長距離ランナーの孤独 ~2020・初夏~
人とつるむのが苦手な伊勢は、「孤独」の手触りを求めてフリーのITエンジニアとなって3年。新型コロナウイルス感染拡大で、お気に入りのジョギングコースには「舌打ちジョガー」が出現する一方、クライアント担当者の佐藤とは彼の自宅からのWEBミーティングを実施、佐藤の妹とも親しくなるが……。
1
ちょっと信じがたいものを見てしまい、僕は足が止まりそうになった。
ジョガーが、彼を避けようとした中年女性とぶつかりそうになり、行き過ぎてからちらっと女性を振り返ると、大きく舌打ちしたのだ。ジョガーはしばらく行ってからカーブのところで再び女性の方を向き、今度は睨みつけた。睨みつけたまま、走っていった。
ジョギングのマナーとして、いやいや、人として、ありえない。
新型コロナウイルス感染拡大で自宅の周りだけで生活する人が増えてから、目立つのだ、ルール無視のにわかジョガーが。
もちろん、にわかジョガーでもマナーを守る人もいるし、長く走り続けているジョガーでもマナーを守らない人はいるだろう。
ただ、少なくとも、この公園においては、ジョガーと通行人とは良好な関係を保ってきた。もちろん、配慮を求められるのはジョガーの方だ。通行人には老人だって幼児だっているし、それに、ジョギングのスピードは、散策する徒歩のペースよりはるかに速い。だから、鈍くさい通行人とぶつかりそうになったからといって、ジョガーは決してそれに苛ついてはいけないのだ。
この公園は、遊歩道、それに一部公道を通ると一周することができて、それで約2キロ。ジョガーにとっては手ごろなコースだ。だから土日には、週末ジョガーでそこそこ賑わうが、これまで、平日は空いたものだった。それが、感染拡大後、リモートワークをする人たちが増えるに従い、ジョガーが増えてきた。
僕はもう何年も、ほぼ毎日走っているので、お馴染みさんでない人が混じればすぐに分かる。
さっきの舌打ち男性も、新顔だった。
僕より20は年上、50歳前後か。きちんとしたサラリーマン風。
おそらく、慣れないリモートワークや外出自粛でむしゃくしゃし、気分を晴らそうと公園にジョギングしに来たのに、ここはここで結構、人が歩いていて、のろのろしている通行人を邪魔に思ったのだろう。
気持ちは分からなくもない。分からなくもないが、そうやってジョガーの印象を悪くされるのはホント迷惑としか言いようがない!
……と、苛ついていたら、僕もまた、舌打ちジョガーと同類になってしまう。
頭を冷やそう。そろそろ、上がろうか。
それで、走るペースを落として、徐々にクールダウンしていく。
今日は4週8キロ。
本当はもう少し走りたいところだけれど、少々寝不足だし、その原因となっている仕事の締め切りが気になる。
僕の住む賃貸マンションは、30平米、やや広めのワンルーム。
良く言えば「ビンテージ」感が漂い、オートロックも無いが、貧乏男子の一人暮らしなので防犯にさほど気を遣うこともない。
ただし、職住完全一致で、日頃から外出は日常の食料品の買い物とジョギングくらい。この部屋で一日平均20時間は過ごすので、暮らし心地は何より重要だ。
僕の住戸は4階にあり、窓からは、いつもジョギングする公園もわずかに見える。
その公園に(かすかに)臨む東向きの窓に向けて、巨大な仕事机、そこにパソコンが2台置いてある。この机は、北欧製のダイニングテーブルを中古家具店で見つけてきた。脇の木製キャビネットには、サーバーと、プリンター。このキャビネットも、同じく中古家具店で買った。こちらは、どこ製かは知らないけれど、よく言えばアンティーク、ありていに言えば廃品利用だ。
壁には、床から天井までツッパリ家具の書棚。棚ごとに、ジャンル分けしてあり、仕事関係のコンピュータ書籍が全体の4分の1程度。あとは、趣味のSF系コミックス、ゲーム関係、アニメ関係、DVD、CD。それが整然と並ぶ。
