ミミズクを見に~2021・初夏~ 俊也2
遅番のバイトを終えてアパートに戻ると夜の10時半。
立ち仕事なので結構、かったるくなっているが、それでも俊也は綿パンからトレーニング用のハーフパンツに履き替え、食事を摂らずにそのまま、また表へ出た。
今日は気持ちを良い感じに保てている。そういう日は疲れていても、無理やりにでもジョギングに出たくなる。
隣の陽菜の部屋、明かりが点いているから家にいるみたいだ。でも、今日はちょっかいを出してこなかった。まあ、そう言う日もある。
俊也は玄関の前で少しだけ足首を回し、アキレス腱や何かのストレッチをして、そこから静かにゆっくり走り出す。道に出て夜空を見上げると、まだまだ大きくてまるい月。でも、すこし痩せてきた月。間宮あさみが「月がきれい」とLINEして来た日がちょうど満月だった。そこから3日。あーあ、もう月は欠けていくだけ、と思うのか。それとも、まだまだ月はきれいだよと言うのか。
人生の「満月」って、ピークって、いつなんだろう。もちろん、そんなのは人それぞれだけど、じゃあ、自分は――?
アスファルトを蹴り、少しずつペースを加速する。
自分は、もしかして、中1かもしれない。
中学、高校と、陸上部にいた。中1の時は、どの種目をやっても敵なしだった。振り返ってみればそれは、背が伸びるのが他の子より早かったのが最大の理由だと分かるけれど、当時はそんなことは考えない。同じ学年にはライバルがいなくて、それは陸上だけじゃなく、勉強も、それに女子にモテるという意味でもそうで、まさに人生の満月。家に帰るとそんな満月を覆い隠してしまう兄という存在があったけれど、学校では俊也の天下だった。
そんな、俊也の満月時代は長くは続かなかった。月は、少しずつ、でも着実に細くなり。
発育遅めの同級生たちが日々、俊也に体格だけでなくて、陸上の記録でも追い付き始め、やがて、追い抜くようになった。俊也は、短距離で、幅跳びで、高跳びで、次々に1番ではなくなり、2番でもなくなり、ならばと努力と努力と努力でなんとか死守してきたのが長距離だった。
それでも高校時代に出した記録は平凡で、インターハイなんか、夢のまた夢だった。
それなのに不思議なもので、俊也は、いつの間にか走ること自体が好きになっていた。これはもう、性に合ったとしか言いようがない。大学に入ってからも、体育会陸上部や陸上系の同好会にこそ入らなかったけれど、気が向くとふらっと走ってきた。
街を、川沿いを、公園を、24時間、いつでも。
晴れの日ばかりではなく、雨の日にもカッパを被って。雪の日にも手袋をして。
誰と競うでもなく、走るために走る。思うままに走る。
それすら止めてしまったのは、会社を辞めてからだ。
そして、それをまた復活させる気になったのは、間宮あさみからのLINEがきっかけだった。
退職してしばらく何もする気が起きなくて。
会社を辞めてしまったことは、むかしの友だちや知り合いには言いたくなくて。それで、友だちからのLINEやメール、SNSはすごく適当に返していて。そうするうち、俊也に届くメッセージも減っていき。
でもそういう中にあって、間宮あさみは、ずっと俊也にLINEを送ってきた。それもだんだんに頻度が上がり、いつの頃からか、写真付きで空の様子を呟くLINEが多くなった。
「朝焼け、これから良いことが始まりそうな、きれいでたくさんの種類の青です」
「なかなかに逞しい感じの雲です。これなら雲の上でジャンプしても平気なのでは?」
「なんかすごい空のいろです。夕焼けは茜色のはずなのに、これは紫? ラスボスが降りてきて世界の終わりが来そうです」
そういう「空模様LINE」の中でも、間宮が一番多く送ってきたのが、月の写真だった。はじめは、あまり上手くなくて、小さくてぼやけていてパッとしなくて。それが、日を追うごとに、ほんの僅かずつながら上達していった。
そして。
「きれいな空の写真を集めてるんです。もしよかったら、俊センパイも空の写真、送ってもらえませんか?」
そのメールを貰った時にはもう、俊也は少しだけ立ち直っていた。ハナコのバイトも始めていた。気持ちに少しだけ余裕が出来て、会社を辞めてからのこの半年あまりを振り返ってみることも出来るようになっていた。そうすると、すぐに気がつくことがある。ずっと送られ続けていた間宮からの空の写真は、一番沈んでいた時の俊也にとって、外界への唯一の「窓」だった。そこからの光で、どうにか息をしていた。
じゃあ、これまでのお礼に、俺も間宮に写真撮って、送るか。
でも、日中にぶらぶら近所を歩いて空の写真を撮るのも何だかな、と思った。傍から見ればまだ外見は大学生みたいなもので、だから別に、平日の昼間にふらふらしていても不審者然としてしまうわけでもないのだろうけれど。それでも、自分の同級生たちがみんな、きちんと社会に組み込まれて居場所を得て働いている中で、さんさんとした太陽の光を浴びながら、そのへんを散歩、という気分にはならなかった。
だからまずは、太陽が引っ込んだ夜に、出歩くことにした。ただぶらついているだけでは、それこそ不審者になってしまうので、それで、走ってみることにした。
走り出してしまえば、昔の感覚を思い出すまでは、すぐだった。
あれ?
あれれれ?
