に個人の中に優れた価値体系があった所で、世界はそれを認めたりはしない。…どんなにくだらなくても、どんなに低劣でも、人々が認めている権威やタレントには大きな価値が付与される。その価値体系の内部では、そこに至れない人間は「足りない」人間でしかない。

 

 この社会において主体は、あまりにも溢れかえっている。人々は平気で自分を世界に発信する。自分だと信じているものを。だが、それは世界の方が先に彼を規定してできたものであった。彼の欲望そのものが世界によって再生産される時、彼は何の痛痒も感じない。最初から奪われているので、後は得る一方なのだ。こうして世界は楽しくはしゃげる楽園の如きものとなった。楽園に入る切符を断った人間にはもうどんな道も残されていない。世界が間違っていると思うのならば、努力して自分を磨くか、静かに一人死んでいけ……これが世界の声である。

 

 主体は無の中にしかない。だが、主体である事は大きな苦痛を受けるのでほとんどの人は耐えられずにここから出ていく。そうして、考えるのをやめるか、同じ事だが、考えるのを世界に代理してもらう。こうして世の中は似た者によって作られるが、これを多様性と言う方が全てを奪われている我々には都合がいい。


 我々はもう失うものを持っていない。残されているのは商品購買の可能性だけだ。これが現在の我々だろうと思う。この世界においては、生きる主体は絶対に存在しない。それは存在するや、存在しない事にされる。後は人々がうわごとのようにつぶやく言葉が、SNSの空間を虚しく木霊するだけだ。

 

 

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