そして、ミニコンポ、スピーカー。この部屋にあるもので、単体では一番値が張るのが、このスピーカーだろう。
僕は、シャワーを浴びると、キッチンの一人用テーブルで簡単に朝食を取る。まとめ買いしてあるスーパーのプライベートブランドのチョココロネ、バナナ、それに牛乳。以上。村上春樹の小説だと、主人公はささっと気の利いたサンドイッチ、それに本格的なコーヒーなどを淹れるところで、僕だっておいしいものを食べたいのはやまやまだけれど、そんな余裕は、金銭的にも、時間的にも、精神的にもない。
食事を終えると、朝の10時。
さて。仕事を始めなくては。
まずは、音楽をかけよう。
世の中が僕に追い付いてきたみたい、と言うと語弊があるかもしれない。でも、ちょっとそんな気がしている。それは、地元でのジョギングの話だけではない。リモートワークもだ。
僕のリモートワーク歴は3年。大学院を出て大手IT会社に就職したが、いろいろ矛盾を感じることが多くてついには我慢できなくなり、今はフリーのITエンジニアとして働く。どこがどう我慢できなかったのかは、つまりは、上の人たちの不勉強さや、無駄な規則や慣習の多さや、不明確かつ不明朗なキャリアパスや……、まあ、そこら辺のことは、ブログやSNS上にたくさん出回っている。
それに加えて、僕自身が人と「つるむ」ことを嫌う性格であることも否めない。いわゆる「体育会」的な密な人間関係を否定はしないが、そこに巻き込まれるのは、僕にはあまりに辛いことだった。会社組織とは多かれ少なかれ体育会的なのだが、僕の勤めた会社は、どちらかといえば「多かれ」の方だと、後で知った。
そういった息苦しさのすべてを押し殺して(僕だって、ずいぶんと努力はしたのだ)、会社勤めするのは3年が限界だった。
退職の決め手は、就業中に音楽を聴けないこと。
学生時代、僕はいつも、音楽を聴きながら勉強をした。勉強をして、論文を書き、プログラムを組んだ。だいたい聴く曲は決まっていて、バッハの平均律クラヴィーア。特にチェンバロによる演奏が好きで、聴きながら作業すると能率が3割増しになった(厳密な実験をしたわけではない、あくまでも実感ではあるが)。
細部まで極めて緻密に計算され構築された美しく硬質な音楽に満たされていると、僕自身もまたバッハの完全な世界の一部になれたように、精密に、プログラムを紡ぎだすことができた。
だが、僕の勤めた会社では、就業中にデスクで音楽を聴くことは難しかった。先輩のエンジニアの中には音楽を聴きながら仕事をする人もいたし、また、それを許容する人たちもいたけれど、僕の上司はそうではなかった。また、上司以外からも、「新人のくせに」、2年目になっても、「若手の分際で」、「生意気だ」とよく言われた。
これが、僕が退職を決意する決め手となった。こんなことで、などと言ってはいけない。そのほかの積り積もった不満があっての、いわば最後の一藁。
僕は粛々とフリーになる準備を進め、就職後ちょうど3年で退社した。それでもいきなり完全フリーになるのはまったく無理で、そこから半分フリーみたいな仕事の仕方を2年続け、徐々にフリーの度合いを強めていった。そして、完全にフリーのリモートワーカーになってから3年。
前職時代の3倍働き、収入は3分の1、みたいな状況がずいぶん続き、どうにか、暮らしの設計が立ってきたのは、ほんのここ1、2年のことだ。
それでも、納期までにスペック通りのものを納めることができれば、誰も、僕の就業環境に口をはさむ者はない。僕は、就業環境と、それに付随するいくらかの自由を手に入れた。
そして、僕は30歳を過ぎていた。
2
「あ、どうも。伊勢さん、こんにちは」
パソコンの画面の中、クライアント企業の担当、佐藤が顔を覗かせた。WEBカメラに顔を近づけたり遠ざけたりしている様子は、会議アプリ初心者らしさ全開だ。佐藤の会社では、仕事の受発注や打ち合わせは基本対面であり、メールや電話でのやり取りはしても、これまで会議アプリを使ったことはない。