走り出したその日、その瞬間から、身体がすいすいと前へ動いていく楽しさが蘇ってきた。
最初の頃は、さすがにすぐにへたってしまったけれど、でも、何日もしないうちに、スピードは上がり、距離も伸びて。
それで、ジョギングの途中、小休止している時に、空の写真を撮った。
といっても夜なので、月の写真ばかり。
明らかに下手くそな、ぼけぼけの写真を、どうしようかと思い、何日かは撮っても送らずに捨てていた。
走ることと違って、写真の技術はなかなか上達しなかったけれど、それでも撮り続けているうちに、間宮に見せてみたくなってきた。
こんなの送ったら、俊也センパイのイメージダウンだなあと思いつつ、なに言ってんの? 会社辞めちゃって引き籠っていたくせに、それ、何のプライド? という自分への苛立ちもあったりして、それで、まあいいかと、ジョギングの信号待ちの間に送信した。
「わあ! ありがとうございます!」
すぐに、大量の絵文字に囲まれたサンキューのリプが返ってきた。
あ、俺が送るの、待ってたんだな、と分かった。
俺なんかが送るのを。間宮は今の俺を知らないから。ばかなヤツだな。
それでも、喜んでもらえてうれしくて、俊也は走りながら自然、笑っていた。
いつものジョギングコース。俊也は、すいすいと走り、街を抜け緩やかな坂道を下りて、公園に入る。大きな公園で、ちょっとした森や池があって、それらを縫うようにジョギングコースが作られている。
もう夜半に近いけれど、意外とジョガーはいる。
それも幅広いタイプの人たちが走っているのだ。古希を超えてそうな、でも歴戦の雄姿を感じさせる走りの爺さん、コロナ太りを気にしてといった感の中年管理職風の男、この辺は治安はいいけどちょっと心配になるような若い小柄な女の子、子供を寝かせておいてひとっ走りという体のバイタリティー系の女性などなど。
そして、あの人がまた、いつもの場所で、木々の梢を見上げて佇んでいた。
俊也は減速して、その人の横で立ち止まる。
「こんばんは」
声を掛けると、
「ああ、どうも」
彼は柔和な笑顔をみせる。
「いませんか?」
「いませんねえ。去年はこの時期だったんだけどなあ」
「相変わらず、毎晩、来てるんでしょ?」
「ええ、そうです、毎晩来てますよ。何だかねえ、私が来ない時に限って、あいつがいるんじゃないかみたいな疑念、っつうか、不安? いや、これ、強迫観念みたいな」
「そこまでですか?」
「いや、ちょっと大げさ」
彼は少し照れて、それから、
「でも、見たいんだよねえ、もう一度」
そう、しみじみと呟いた。
「ですねえ。僕も見てみたいですよ、ミミズク」
俊也がこの男に声を掛けたのは、数週間前のことになる。
俊也がジョギングをするのは週に3、4回だが、そのたび必ず、この男がここで梢を見上げているのだった。
何かいるんだろうな、とは思ったけれど、毎回、スルーして走り過ぎていた。
それがその夜は、LINEで間宮と月の写真の交換をした後で、何だか少しだけ気分がハイになっていて、それで男に、何かいるんですかと、尋ねてみたのだ。
男は、「異国の王女を匿っているんです」、みたいな調子で、囁き声で、俊也に答えた。
「ミミズクが来るんです、ここに」
「え? そこにいるんですか?」
「いやいや、今はいません。でも、去年、来たんだよね、ここに。ちょうど初夏の今頃。だから、また来ないかなあと思って」
「ミミズク、……ですかあ。野生では、見たことないなあ。っていうか、動物園でも、見たことはあるんだろうけど、正直、フクロウとの区別、つかないなあ」
俊也がつい呟くと、
「ははははは」
男は今度はあっけらかんとした笑い声をあげ、
「私もよく分かんないんだよね、ミミズクとフクロウの違い」
「でも、今、ミミズクって」
「いや、うん。何か、語感が好きだから。ミミズクの方が」
ミミズク、フクロウ、と俊也は口に出してみる。
「あ、たしかに、ミミズクの方が良い感じかも」
「そうでしょ? そうですよね」
それで、2人で、ばかみたいに笑った。
その夜から、俊也は、男を見かけると声を掛けるようになったのだ。
ミミズク男と1、2分、雑談をして、俊也はまた走り出す。
今晩もまた、写真を撮って間宮に送ろうと思っているのだけれど、ワンパターンな月の写真を送るという行為に、間宮はそれをどう思っているかよりもむしろ、自分で嫌気がさして。そうなると良い被写体を探してしまうのだが、でも、そんな心得もセンスもなく、さてどうしたものかと、辺りを見回しながら走り続けることになる。
やっぱり、間宮も飽きてきたのだろう、写真付きでLINEした後のレスや食いつきが弱くなってきている気がする。
俊也は公園を抜けて、川沿いの緑道に出た。
川の両側に点々と街灯が続き、家並みが続き、空高くに月が浮かぶ。
俊也の好きな景色だ。
でも、この構図の月と街は、もう何回か、間宮に送ってしまった。
さて、どうしようかな。
ここは公園よりも走りやすいので、自ずとペースが上がる。
ああ、どうしようかな。――どうしようかな。
いくら走っても月は近づかない。
周りの街の景色は少し変わるけれど、時々、雑木林や木立が出現したり(それは公園や神社だろう)もするけれど、大枠の眺めは、数キロ走ったところで変わるものでもなく、その中を走り続けても月はあくまでも遠く。
シャッターチャンスないかな、ないよなあ。
どうしようか。これから、どうしようか。このまま走っていって、それで……。
そんなことを思いながら、俊也は夜を走る。