「どうもお世話になります。佐藤さんもついに」
「ええ、ついに、リモートワークです」
少し照れ臭そうなのは、今さらという恥じらいというよりは、むしろ、自分もITを使いこなしているという誇らしさの裏返しか。その様子は、どこか微笑ましくもある。佐藤の会社は介護用品関係の中堅企業だ。IT化が進んでいるとは言えないが、それだけに使いこなすことによる事業改革の余地は大きい。そこを後押ししてあげることが、僕にとっての使命でもある。
「なんか、あれですね、伊勢さん。リモートワークって、孤独ですよね」
佐藤は、ポーズも入っているのだろうが、リモートワークについての最初の感想がそれで、しかも大真面目な表情だ。
これが佐藤でなければ、リモートワークを始めたばかりで何を子供じみたことを言って、職場は仲良しごっこの場所じゃないだろうとでも、言いたくなるかもしれない。でも、佐藤の丸顔には、僕にそう思わせない人懐っこさがある。
「職場では、ほんのちょっとしたやり取りでも、冗談言ったり、あるいは、相手の様子を見て、あれ?体調が悪いのかな、寝不足かなとか、仕事の合間に、共通の趣味の話やテレビの話をしたり、ああ、直接顔を合わせていた時って、ずいぶんたくさんのコミュニケーションを取っていたんだなあって、なんか、もう懐かしくなっちゃって」
佐藤の会社に赴いた時のことを思い起こす。
ブラックだと噂がある企業で、実際、前に仕事をした別の部署の人たちからはそうした匂いがした。僕自身、その空気に嫌悪を覚えるタイプだけに、敏感に感じたのだ。
だが、佐藤はまるで違っていた。佐藤本人だけでなく、少なくとも佐藤の周りの人たちは、みな、やわらかな空気を発していた。それで、おや、と思った記憶がある。おそらくは、佐藤の人柄が、周りの人たちをそうさせるのだろう。
「それが、そういう人と人との触れ合いが、リモートでは全然無くなってしまって……」
佐藤は会社が恋しそうだ。
その時。
パソコンの画面の中、佐藤の後ろに映っていた部屋のドアが開いた。
入ってきたのは若い女で、おそらくは20代半ばくらいだろうか。彼女は不機嫌な顔で、いきなりまくしたてた。
「お兄ちゃん! 何回言ったら分かるのよ! 食べ終わったら食器はシンクに入れるだけじゃなくて、必ず、水を張っておいてって」
佐藤は、彼女――おそらくは佐藤の妹の方を振り返る。
「あ、彩菜…」
「あれ? 何してるの? お兄ちゃん、パソコンで動画見てるなんて珍しいね?」
妹がパソコンに近づく。
妹の顔が、僕のパソコンの画面の左上で大きくなる。
ああ、確かに妹だ。
佐藤によく似た丸顔。丸い目、丸い鼻、丸い唇。
それで、佐藤を女の子にすると、意外と可愛らしいのだと気づく。
「あ、彩菜、ダメ! ちょっと」
「何、隠してるの」
妹は、何か良からぬことでもしていると疑っているらしい。そういう声だ。
パソコンを通じて、妹と目が合う。
そこで初めて(うかつなことに)、僕の姿もまた、妹に見られているのだということに気づいた。在宅でも身なりのきちんとした佐藤に比べ、僕は髪は伸び放題で、オレンジ色のポロシャツ姿だ。
「あ、何、えっと、こんにちは」
挨拶されて、つい、僕も、
「あ、どうも」
と、パソコンの中の彼女に向かって、慌てて中学生男子のように曖昧な会釈をした。
佐藤は妹に、
「彩菜、今、仕事中だよ!」
と言ってから、パソコンに(つまりは僕に)向かい、
「どうもすみません、何か、お恥ずかしいところをお見せして」
と謝った。
「嫌だ、仕事なら前もってそう言ってよ」
妹はそう佐藤に文句をつけ、そして僕には、
「ごめんなさい、わたし、知らなくて、邪魔しちゃって」
そう言って、微笑んで頭を下げた。
スーパーの店員さん以外で年下の女性と言葉を交わしたのは、もしかすると、1年以上ぶり、いや、もしかしなくても、1年以上ぶりのことだった。
僕にはここ数年、仕事の関係者との仕事以外での接触というものは基本的にない。さらには仕事以外での関係者については、――そもそも、実家の両親、それに兄夫婦、そんなものか。昔の友達や同僚とはSNSで繋がってはいるが、彼らとも、リアルで顔を合わせることはほぼない。
あとは、毎日のジョギング。
顔を合わせるのは、舌打ちジョガー。ああ、かなり残念。
5日後。
再び、佐藤とのWEBミーティングで、僕はパソコンを繋ぐ。
定時になり、画面に、佐藤が現れる。
あれ?と思う。
佐藤の顔に、いつものような、テカリがない。
いつもは佐藤の顔には、純正オリーブオイルが適量まぶされているような、油ぎった感まではいかない、ほどよいテカリがあるのだが、今日は、それがなく、なんか、パサついて見えた。
「佐藤さん、元気?」
「ええ、元気ですよ」
と笑顔はいつも通りの佐藤。
すると、前回同様、また佐藤の後ろのドアが開いた。
彩菜が現れる。
「あ、彩菜、今日はちゃんと仕事だって言ったでしょう」
でも彼女は兄の言葉を意に介せず、
「さっき頼んだでしょ、麦茶」
麦茶をテーブルに置いた。
置いて、パソコンの中の僕に向かって、
「こんにちは」
愛想のいい子だ。
「どうも」
僕も、前回よりはまともな会釈が出来た。
「いつも兄がお世話になっております」
「彩菜、ありがとう、はい、もういいから」
「これがホントに家にいらしているのなら、伊勢さんにもお茶をお出しできるんですけど」
「あ、お構いなく」
そう答えてから、何か、答えとしては変なことに気づく。でも、まあ、ここはやっぱり、お構いなく、か。
「それでは、ごゆっくり」
佐藤は妹をようやく部屋から追い出すと、僕にひとしきり、謝った。
「ホント、すいません、まったくしょうがない妹で。去年、転職して東京に出てきまして、お金がないから住まわせろって居ついちゃって」
「いや、仲の良いきょうだいでいいですね」
可愛い妹さんがいて、と言いそうになったが、変に警戒されても嫌なので、止めておいた。
「いや、何かね、こないだ、パソコンで伊勢さんと顔を合わせてから、伊勢さんってイケメンじゃないとか言い出しまして」
佐藤の方には僕を警戒する気はまったく無いようだった。しかし、僕のおよそ30年の人生において、イケメンと言われたことは無いぞ。
僕が、
「はあ」
と曖昧な受け答えすると、佐藤は続けた。
「それで伊勢さんのことを根掘り葉掘り聞かれたんですが、聞かれてみて、あれ?伊勢さんのことって全然知らないなって。――あ、すみません、別にプライベートに立ち入る気は」
「いいですよ」
別に隠すほどのものは何もない。
「ご興味あれば、何でも聞いてください」
「あ、そうですか?」
「興味ありますか?」
「そりゃ、もちろん」
「妹さんでなく、佐藤さんご自身も僕に?」
「そりゃ、そうですよ。だって、こうやってご縁を頂いて、仕事をご一緒するんですから」
ほおおおおと、僕は「お」が何十個も並ぶくらいに、ビックリした。僕は、仕事先の人について、そんなふうに考えたことは無かった。
「じゃ、まず、何から聞こうかな…」
佐藤は、それでも失礼のないようにと気をまわしているようだったので、僕の方から切り出した。
「僕から自己紹介しましょう。伊勢健輔、30歳、独身です。ええと、趣味はですね、ジョギングかな」
佐藤とはもう2年近い付き合いになる。
でも、こうしたことを、僕は何も佐藤に伝えてはいなかった。
それから佐藤とは、そんなふうにWEBミーティングを何回か行った。都度、ちょっとだけ、彩菜が顔を覗かせた。もちろん、女の子に興味を持たれるのは、悪い気はしなかった――というか、期待が過剰に膨らまないようにと、気を付ける必要があった。
僕と佐藤、それに時には彩菜も、ミーティングのたびに、無駄話をした。それで、佐藤きょうだいが僕のことを知っただけではなく、僕もまた、彼らのことを知ることになった。佐藤の実家は熊本。父親を早くに亡くし、実家には母親が一人で住んでいて、古希を過ぎたがまだ元気。しかしスマホも使えず、もちろんパソコンもダメで、コロナが流行り始めてからは、佐藤が毎日、実家に電話をしている。
それに、佐藤きょうだいの家は、意外にも、僕の家からそれほど遠くはなく、ジョギングでちょっと飛ばせば30分余りの距離だと分かった。
実際、僕は、ジョギングしながらも、ふと、佐藤のこと、それから佐藤の妹の彩菜のことを思い出すようになった。それで、いつもとコースを変えて、佐藤の家の方まで行ってみようかと思ったりした。そんなことは、初めて、とは言わないまでも、とても久しぶりのような気がした。
他方、例の舌打ちジョガーは、しつこく、出没していた。相変わらず、マナーは悪く、目にするたびにげんなりさせられた。
させられたが、まあ、こんな時期だし、しょうがないかと、少し自分の心が広くなったような気もした。
でも、僕の幸せな気分は、そんなに長くは続かなかった。
3
その日、パソコンの画面上に現れた佐藤の様子は明らかに変だった。
ひどく顔色が悪い。
目の下にもはっきりと隈が出来ている。
「佐藤さん、大丈夫?」
「ええ、全然、大丈夫ですよ」
佐藤は笑って見せるが、得意なはずの笑顔が引きつっている。
「佐藤さん、それ、大丈夫じゃないですよ」
まず気になるのが、コロナの感染だ。
「熱や咳は? あと倦怠感?」
「いえ、そうじゃなくて。――原因は分かっているんです」
「え?」
佐藤は少しの間、沈黙した後で、
「眠れないんです」
と、ポツリと言った。
「多分、ストレスです。おかしいですよね? 私なんて、感染リスクの高い仕事をしているわけでも、高齢者や小さな子供を抱えているわけでもないのに」
「いやいや、僕みたいに元から自粛生活しているみたいな人間とは違って、佐藤さんは、会社でいろんな関係者の調整をやってきたわけだから、それをリモートっていうのは大変でしょうし」
そうだ、彼は僕とは違うのだ。
佐藤はそれでも何とか笑顔を作った。
「気を使っていただき、ありがとうございます。すみません、大丈夫なんで、打ち合わせを始めましょう」
それで僕たちは、いつも通り、プロジェクトの進捗確認や仕様変更などの話を始めた。でも前回までとは違い、無駄な話はまったく無し。打ち合わせは短時間で終了し、彩菜が部屋に現れることもなかった。
佐藤きょうだい、ホントに大丈夫だろうか。
パソコンの前から離れても、僕の頭の中からは、しばらくの間、佐藤のしおれてしまった丸顔が消えなかった。
それから、佐藤きょうだいのことが、ずっと気にかかった。
ジョギングしていても、シャワーを浴びていても、食事の後片付けをしていても、ふと、彼ら二人のことを考えていた。
このまま、佐藤が回復すると良いのだが。
それでまた、来週の打ち合わせでは、元気なテカリ顔を見せてくれると良い。
もちろん、彩菜も。
でも残念なことに、すぐに、僕の心配は現実のものとなった。
2日後、彼の上司からメールが来た。佐藤が体調不良のため、翌週のWEBミーティングはその上司と行うとのことだった。佐藤は、不眠症が悪化したのだろう。
もちろん、僕に何ら不満を言う資格はない。ないのだが、僕は佐藤と仕事をしたかった。彼との共同作業が好きだった。それに、パソコンの画面の向こう側に彩菜が顔を出し、ちょっとした世間話をするのも、楽しみだった。
あー、と僕は仕事机で長い溜息をついた。
佐藤はきっと無理をしていたんだ。無理して、コミュニケーター足ろうとして。それが、パワハラ気質と言われるあの会社で生きていくための、佐藤なりの処世術だったのかもしれない。きっと、佐藤のあの丸顔は、ストレスをため込んで膨らんでいるのだ。
佐藤に見舞いのメールを打ったが、返信は来なかった。
かなり具合が悪いのかもしれない。
彩菜は、どうしているだろう。
仲の良い兄の一大事に、しかもこの難しい状況下で、うまく対応できているだろうか。
医師やカウンセラーには相談できているのか。
兄の会社とは、うまく話が出来ているのか。あまり良い噂を聞かないあの会社と。
去年、東京に出てきたばかりで、頼れる人はいるのだろうか――。
いやいや、僕がここで心配してもしようがない。
僕と佐藤は、クライアント企業の一担当者と、複数あるシステム発注先のうちの最小の一社、そこの個人事業主に過ぎない。
だから、もしこのまま、佐藤が休職ということにでもなれば、あるいはそこまで行かなくても担当が変わってしまえば、もう僕は佐藤と、それに彩菜とも、ああして、どうでもいいようなことを話すことはないだろう。
それはもちろん、そうだ。
仕事上のつきあいとは、そういうもの。
今回は、今までが、とてもイレギュラーだったのだ。
4
久しぶりに、夜更けにジョギングに出た。
まだサラリーマンをしていた頃には、いつも帰宅後、就寝前に走りに出た。当時の僕にとって、ジョギングとは夜間にやるものだった。
あの頃暗い中を走っていると、一人になれたという強い実感が得られた。何でもかんでも集団行動、集団責任みたいな会社のやり方が嫌で、僕はとにかく一人になりたかった。「孤独」の手触りが欲しかったのかもしれない。
今、フリーになり、集団を強いられることは無くなった。当時に比べれば、圧倒的に「孤独」になった。
望んでいた「孤独」。
自由、気まま。
ただ、この「孤独」というものについて、考えを改めるところもある。
僕は実は、会社勤めしていた時も、本当は「孤独」だっだのではないか。最近は、そう思うようになった。当時は、たしかにいつも誰かが近くにいて、ごり押ししてきたり、干渉してきたりで、理不尽で、本当に嫌だった。だから、僕は「孤独」ではないし、「孤独」になりたいと思っていた。
でも、そこでの日々が過去のものとなり、後から振り返ってみると、僕の中には、仕事面での技術や経験を除けば、失いたくないものが何も残っていないのだ。僕は会社で多くの人たちと共に時間を過ごしながら、何も受け取ることが出来ず、何も拾い集めることも出来ず、おそらくは何も与えることもなしに来たのだ。それって、いくら周りに人がいても、実は十分に「孤独」だったのではないか。
僕は、結局、どこに行っても、ホントのところでは「孤独」なままなのでは。このまま一生――。
ジョギングコースが公園の遊歩道に入る。疎らな街灯が木々の闇の合間、遠くにぽつん、ぽつんと浮かんでは近づき、過ぎていく。
さすがにこの時間は人がほとんどいない。緊急事態宣言前と変わらない。
ジョギングのペースを上げていくと、次の街灯、その光の輪の端にじっと佇む人影が見えた。
あ…。
例の舌打ちジョガーだった。
彼は、公園の上の方を振り仰いで、何かをじっと見ていた。
公園の空気感が、昼間とは全然違う。昼間のように、互いが互いのうちに入ってきそうな窮屈な気配はまるでなく、夜の中で、僕たちは完全に分離され一人一人だ。
そのせいだろうか、舌打ちジョガーは苛立ちの気配をまったく漂わせず、哲学者のように静かに立っていた。
僕はジョギングのペースを落とし、そして、彼の横で立ち止まった。
彼は僕に気づき、ちらっとこちらに視線を向けた。彼は、
「ミミズク」
と小さく短く言った。
「え?」
聞き返すと、
「ほら」
木々の暗い塊の、梢の方を指さし、
「あそこ。ミミズクが止まっている。珍しいだろう? 時々、ここらへんに来るんだ、あの個体」
舌打ちジョガーの声は、ミミズクを気にしているのか、やわらかな囁き声だった。
目を凝らすと、たしかに比較的大きな鳥の影があった。しばらくそうしていると、目が暗さに慣れてきた。ミミズクの姿が次第にはっきりとしてくる。
僕にはそれが、ミミズクなんだかフクロウなんだか、分からない。でもその鳥は美しかった。一羽で静かに、そのくせしっかりと存在感を持ち、凛として、悠然として。
僕たちはそこで数分の間、魔法にかけられたようにじっと立ち止まって、ミミズクを見ていた。その間、ミミズクは全く動くことはなかった。
遠くで救急車のサイレンが聞こえ、ミミズクの魔法は解けた。
「あの――、それじゃ」
僕はそう言って、先に走り出した。
背中で、「ああ」だか、「おう」だか、舌打ちジョガーが返事をするのが聞こえた。
僕はペースを上げた。それに伴って再び、遊歩道の街灯が近づいて来ては、後ろに消えていく。
野生のミミズクを見るのは初めてだった。そして、舌打ちジョガーと話をするのも。彼に限らず、ジョガーと立ち話することだって、あまり無かった。
僕は小学校から高校まで、体育が嫌いだった。どちらかというと運動神経には恵まれず、でも、比べられ、競わされ、良い記憶がない。走るようになったのは、大学生になってからだった。誰に強制されるわけでもなく、ただ何となく走り始めて、そうしたらどんどん楽しくなった。これもまた、一人の世界だと思った。ジョガー友達を作って宴会をしたりする人もいたけれど、僕はそっちには行かなかった。
凛としてそこにいるミミズク。
僕は、そんな立派なものを目指したわけではないけれど。
そして僕は走りながら今再び、――どうしても、佐藤きょうだいのことが気になっている。
まったく見当外れな擬人化なのは分かっているのだけれど、あのミミズクならば、佐藤のところに連絡を取ってみるだろうと、僕は思うのだ。
1周約2キロを走ったところで、時間を確認しようとスマホを付けたら、メールが入っていた。着信は数分前。佐藤からだった。少し日が開いたが、見舞いメールの返事だろう。
良かった、返事くらいは打てるのだ。
僕は立ち止まり、メールを開けた。
差出人アドレスは佐藤のものだ。だが、文面は彩菜からだった。
短いメールだ。
「兄は、当分仕事は難しそうです。もし兄一人だったら大変でした。私がいて良かった。私がいるから何とか。WEBミーティング、お邪魔できて楽しかったです。」
メールを読んで、考え始めたらダメだと思った。
その前に動こう。
「何か、僕に出来ることはありますか?」
思ったことをそのまますぐ、メールで返した。それから、スマホをポケットには戻さず、手に持ったまま遊歩道を歩いた。
予感があったから。
僕の予感はたいてい外れるけど、どうだろう。
すぐにまた、着信があった。
予感が当たった――!
メールは彩菜からだった。
「はい、伊勢さんに出来ることあります。時々でいいので励まして、ください」
変なところに句点が入っていて、でも、却って思いが伝わってきた。
僕は、そのメールにまた返事を打った。
「じゃあ、行きます」
すぐに返事が来る。
「ホントに? たとえば時間があったら、明日とかでも良いですか?」
「何なら、今からでも」
今度は電話が鳴った。
「今から来てくれるんですか?」
「迷惑で無ければ」
僕は話しながら走り出した。
「迷惑ではありません」
まさか走りながら電話するなんて思っていなかった。だから、通話用のヘッドセットもなく、僕はスマホを耳に当てながら走る。
「今、外にいるんです。ジョギングで。だから、このまま走って行こうと思います」
スマホの向こうで、彩菜が笑った。
「じゃあ、麦茶を冷やして待っています」
僕は遊歩道から公道に出た。
夜間の人出は少ない。車も通らない。
夜の11時ではなく、午前2時のようだ。
ああ、辛かったのは僕だったんだと、その時はっきり気づいた。
幼い頃から、学校時代も、そして社会人になっても、30歳を過ぎた今までずっと、違和感を抱えながら、僕はいわば「長距離」を走ってきた。
その間僕は、実際、孤独で辛かった。それなのに、孤独であることにすら気づかずに「孤独」を欲し、形として「孤独」を手に入れてそれでようやく、少しずつ、自分なりの「走り方」をマスターしてきた。やっと走れるようになってきた。
今は多分、まだ転倒するかもしれないけれど、いや、きっと転倒するのだろうけれど、もっと速く走ってみたいと思うようにもなってきている。佐藤きょうだいと一緒に走りたいと思っている。
僕は走る。
街は眠っていて、本当にしずかだ。




